東京都の社会保険労務士のデイリーブログ

シンクロ社労士のデイリーブログ!人事労務のワンポイントレッスン。

プロフィール【夏休み特集】

2018-07-28 22:42:41 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、社労士事務所の弊社に事務手続きをご依頼に頂くに辺り、ご不安なところ、ご心配な私の経験について、私の経歴をかいつまんで詳しく書きたいと思います。

まず、
平成9年3月(1997年)
私は大東文化大学の国際関係学部を卒業いたしまして、高校時代に南半球のニュージーランドに約2年ほど留学しておりました関係で、国際関係学部を志望しておりました。

日本にそもそも戻ってきた理由として、これからの時代は日本の時代だと当時海外から日本を見て確信しておりましたので、帰国後半年の大学受験生活を経て三流大学ではありますが、国際関係学部へ入学し、主に東アジアの中国を専攻致しました。

サークル活動では、主に国際法研究会に在籍し、当時の国際法学者の上智大学の山本草二先生にあこがれて、講義されていた法政大学の授業を当時の友人の伝手(つて)で毎回聴講(ほぼ1年間)したりと、人には語りずらいことをしておりました。

その代わり、山本先生の海洋法の本を、丹念に声に出して何回も読んだり、本一冊ノートに写したり書き出したりして、授業の余韻を楽しんだり。その他国際交流センターのようなところで小中高生のキャンプのリーダーとしてのボランティアをして夏と冬は過ごしたり、

アルバイトとしては、市民プールの監視員をしたり、市立図書館の図書館員を務めたり。

もちろん国際法研究会では国際法を使って模擬裁判の大会優勝をめざして(優勝は専ら東大、京大で)、日々国際法漬けの学生生活でしたけど。

大学2年生(20歳)前後
に、メンタルの疾患を患い、学業もそこそこに卒業だけし、他の同級生より半年以上遅れで、親の薦めで当時通産省管轄の機械振興会館内にある業界の中小企業為の厚生年金基金にハローワークの一般求人からの応募で正社員として、

平成9年12月(1997年)
に入社したことが、そもそも社会人のスタートでした。高卒の、やり方がブルドーザーのような上司に初めてつき、今だったら楽しくやれるのにと後悔の念は否めませんが、実は当時は、公務員の外務専門職員(外務省の専門職員)になることを諦められずにいました。

1年そこそこで平成11年1月(1999年)
でその基金を辞め、もう1年その勉強を再開します。自分は、国際的な仕事にあこがれていましたし、さらに公務員であればいいだろうと考えはシンプルでしたが、メンタルを病んでの勉強に諦めが先に立ち、結局断念。

なぜなら、その頃服用していた薬を身勝手な判断で徐々に止めたのです。それがさらに事態を悪化させたのですが、運よく当時の新薬を処方してもらえる病院に行き当たり、この頃からコンスタントな服薬で徐々に心と生活全体への安定へつなげていきます。

平成13年1月から平成14年12月まで、(2001-2002年)
ハローワークの紹介でさらに文京区にある事務組合で、格安で事務を代行してくれる団体の事務組合で、それは社労士事務所のようなものなんですけど、正社員としてそこから約2年ほど経験を積みます。

そこは、結局解雇になるのですが、HPにもその時のことを綴っていますので割愛しますが、解雇がなければ自覚できなかったことが、本当に多かったと思います。

もちろん事務組合では、徹底的に社労士業務手続のイロハを教わり、担当した大正生まれの事業主様も本当に厳しい方ばかりで、その場で天を仰ぎ泣き出したくなることも多く、本当に辛い日々でした。

年齢も20代後半、婚活もしなければいけないし、体重はその頃から薬の副作用で急激に日々増えていき、通勤も電車で片道1時間半かけて通って大変な毎日。

土日は、社労士の学校に通ったり(やはり埼玉から都内に電車で1時間以上かかり)、お見合いに出向いたり、地元のフィットネスクラブや英会話の学校に行ったりと。

体力の限界と、能力の限界ももちろんのこと、すべてがわざわざぎりぎり目一杯の連日にしておりました。なぜなら、祖母の介護が本格的になり、家庭内での結婚への焦燥感が日々漂っていた時期で、

私は就職にも出遅れたし、結婚も周囲が徐々に決まっていく中、孤独感も一塩だったからです。

祖父もすでに他界していて、父は元々離婚のためおらず、痴呆が始まっていてすでに腰が90度曲がって歩くのもままならない祖母でも、

彼女は私にとって傍にいてくれる唯一無二の、話を聞いてくれる優しい味方で、一灯の、しかしすでに徐々に消えつつある、大切な子供に返ったかわいい灯(ともしび)でした。

余談ですが、平成18年(2006年)前後祖母が病院で亡くなる前日、祖母にたわいもない嘘を言いました。主人を病院で辛うじて祖母に紹介できていたので、今思えば、主人が祖母に紹介した初めての男性でしたが、

