礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その4

2018-07-21 00:35:18 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その4

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その四回目。このあたり、すでに、桃井さん独自の視点をかいま見ることができる。

B、 最高裁法廷意見の論点(b)に関して
 原告が<弾けない>と強く主張する場合は、多くの場合、直接の理由として、「君が代」を利用した戦後教育のあり方に対する批判が提示されている。これは、最終意見書(2003.10.1)に明瞭である(下線は引用者)。
「 私にとって、音楽を聴き、演奏することは、日々の生活の中で、なくてはならないものです。そして、子どもたちが、楽しそうに歌ったり演奏したりする時間を共にすることは、私が音楽の教師を続けていることの大きな理由であり、喜びでもあります。
 この裁判の中でも述べてきましたが、「君が代」の歴史的な役割、使われ方は、私にとっての音楽そのものの意味を冒涜するものです。そして今また、人の心を束ねるために、教育の中で使われようとしています。音楽や教育が、国家主義をすすめるために利用されることは、私の音楽への、教育への想いに反することです。その上、「君が代」は、音楽的にも全く認めることのできないもので、ピアノ伴奏をいくら強制されても、教師として、音楽に関わるものとして、この曲を弾こうという気持ちになれません。むしろ、弾けないのです。
(中略-2002年3月の卒業式についての校長・教頭との話し合いへの言及をうけて)
 この「ロボットになりなさい。」の教頭先生の言葉に、教育の場も、ここまで来て しまったのかと、落胆しました。しかし、この9月26日、都教委より提出された準備書面には、以下の様な主張がされていました。
 『原告としては、地方公務員法30条、35条により、職務専念義務を負うのである から、原告の言う「演奏者の意気込み、聴衆を思う心、曲に対する思い入れ」において、全力を尽くすべきであった。〔21〕』
 この主張は、ロボットになる以上の人権侵害であり、人格の否定です。「君が代」 を思いを込めて全力で演奏するということは、私にとって、「君が代」に対する、思想、信条を捨てた上、さらに自分を偽り、裏切る行為です。この様な主張を公権力がされることに、戦前への回帰を感じます。」〔22〕
 なお、「君が代」が戦後、学校教育の中に再度持こまれるようになり、校長の裁量権が強まる中で普及してきたことへの批判は、最初の本人意見書でも記されている〔23〕。ここで注意しなければならないのは、原告の勤務する小学校では、「日の丸」「君が代」を中核的要素とする国家主義の学校儀礼はすでに基本的には完成しているということである。原告の第1審最終意見書は、事件以後2003年卒業式入学式までの儀式をめぐる動きを記しているが、1999年の入学式の時点で、コの字型の会場配置以外は「日の丸」正面掲揚、「君が代」斉唱も基本的には導入済みである。会場配置の問題は2000年4月に赴任したS校長によって改変され正面壇上に正対するものになっている〔24〕。「君が代」に関しては、原告が同校に赴任した時点では、式次第中に確固たる地位を確保し、<ピアノ伴奏かテープ伴奏か><ピアノ伴奏をする場合は誰がするか>が焦点となっている。すなわち、子供への事実上の強制構造は基本的に完成している。
 この点に関連して重要な陳述がある。本人調書(2003.5.29)で、原告は、職員会議の係分担にピアノ伴奏の項目がないのないのになぜ職員会議で伴奏できないことを発言したのかという質問に対して以下の様に答えている(下線は引用者)。
「 そのままあなたも何も言わずに、校長からも何も話がないし、係分担にはないんだからということで、当日を迎えることもできたでしょう。
 はい、ですけれども、具体的に考えれば、入学式のときに、私は校長先生から言われていますけれども、国歌斉唱、君が代斉唱のときに音楽が流れなかったら式がその場で中断します、そういうふうなことを考えたときに、私がここできちんと言わないと、そういうふうなことが起きてしまうと思って、新しいところで、やはり皆さんがどういうふうに考えているか分からないところで発言するのは、とてもきついんですけれども、思い切って発言しました。
 何と発言しましたか。
 面談のときに、校長先生から、国家、君が代のピアノ伴奏をお願いされたけれども、私は思想信条上それから音楽の教師としても弾けないというふうに述べさせてもらい ました。〔25〕」
 ここは、不伴奏が儀式の進行を少しも乱さなかったという文脈で原告側から採り上げられそうな証言であるが、むしろ不伴奏を基本的には個人の倫理的判断の問題と位置づけていることが重要である(言い換えれば、原告が知る東京都の小学校では国旗国歌儀礼の導入自体は押しとどめられなくなっている状況を前提とした判断である)。強制はあり得るとすれば学校儀式への国旗国歌儀礼の導入自体に起因しているのであって原告個人が伴奏するかしないかに関わらないのである。一審判決における裁判所の判断もその点を指摘している。それを下に引用する(下線は引用者)。
 「b 子ども及び保護者の権利侵害の有無
 原告は、本件職務命令は子ども及びその保護者の思想・良心の自由を侵害するもの である旨主張する。
 しかし、仮に原告主張のように子どもに対し思想・良心の自由を実質的に保障する 措置がとられないまま「君が代」斉唱を実施することが子どもの思想・良心の自由に対する侵害となるとしても、そのことは「君が代」斉唱実施そのものの問題であり、校長が教諭に対して「君が代」のピアノ伴奏をするよう職務命令を発したからといって、それによって直ちに原告主張の子ども及びその保護者の思想・良心の自由が侵害されるとまではいえない。原告の主張は採用できない。〔26〕 」
 ここは、原告の思想・良心(b)の性格に関わる重要な論点である。控訴審判決でもほとんど同じ判示が行われている〔27〕。この後の原告側の書面では有効な反論はできていない。原告側弁論は、この(b)に関して後述する西原博史の<抗命義務>説的展開を一貫して続けてゆく。したがって、大事な論点の位置づけが焦点を外れていくのであった。また、この点を焦点化させた藤田宙靖反対意見に関する諸研究者の称揚も、おおむね藤田の原主張から離れていくことになる。【以下、次回】

