礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

佐々木惣一博士の反論に再反論できなかった

2018-11-16 01:52:07 | コラムと名言

◎佐々木惣一博士の反論に再反論できなかった

 鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)から、その「あとがき」を紹介している。本日は、その二回目。本日、紹介するのは、「あとがき」の「Ⅳ」の前半である(四〇五~四〇七ページ)。

        Ⅳ 
「佐々木惣一博士の『日本国憲法論』について」以下四編は、いずれもいわゆる伝統的憲法学の貢献を評価すると共にその問題点を指摘したものであるが、一方で若い清新な学者たちの反対を免れないと同時に、問題点の指摘が不十分であるという批判を受けたものである。時代が変わり、学説が進歩すると共に、旧時代の学説がこのような運命を辿ることは自然の結末で、いつの時代でもこれは避けがたい過程である。しかし、筆者は、筆者の立っている立場を軽々に変えることはないであろう。これはこれで日本憲法学史上の一時期の表明であると信じている。
 これら四編のうち、第一の佐々木博士に対する拙ない書評に対しては、先生自らこれに対する反批判を加えられたことは、後学にとっての極めて喜ばしい反応であった。私はそれを熟読玩味し、大いに教えられるところがあった。先生の好意ある反論には感謝の外はない。しかしそれに対し再度反批判をすることは私にはできなかった。それはそれでよかったと私は思っている。しかし美濃部〔達吉〕先生とその一門対佐々木先生とその一門との間に、学問的には、一方で穂積〔八束〕=上杉〔慎吉〕=井上〔孚麿〕学派と対立する共通の姿勢がありながら、他方、その学問的方法には大きな違いがあることを知り得た。しかしこれら両派の間には感情的なしこりや反感が全然なく、全く友好的な関係で互いの学問的研究を理解し合っていることは、すばらしいと思う。
「美濃部博士の思想と学説――その歴史的意義」は、傍題として書き添えられている「謹んで先生の霊に捧ぐ」という言葉が示すように、昭和二三年(一九四八年)、先生の逝去直後に書かれたものである。戦後の先生の活動については、いろいろの批判もあるが(例えば、昭和二〇年秋、新聞紙上に発表された憲法改正無用論についての主張に対する批判など)、私は先生の言動が首尾一貫したものであることを固く信じて疑わない。その一例をあげれば、新しい行政機関の一つに全国選挙管理会委員長という職があった。先生の理論の一つの重大な要点に、国民代表機関としての国会の重要性、とくに議員の選任過程としての選挙管理の意義という論点があった。総司令部もこれを理解していて、すべての中央官庁のうちただ一つ内務省だけに解体を命じ、その権限を新設の、つまり旧憲法下には存在しなかった、独立性をもった、合議制官庁である行政委員会に分け与えてしまったのである。何れも重要な意味をもった制度改革であったが、中でも全国議管理会は警察の権限と切り離されることによって、従来のように内務省による選挙干渉などの行われる余地をなくしたことは、美濃部先生の理想を実施したものといえよう。【以下、次回】

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新旧両憲法は全く別個の根本規範に根ざしている

2018-11-15 02:00:22 | コラムと名言

◎新旧両憲法は全く別個の根本規範に根ざしている

 昨日は、鵜飼信成のエッセイ「宮沢憲法学管見」(一九八四年二月)を紹介した。本日は、鵜飼信成の著書『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)を紹介してみたい。といっても、紹介するのは、本文ではなく、「あとがき」である。
 同書の「あとがき」は、たいへん長く、二十三ページもある。「Ⅰ」から「Ⅳ」までの四部で構成されているというのも珍しい。ここで、著者は、同書に収録した論文について、その思い出などを語りながら、みずからの学問生活を回顧している。非常に貴重な話が多い。本日は、この「あとがき」のうち、「Ⅲ」を紹介してみたい(四〇四~四〇五ページ)。