たわいもない嘘とは、すべてがうまくいっているということ。もう心配はいらないよということ。祖母は大きく緑内障で片目しか見えない、その残った目ですら白内障で良く見えていないのに、大きく見開いて、頷いているようにみえました。

その翌日の朝、祖母は他界しましたが、祖母への「たわいもない嘘」は、実は徐々に真実(まこと)になったんですよ。

あの時、祖母に泣きついて「置いていかないで!なんで逝っちゃうの?なんでよ?だめだよ。絶対、ダメだよ。」なんて、泣き崩れて言わなくて心から本当に良かったと思っています。

お見合いでは、主人に出会うまで「今日も、ダメか(溜息)…」という連続でした。でも一回一回全力で(>_<)。しかし私のような持病持ちは、本当に難しいです。「結婚」に人生の逃げ道を求めた時期であったかもしれません。

平成16年7月から平成19年10月まで、(2004-2007年)
銀座にある異なる厚生年金基金に3年以上、フルタイムのパートとして働きます。事務組合を去ってからブランクがありますが、その間社会保険労務士資格取得の学校とやはり職業訓練校に所属しブランクにならないようにして、

解雇から自信を失っていたので、自分のやってきたことをしたいという動機で再度基金へ。適用事務をし、取得・喪失・算定・月変・育児休業等を随時会社から手続きを承る側として仕事をしておりました。

「石の上にも3年」と申しますが、3年たってもちっともパートという身分も状況も何も変わらなかったので、会社を辞めます。30代前半のこの頃主人と出会っていましたので、ようやく先の見通しが立ってきていました。

この頃、今の弊社の事務所の場所(港区港南)のマンションに埼玉から移転し、そこから状況も心の安定感もさらに良くなります。主人と結婚し、港南の実家からほど近い品川区東品川に中古マンションに新居を構えます。

平成19年11月から平成20年10月まで、(2007-2008年)
五反田にある、初めて本当の民間の300人前後従業員のいる会社の総務の人員として、正社員で務めます。東品川の自宅からバスで、30分前後という好条件でした。

社員全員の給与計算、年末調整、確定給付の退職金計算、各種適用関係書類作成、備品管理が主な仕事でした。女性の年配の上司にここでも厳しく躾けて頂きまして、第一種衛生管理者の資格も取得します。

業務多忙なことと、妊活する必要性も明確になり、仕事との同時進行が難しいこと、すでに高齢出産の時期のリスクにもさしかかっていて、このままでは子供を授かるチャンスを逃すと気付き、その理由で退職します。

平成20年11月から平成22年6月まで、(2008-2010年)
東京宝町近辺の従業員1,000人規模の証券会社に契約社員として就職します。ここでは、初めて障害者雇用への応募で、人事部の主に健康課、健康診断に関する業務がメインで、週3~4日勤務。

役員の健診をブッキングしたり、健診結果を入力したり、社員の財形の管理を任されたり。ここでは、人間関係的にとても恵まれます。全体的に私より若い従業員が多い構成になっていて、

頼りにしてくれる年下の男性社員の方達に、日々の人間関係の悩みにどれだけ心を軽くして頂いたかしれません。ランチに行ったり、簿記2級資格取得(お互いに独学で)の競争をしたり(私負け。簿記持ってません)、

当時の男性上司の方々にも大変お世話になり、妊活に就業時間の中抜けを許して頂いたり、部内の行事としてマラソン選手の有森裕子さんの1時間前後の講演に行かせて頂いたり、業務の一環として男性部長との業務交換日記みたいのがあったり、

男性課長の会社の経営の現況や部一連の逆報連相があったり、業務に関しての私の報告ももちろん、そんなことが楽しみの一つで、いずれの方も関西出身の上司で、

そうそう、専務ともメールのやり取り(投資に関する話題がメイン)で、いまだにそのメールの内容が忘れられなかったり。そんなことが、とってもうれしくて。

業務のモチベーションアップの為の旬のビジネス書の本の紹介やその感想の発表があったり、当時の新書「カバンはハンカチの上に置きなさい。」川田修氏 の本が、紹介された本の中の一冊にあった時期でした。