注〔19〕『全資料』p81
注〔20〕敢えてそれにあたるものに含めることができるのは以下の部分ぐらいである。2003年5月29日の本人尋問で原告側代理人の「思想信条上君が代のピアノ伴奏ができないのはなぜですか。」という質問に対して、日の丸・君が代に批判的な在日韓国人音楽家を話題にした上で「私は君が代を特にそういう方たちの前で公然と歌うことができないと、それが私の思想信条です。」と答え、続いて「ましてや、ピアノ伴奏を自分の手ですることはできないということですね。」という質問に対して「はい。」と答えている(『全資料』p102)。
注〔21〕『全資料』p155にある。
注〔22〕『全資料』p130
注〔23〕『全資料』p74
「 しかし、1950年を境に「君が代」は政治的な力で学校教育の中に持ち込まれます。1987年沖縄、1996年北九州市、1999年広島(県立高校の校長の自殺)、2001年束京国立市。たくさんの処分者を出し、そしてついには人の命までも奪い、学校教育での実施率を上げてきました。
 国歌というだけで一人ひとりの心の有り様は問題にされることなく、こんなにも人を追いつめ、人が処分されてしまう。「君が代」は本来の音楽の姿から遠くかけ離れてしまっています。
 一方、東京都教育委員会は、1998年、管理運営規則を校長先生の権限を強めるために改正しました。これ以降、本来、教育行政が、憲法、教育基本法、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利条約に基づき、自由な雰囲気の下で皆で創意工夫し、良い知恵を出し合って、民主的に行われるべきであるにもかかわらず、まるでそうはならず、かえって校長という職が、教育行政の上意下達のための単なる伝達機関になっています。職員会議においても、実際に子供にかかわる職員の意見をよく聞き、合意を図ろうとはせず、「聞くのは聞くが決めるのは私です」という校長先生をたくさん作り出しました。校長先生自身の教育理念であるなら、まだ話し合いになるのですが。
 そして、この「君が代」は、今また戦前・戦中のように人の心を束ね、また上からの方針に意見を言う者をあぶり出し、その良心を踏みつける道具として現れ、悪用されようとしています。」
注〔24〕『全資料』p85
注〔25〕『全資料』p102
注〔26〕『全資料』p718
注〔27〕『全資料』p732
「b 子ども及びその保護者の権利侵害の有無
 控訴人は、本件職務命令は子ども及びその保護者の思想・良心の自由を侵害するものである旨主張する。
 しかし、仮に控訴人主張のように子どもに対し思想・良心の自由を実質的に保障する措置がとられないまま「君が代」斉唱を実施することが子どもの思想・良心の自由に対する侵害となるにしても、そのことは「君が代」斉唱実施そのものの問題であり、校長が教諭に対して「君が代」のピアノ伴奏をするよう職務命令を発したからといって、それによって直ちに控訴人の主張する子ども及びその保護者の思想・良心の自由が侵害されるとまではいえない。控訴人の主張は、採用することができない。」

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「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その3

