サラリーマン、単身赴任で寺社めぐり。

単身赴任に彩りを。。
寺社に行き尽くして素敵な仏像たちと出会いつつ、食・酒を堪能する旅に出てみました。

【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑥

2017年04月12日 | 
コンパクトな境内である。
中門から正面に西金堂、右手に本堂が配置されている。
かつては、手前側に東金堂があったらしいが、廃仏毀釈を受け、消失してしまったらしい。


<西金堂>

<本堂>


話が脇にそれてしまうが、ここで「廃仏毀釈」について触れておきたい。
古来、日本においては、神々が尊ばれていた。縄文時代からの自然崇拝、あるいは精霊信仰から発したもの、あるいは、天皇を中心とした貴族を祀るものであり、人々の生活文化に深く浸透してきたのである。
そんな中、六世紀に入ると、大陸から「外来の」思想である仏教が伝来し、浸透していく。その当初、有力豪族の代表格、仏教導入派の蘇我氏と、神道崇拝派の物部氏の対立が起こり、血を見る戦いと発展することとなるのであるが、蘇我氏が勝利し、仏教が一気に普及し始める。
ところが、その後、凄いことに、神と仏は、この国の中で融合の道をたどっていく。お互いに尊重する(あるいは利用し合う)関係性を構築、維持していくのであるが、これが、神仏習合(神と仏が習い合う)と言われるものだ。
具体的には、寺に「鎮守社」として神社が建てられ、また、神社に「神宮寺」として建てられる、といった形である。
また、神仏習合は、歴史の流れの中で、さらに発展型と化していく。「神は、仏が仮の姿となって現れたもの」とする「本地垂迹説」や、その逆の「神本仏迹説」がそれだ。これによって、融合の道は、さらに深まり、この世界、実に約千二百年もの間、続いていったのである。
しかしながら、この関係、明治政府の誕生を期に、ついに終止符が打たれることとなってしまう。

慶長十七年(一六一二)、江戸幕府は、キリスト教禁止令を出して、その普及を阻止する。同時に、幕府は民衆のすべてを必ずどこかの寺院に所属させ(檀家制度)、寺院に民衆の身元証明をさせた(寺請制度)。
寺院は、民衆を監視する役割を担うこととなり、次第に強権的な存在と化していく。お布施の強要、寺院改築費用を名目とした経済的負担の強要などが横行するようになったのだ(仮に民衆が、こういった強要行為を拒絶すると、仕返しに、寺院から寺請の拒絶を受けてしまいかねず、そうなると、自身の社会的保証がなくなってしまうことから、これに従わざるをえなかった)。
そしてさらに、僧侶の乱行や、僧階の金銭売買なども行われるようになる始末…。
民衆の、寺院に対する反感は、次第に極限へと向かっていったと言えよう。
また、当時の国学(復古神道)の影響も大きかった。
賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤や本田親徳といった学者陣が、儒教や仏教を排除して、日本古来の純粋信仰を尊ぶ「復古神道」を唱え、大きな影響力を持つようになっていた。

そんな空気が充満している中、江戸幕府は倒れ、尊皇を掲げる明治政府が誕生、天皇を頂点とする中央集権国家を構築しようと、神道の崇拝を推進する。そして、余計な「付随物」を取り去ろうと、今まで、ともにあった、神と仏を引き離すべく、神仏分離令を発したのである。
これを機に、もうメチャクチャなこととなる。寺院に対する、あまりにも激しい破壊活動が公然と行われた。
廃仏毀釈(仏を廃し、釈迦を毀す)である。
跡形もなく潰されたり、没収され、二束三文で払い下げられたりした寺院、徹底的に破壊された仏像たち、多数…。神社への鞍替えを余儀なくされたり、廃寺とされた寺院、多数…。
例えば…
それまで、五十六もの坊や院を有し、「西の日光」と称される大寺院であった奈良県の内山永久寺は、跡形もなく、全てが破壊された。
千葉県の鋸山、五百羅漢像、全ての像が破壊された。
現在は国宝に認定されている興福寺五重塔は、没収され、わずか二十五円で売りに出され、薪にされようとしていた。
鹿児島においては、一六一六もの寺院が廃寺とされた。
源平の戦で命を落とした安徳天皇を祀った山口県の阿弥陀寺は、神社(赤間神宮)に転向しなければならなくなった。
怒りや主義主張はあってもよい。しかし、だからと言って、このような暴力行為が許されるなどと、わたしは決して思わない。
著名な東洋哲学者、梅原猛氏は、
「廃仏毀釈がなかったならば、国宝とされるものが、現在の優に三倍は存在していただろう」
と嘆いた、ということであるが、只々、あまりにも許しがたい、無惨な事件だったとしか言いようがない。


<興福寺五重塔>


【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑦ へ続く







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