        Ⅲ
「憲法秩序の変遷」。宮沢俊義教授の八月革命説はいつまでも問題のようで、例えば、樋口陽一教授(「タブーと規範」世界一九八六年六月号)と菅野八郎教授(「八月革命説覚書」法学四七巻二号――内容目次の英文では、“Memorandum on Miyazawa's Theory of 'August Revolution'”となっている)との間の論争等、何れも重要な問題点を指摘している大変興味ある論争である。根本的には革命といわれるものは何かということにあるが、八月革命説は、もともと丸山真男教授が研究会で提示したものを宮沢教授が、丸山教授の承諾を得て憲法学者の説として発表したことに私は関心をもっている。革命という観念は憲法とくに実定憲法の中には存在の余地がなく、主として政治学者の関心事である。しかし日本国憲法の場合には、事情が少し違う。それは憲法の文面の上では、日本国憲法が、従来の大日本帝国憲法の継続であることをしきりに表明している(例えば、日本国憲法の上諭には「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顯問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とあって、これは新憲法が全く新たなものであって、それと旧憲法との間には革命的断絶があるという考えを明示的に否定し、日本国憲法は明治憲法に定める憲法改正の手続を踏んで作られた明治憲法の改正憲法であるということを宣言したものである)。
 しかし「日本国民の総意に基」くという日本国憲法の本質と、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」という明治憲法の本質とが、基本原理の同一性を保持しているとは到底考えられない。そこで、明治憲法はそれ以前の憲法と同一性をもっていたが、新憲法と明治憲法との間では断絶があるという見方が出てくる。いわば法的な本質においては全く別個の根本規範に根ざした二つの憲法であるが、ただ政治的な便宜から、マッカーサーが、両憲法の間には「完全な法的持続性」が保障されなければならないという声明(昭和二一年六月二一日「議会における討議の三原則」の第二)を発したこととを調和させるためには、政治学者も憲法学者も、この過程を一応政治革命とした後、憲法学者はこの変革を法秩序全体の変遷としてどう説明し、政治学者は政治力、政治意識等政治過程の変革の過程としてどのように説明すベきかという課題に当面して、これを如何に処理するかに苦心したものと理解するのが正しい。
 だから政治学者は、昭和二〇年(一九四五年)八月の段階で、古い憲法秩序の崩壊を確認すると共に、新しい憲法秩序の基本原理を予測したのに対し、憲法学者は、新しい憲法秩序がほぼ定まってから(マッカーサーの新憲法草案が示されたのは昭和二一年二月一三日、これに基づく日本政府の憲法改正草案要綱が公表されたのは同年三月六日)、これらの法(経過法的規定や国際的法規を含む)の理論的脈絡を説明したのである。宮沢教授の八月革命説が公表されたのが、昭和二一年五月号の「世界文化」誌上であるのは、そのためであると私は考える(鵜飼信成「宮沢憲法学管見」ジュリスト八〇七号)。
 本編は、わが国が過去に経過した四つの憲法秩序(①明治憲法前の憲法秩序、②明治憲法下の憲法秩序、③管理法秩序、④日本国憲法秩序)が、全体としてどのような実体法秩序の変遷を示していたかについて分析したものである。

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八月革命説と丸山眞男

2018-11-14 04:00:38 | コラムと名言

◎八月革命説と丸山眞男

 最近、「八月革命説」に関心を持っている。以前、知人某氏から聞いた話では、八月革命説を最初に口にしたのは、政治学者の丸山眞男で、そのアイデアを論文の形にしたのが憲法学者の宮沢俊義だったという。ただし、その知人の話も受け売りで、根拠までは知らないとのことだった。
 いろいろ調べた結果、ようやく、「出典」がわかった。憲法学者の鵜飼信成〈ウカイ・ノブシゲ〉が、『ジュリスト』第八〇七号(一九八四年二月一五日)に発表した、「宮沢憲法学管見」というエッセイである。全三ページの比較的に短い文章で、「一」と「二」に分かれているが、八月革命説に触れているのは、「二」のほうである。本日は、その「二」を紹介してみたい。