女性社員の方にも、印象深い方々もいて、いまだに長年の心の友のように感じている方もいて。また再会したいなぁ。

また毎日の正統な色指定下のスーツの着用義務も、いきなり三流から一流の人間になったかのような、自分には本当にうれしいものでした。

ただ、純粋な業務の面からの充実感や、責任というものからの満足感に日々とても飢えていたというか、とにかく双子を授かり、流産しやすいということから、退職します。

退職して、無事出産して、専業主婦として、社労士の勉強を改めて再開します。2年ぐらい、できるだけ毎日家事育児の合間に市販の過去問だけを費用と時間の面から通学よりも、頼りは自分のみでひたすら解き続けました。住まいを江東区に移します。

平成25年1月、(2013年)
東京大学の総務の人員として障害者パート雇用として、6か月だけ情報公開室で育休社員のピンチヒッターとして、就労します。この頃は、社労士のスクーリングもしていて、勉強の精度も上げてきていました。

しかし、勉強だけしていてもはかどらないのが「勉強」です。この年齢になってようやく理解したコツの一つです。何度もテキストをひたすら読み続け、答練や模試も問題読むと間一髪すぐ解答を読みこみ、頭に入れることを繰り返しました。

東大の期間を6か月で止めたのは、実は、当時情報公開室に情報公開を求めて、私と同じ持病の症状の悪性期(?)の方の出入りがあって、職員の方たちのその方に対する背後での不用意なものの言い方に、障害者差別的言葉が節々にあり、

そんな言葉を吐きたくなる気持ちも、本当に理解できます。私だって、自分の悪性期の頃のことを思いだすと背筋も寒くなるし、客観的に見た方がいれば、恐らくぞっとされていたと思うし、とっても薄気味悪いですよね。

ですけど、その言葉には同じ障害をもつ私への本心もそこには宿っているんだなと察して。始終親切にはして頂きましたが、私の社労士の勉強の妨げになる気持ちが日々強くなるので、その時は、何より社労士試験を大事にしたかったので。

表面的には、「東大よりももっとステップアップをはかりたいから退職」、という名目にして退職。この名目も事実と言えば事実なので。

障害者への差別的言語の内容を理由に書いてたら、困るのは東大さんですから。ちょっと意地悪っぽい仕打ちの理由でしたけど。ちょうど育休明けの職員の方も舞い戻って来ていて、タイミング的にはWin-winでした。

もちろん、差別的言語と言っても、東大のすべての職員の方が使う言葉ではもちろんないと思います。分かってはいるんです。ただ、心の底が透けて見えたというか。そこが、ここは自分のいる場所ではないと確信したんです。

業務の面では、単に学生の大学の持っている情報公開請求の対応と、それに伴う単純な事務作業。そもそも障害者に対する求人案件って、すべてそんな感じですよ。

平成25年度(2013年)
の社労士試験は、惜しいところで合格を逃しました。また一年やり直しかと、相変わらずめそめそ泣いて、当時社労士勉強仲間の良き友人にも恵まれ、慰め合って、翌年合格。

平成26年(2014年)
には、実はある社労士事務所で3か月だけ、経験を積んだんです。そこで同年代の税理士を目指されているママ友的な方が働いていたり、やはり社労士を目指されているママ友的な方も。

そこで気持ちを切り替えられて試験に挑んだのも、今思えばとても良かったです。その事務所の先生のおかげです。

そして、社労士として開業し、江東社労士会に属し主に行政協力と支部活動だけさせて頂き、主に子育てと第3子着床のため、不妊治療を再開します。結局さらに双子を授かり、流産します。そんな日々を過ごし、

平成29年4月、(2017年)
東京労働局で社労士として1年間仕事を任されますが、1年で契約終了で、そして現在に至ります。労働局では、監督課というところで、労働基準法への問い合わせや質問に答えたり、事務作業的なことをさせて頂きました。

ここでも、とても皆さんに親切にして頂きました。労基法が何たるかということが学べたのは、幸いでした。

平成30年7月現在、(2018年)
社労士会江東支部から港支部に支部を移し(港支部では、全く活動参加せず)、4月から福祉の大学に復学し、ソーシャルワーカーと精神保健福祉士資格取得に向けて、スタート切ったのですが、

全然思ったようにはかどっていないのが、悩みと言えば悩みですね。そんなところでしょうか。

全然、ご依頼して頂けるような、安心感が伝わる内容になっていなかったって?確かに。確かにそんな気もします。ガックリ😞。

皆さま、ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。読むこと、疲れましたよね。本当に長々と読ませて、ごめんなさいね。ありがとうございました。

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。









               

 

ジャンル:
スキル
コメント   この記事についてブログを書く
« 労働時間の適正把握 | トップ | ・ビキニ・\(^o^)/・ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

社会保険労務士の日記」カテゴリの最新記事