5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

麻布の坂

2018-12-20 21:51:53 |  文化・芸術

現役時代に勤めた会社の東京営業所は山王日枝神社の崖下にあった。

出張の時は東京駅から銀座線に乗り、赤坂見付で降りて溜池に向かって外堀通りを歩く。ビル裏手は崖、その上が永田町になる。通りの反対側もけっこう急な坂になって上がり、青山方面へとつながっていく。

丘に挟まれた外堀通りがいちばん低地にあるというわけだ。NHKの「ぶらタモリ」なら、得意になってこのあたりに坂の多い理由を説明してくれるだろう。

赤坂(ローム層の赤土が多かったのか)を筆頭にして坂と名のつく地名は、三宅坂、紀伊国坂、丹後坂、稲荷坂、乃木坂などなど。山手線の新駅に「ゲートウェイ」などという一見モダンな横文字をつけるバカもいるのだが、一方で、江戸の名前が今も生きているのは、まことに結構なことだと思う。

六本木近辺には仕事に関係する業者たちも多かったせいで、六本木通りもよく行き来したものだ。このあたりも緩い坂になっている。アークヒルズの左手一帯は麻布の高台、それを降れば芝へとながる。

文豪・永井荷風が大正9年に新築し昭和20年の空襲まで25年暮らした「偏奇館」という洋館も麻布の市兵衛町にあった。今はその跡地に記念の石碑が残っている。

「冬空や麻布の坂の上り下り」

昭和13年発行の「自選荷風百句」に収められている佳句だ。今から80年ほど前の東京の気分というより、江戸の市井風景を切り取った句のようでもある。荷風といえば随筆もよくする小説家だというわけだろうが、尾崎紅葉や岩谷小波についた俳人としても優れていたわけだ。

偏屈で奇人の暮らすという意味なのだろう。偏奇館では短い結婚生活もしたが、その後は独りで済み続け、小説や随筆を書きながら、花柳の巷にも出入りした。終戦前の東京大空襲で偏奇館が焼けてしまった後は、各所を流寓しつつ、自由な晩年を楽しんだといわれる。

麻布は坂の町だ。荷風もそのたくさんある坂を上り下りしながら用を足し、食べたり遊んだりしたことだろう。

「寒き夜や物読みなるる膝の上」

 


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