 宮沢憲法学管見    鵜 飼 信 成
 
     【略】
   
 宮沢教授のもう一つの功績は八月革命の説である。一九四六年五月、雑誌「世界文化」に初めて載った「八月革命と国民主権主義」は、学界の注目をひいた。しかしその元の題が「八月革命の憲法史的意味」(『憲法の原理』三七六頁)であったように、その力点は、憲法の基本原理の歴史的変化を分析するところにあった。そしてその当然の結果として、いつ、どこで、どのような手続でその変化が起ったのかが問題であった。教授はそれを一九四五年八月一四日のポツダム宣言受諾の時とし、その瞬間に旧憲法の基本原理は崩壊したとする。ただポツダム宣言そのものの中には、そのことを的確に示すことばは発見しにくい。それがはっきり出ているのは、日本政府が、受諾に先立って、わざわざ念を押してポツダム宣言は「主権的統治者としての天皇の大権を害する要求を含まない」ものと諒解してよいかと尋ねたので、連合国は、(一)天皇の統治権は連合国最高司令官の命令に従わなければならないことと、 (二)日本の最終の政治形体は、ポツダム宣言のいうところにしたがい、日本国民の自由に表明される意志によって定めるべきこと、とを答えた。これは日本政府の問合せに、直接的にではないにしても、間接的に見事に答えたものである。
 しかし日本側の反応は極めてにぶかった。多くの政党は国民主権主義を明確に認めない憲法案を発表したし、政府の担当官は、総司令部が、これに業をにやして政府につきつけた憲法草案を日本語に翻訳して、国会に提出する時に、「The Emperor shall be the symbol of the State……deriving his position from the sovereign will of the People……」という冒頭の条文を、「この地位は、日本国民の至高の総意に基く」とし、国民主権という文字を意図的に避けた。
 この間宮沢教授が国民主権主義に対して、これを支持する態度を堅持していたことは、明白であるが、それをはっきり表明したのは、「一九四六年三月六日に、政府によって、憲法改正草案要網が発表された直後」(『憲法の原理』三七五頁)である。
 いわばそれは、論理的には明確でありながら、表現的には曖昧さを残しているポツダム宣言の本質が、旧憲法に代る新憲法の制定によって、国民の前に姿をあらわした時、憲法学者が、それを国民にはっきり説明した論文として重要なのである。それは歴史家が、三月以前【フオア・メルツ】とか三月以後【ナツハ・メルツ】とかいうのによく似ている。三月革命という言葉は、今日では、何人にも明瞭な歴史的概念であるが、八月革命は、これほど明確に一般の理解を得ることが出来ず、憲法学者の間で論議の的となっているのである。
 しかし八月革命は、本来は、政治学や政治思想史の概念として誕生したものである。敗戦と共に、東京大学法学部では憲法研究会を組織して、憲法の新しい形態について研究を始めた。長老や新進の学者たちが、解放された自由な雰囲気の中で、のびのびと議論を交わし、古い日本の亡び去ったことを身に沁みて感じていた時に、政治思想史の専門家丸山真男教授がこういう発言をした。日本国憲法の基本原理は、八月一四日で崩壊し、代って新しい基本原理が生れたのではないか。歴史的にいえば、これは八月革命と呼ぶのが正しいのではないか、というのである(もっとも筆者はこの研究会のメンバーではなかったので、これは伝聞である)。
 宮沢教授は、丸山真男教授の了解を得て、しかし新憲法草案発表後に、八月革命に関する論文を発表されたので、多少問題把握の方法に、原発想者との間にはずれがあるようにも思われるが、それはそれで宮沢教授の八月革命説の本質を示しているものであると思う。そうしてそこに河村又介〈カワムラ・マタスケ〉最高裁判事の提起された批判、日本の最終の政治形態は、日本国民の自由に表明された意志によって定めるべきであるという諒承事項が、物権的に国民主権主義の確立を要請したものだという宮沢説に対して、「それははたしてそういう厳密な法律的意義に解すべきであったろうか」、という疑問や、金森〔徳次郎〕国務大臣の説、降伏によって、国民主権主義という原理は、法律的にはたんに債権的に、日本国家の義務が発生しただけで、それが確立されたのは、日本国憲法の制定によってであるという説、との相違がある。
 宮沢教授はたしかに日本国憲法草案提示後に、八月革命説を公表した。しかし八月一四日のその時点で、明治憲法は崩壊し、これに代って国民主権主義の憲法原理が成立したことを確信していたことを忘れるわけにはいかない。占領体制が開始した後でも、国民主権主義の憲法をどこかで曖昧にしようとする法律家、法律学者がいたと同時に、国民主権主義の原理に立って、占領軍の憲法制定に反対し、マッカーサーの憲法草案が、国民主権主義の確立を明示したことに、始めて歓喜の声をあげ、これはすでに八月革命によって論理的には成立していたとみるべきであると唱えた憲法学者もいたのである。美濃部〔達吉〕博士が「要するに改正憲法草案は従来の憲法における君主主権主義を根本的に変革して国民主権主義を国家組織の根底と為さんとするもので……これを以て或る程度にまで君主主義を持続するものの如くに弁明するのは、虚偽を以て国民を欺瞞せんとするものと思はれる」(『新憲法と主権』一頁)という主張を、八月の段階に溯って宣言した宮沢教授の説は、この意味で画期的な意義をもつものであることを私は疑わない。

 附記 宮沢憲法学の意義については、最近論争が盛んである。主なものを挙げるだけでも、高見勝利「古い革袋と古い酒」(ジュリスト七九六号(一九八三年八月一日-一五日号))、森田寛二「『宮沢憲法学断章』の周辺」(ジュリスト八〇二号(一九八三年一一月一五日号))、高見勝利「〝法の科学者〟の光と影」(ジュリスト七九七号(一九八三年九月一日号))、森田寛二「宮沢俊義とケルゼン」(長尾龍一ほか編『新ケルゼン研究』)や前掲樋口、菅野等の論争がある。なお宮沢憲法学を体系的に分析した先駆的名著は、芦部信喜「宮沢憲法学の特質」(『憲法制定権力』所収)であろう。なおこれらの文献については東大の渡辺治助教授から貴重な指示を得た。 (うかい・のぶしげ)

 ここで、鵜飼信成は、宮沢俊義の八月革命説を宮沢の「功績」として位置づけると同時に、同説を支持している。
 しかし、いま問題にしたいのは、八月革命説の「当否」ではなく、その「由来」である。
 鵜飼によれば、「八月革命は、本来は、政治学や政治思想史の概念として誕生したもので」、東京大学法学部の「憲法研究会」の議論の中で、「政治思想史の専門家丸山真男教授がこういう発言をした」という。また、宮沢俊義は、一九四六年五月に(新憲法草案発表後)、八月革命に関する論文「八月革命の憲法史的意味」を発表したが、これを発表するにあたって、「丸山真男教授の了解を得て」いるという。――これは、きわめて重要な情報ではないのか。

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大正初期における庶民の「見合い」

2018-11-13 05:23:21 | コラムと名言

◎大正初期における庶民の「見合い」

 PHP総合研究所編『エピソードで読む松下幸之助』(PHP新書、二〇〇九)を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 同書の「Ⅶ おまえはどっちの店員か――人生断章」に、「あらええで、もろとき」という項がある(二五八~二六〇ページ)。本日は、これを紹介してみよう。

❖あらええで、もろとき
 大正四年〔一九一五〕九月、幸之助は井植【いうえ】むめのと結婚した。幸之助二十歳、むめの十九歳。
 見合いを勧めたのは姉である。
「九条の平岡という炭屋からこんな人がいると勧めてくれたが、おまえどう思うか。聞けば淡路島の人で高等小学校を出て、裁縫学校を卒業後、大阪に来て京町堀のある旧家で女中見習い中の人であるということだが、いっぺん見合いをしてみてはどうかとのことだ。おまえがよければ、先方にそう返事するが……」
 姉には、亡くなった父や母、兄弟姉妹をはじめ先祖のまつりをするためにも、早く弟が家をもつようになってくれれば、という強い気持ちがあった。
 幸之助は、これも縁というものだろうと、深く考えもせず承知した。
 その当時、見合いといえば、良家の子女はともかく、一般的には、道ですれちがうだけといった簡単なものが多かった。二人が会って話をするというようなことは、よほど進んだ考えをもっている人しかいなかった時代である。
 幸之助とむめのの見合いも、松島〔大阪市西区〕の八千代座という芝居小屋の看板の前でするという段取りになった。約束の時間が来てもなかなか先方が現われない。と、突然、付き添いで来ていた姉の夫が叫んだ。
「来た、来た」
 近くの人たちが小声でささやいているのが、幸之助の耳に入った。
「見合いや、見合いや」
 幸之助はあがって、真っ赤になる。気がつくと、もう先方は看板の前に立っている。
「見よ、見よ。幸之助、見よ」
 義兄の声に初めて我に返って見直したが、時すでに遅く、わずかに横顔が見えるだけである。しかも、うつむいているので、なおさら顔が見えない。そうこうするうちに先方は行ってしまった。
「あらええで、もろとき、もろとき」
 この義兄の言葉に、幸之助はそのまま従った。

 有名なエピソードを短くまとめている。しかし、この短い文章の中にも、いろいろと読みとれる情報がある。
 幸之助の姉が、幸之助に結婚をすすめた主たる理由は、「家」を持たせるため、つまり、「亡くなった父や母、兄弟姉妹をはじめ先祖のまつり」をさせるためであったということである。そして、幸之助自身もまた、「深く考えもせず」、姉の意向に従っているということである。
 また、当時の庶民の「見合い」は、「道ですれちがうだけといった簡単なものが多かった」という。そして、見合いの場所に選ばれたのは、西大阪の松島という繁華街である。当然、人通りも多い。義兄が「来た、来た」と叫べば、通行人らは、当然、それと気づく。この文章によれば、幸之助が真っ赤になったのは、近くの人たちが、「見合いや、見合いや」と「小声でささやいた」ためだというが、幸之助は、義兄が「来た、来た」と叫んだ時点で、すでに真っ赤になっていたはずである。それにしても、幸之助らは、通行人らから、「見合いや、見合いや」と、大声で叫ばれなかったのは、好運だったかもしれない。

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ひもで印をしてるのが関東味や(松下幸之助)

2018-11-12 02:25:12 | コラムと名言

◎ひもで印をしてるのが関東味や(松下幸之助)

 PHP総合研究所編『エピソードで読む松下幸之助』(PHP新書、二〇〇九)を紹介している。本日は、その三回目。
 同書の「Ⅵ 一人も解雇したらあかん――情を添える」に、「心のこもったお弁当」という項がある(二二〇ページ)。本日は、これを紹介してみよう。

❖心のこもったお弁当
 昭和三十三年五月、幸之助が工場建設候補地の検分のため、神奈川県湘南地区を訪れた。辻堂工場と蓄電池工場の責任者が案内役を務めて、何カ所かを丹念に調べ、終わった時刻は十二時を少し過ぎていた。
 幸之助は昼食をとろうと、車を稲村ヶ崎へと向けさせた。
「わしなあ、ゆうべ新橋の鮨屋へ、握り五人分を朝つくっておいてくれと頼んでおいたんや。けさ出しなに持ってきた。磯でお弁当開くのもええやろ」
 波打ち際にござを広げて、秘書が弁当を配ろうとしたとき、幸之助は、
「きみ、そのうち二個に小さなひもで印をしてるやろ、それが関東味できみとA君の分や。三個は関西味で、B君とC君とわしの分や」
 この気くばりに四人の社員は恐縮し、そして感動しつつ弁当を味わった。

 全体に、この本には、この種の「エピソード」が多い。それらを、ひとことで言うと、「気くばり」ということになる。こうした細かい「気くばり」ができるところが、松下幸之助という人物の特異な資質であり、この資質があってこそ、彼は経営者として成功することができたのである。
 この松下幸之助のエピソードを読んで、私は、文化人類学の「神秘的融即」participation mystiqueという言葉を思い出した。ただし、レヴィ-ブリュルのいう神秘的融即ではなく、ユングのいう神秘的融即である。すなわち、「主体と客体が無意識に同一化された同一性」である。
 一般的には、「気くばり」とは、主体が客体のことを思いやることである。しかし、松下幸之助の「気くばり」は、そうした一般的な気くばりの域を超えている。それは、主体と客体とが無意識に同一化される中で生じる心意、あるいは、自他の境界が超えられた中でおこなわれる行為だったのではないのか。
 なお、これは思いつきで言うのだが、日本の政治家の中にも、その資質において、松下幸之助に酷似した人物を見出すことができる。それは、田中角栄である。

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