2018-07-20 01:54:40 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その3

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その三回目。

② 原告の意見書・陳述書より
 原告Fは第1審で3通の陳述書・意見書と1回の尋問調書を残している。控訴審・上告審では各1通の意見書を提出している。ここでは、原告の原初的な思想・良心を、第1審の書面をもとにして、上記の最高裁法廷意見の整理にしたがって、再構成する。

A、 最高裁法廷意見の論点(a)に関して
 この点は、本人尋問陳述書 (2003.5.22) に詳しい。
「(2)歌詞の意味の側面から
「君が代」の元歌は、「わが君は」の初句に始まる形ですが10世紀の「古今和歌集」 にあります。家長の長寿を願う意味、あるいは、ラブソングとも解釈できます。近世には箏曲、地歌、長唄などに入って代表的な祝賀の歌詞になっていた「君が代は」の歌に、明治になって曲がつけられました。修身の教科書にもあるように「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年もつづいて、おさかえになりますやうに。」という意味です。
 この歌詞は、明らかに憲法の主権在民の精神に反しています。そして、ひとりを讃 えることは身分社会を作り、差別をうみだします。戦後、この「君」の意味の解釈について変遷があったのは、ご存知のことと思います。ですから「歌詞を変えて」あるいは「奏楽のみ」という主張があるのも、憲法を守りたいという想いを有している人達からすれば極めて当然のことなのです。
(3)歴史的役割の側面から
 1893年(明治26年)、学校の儀式で用いるべき曲として「君が代」が「紀元節」の歌などと共に学校に持ち込まれます。そして、日本のアジアへの侵略戦争を推し進め、正当化することを目的として、儀式や修身をはじめとする教科で、唱歌(「紀元節」、「ヒノマル」、「日の丸行進曲」など)や、軍歌(「黄海の戦」、「旅順口の戦」、「開城の進撃」、「勇敢なる水兵」など)と共に、皇民化教育のために使われました。侵略された国の人々にとって「君が代」は「侵略の歌」そのものなのです。天皇陛下の名のもとに、言葉を奪われ、名を奪われ、土地を奪われ、そして命まで奪われたことの象徴とも言えるのではないでしょうか。」〔19〕
 原告は、「君が代」の歌詞の内容が主権在民に反していること、侵略戦争を推し進め正当化するために利用されてきたこと、を理由に「君が代」に対しては強い否定的評価を持っている。ここからは、当然原告自身が歌い演奏することに対する忌避感を有していることは推測できるが、しかし、意外なことに他の書面を見ても、ここから直接に伴奏拒否を導き出すような文章は多くはない〔20〕。この点、最高裁の上記要約とは若干の不整合が生じている。【以下、次回】

注〔19〕『全資料』p81
注〔20〕敢えてそれにあたるものに含めることができるのは以下の部分ぐらいである。2003年5月29日の本人尋問で原告側代理人の「思想信条上君が代のピアノ伴奏ができないのはなぜですか。」という質問に対して、日の丸・君が代に批判的な在日韓国人音楽家を話題にした上で「私は君が代を特にそういう方たちの前で公然と歌うことができないと、それが私の思想信条です。」と答え、続いて「ましてや、ピアノ伴奏を自分の手ですることはできないということですね。」という質問に対して「はい。」と答えている(『全記録』p102)。

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「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その2

2018-07-19 04:22:56 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その2

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その二回目。

(2) 原告Fの思想・良心

① 最高裁判決法廷意見より
 最高裁判決法廷意見は原告の思想・良心をおおむね正確に以下の3つの内容を持つものと把握している((a)(b)(c)の記号は引用者による)。このまとめは、判決後、諸研究者の論考が依拠しているものである。
(a)「「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており,これを公然と歌ったり,伴奏することはできない」
(b)「また,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできない」
 以上(a)(b)をうけて
「このような考えは,「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。」〔14〕
(c)「雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできない」〔15〕
 この3つを、訴訟上どう位置づけるかは議論がある。渡辺康行は、(a)「は、教師である「個人」の「思想・良心の自由」である」ので憲法19条論の対象となるが、(b)(c)は「むしろ「教師」の職務権限や職責からの基礎づけになじむものであろう。」と区別している〔17〕。 以下に引用する佐々木弘通も同様である(以下の引用中(1)(4)は最高裁判決多数意見の項目番号、(a)(b)(c)は佐々木による記号で上記引用者によるものと同じ)。
「 憲法第一九条論の観点から法廷意見を読んでいく作業に入ろう。
 第一に、上告人は職務命令に従うことができない理由として、(a)・(b)・(c)の三つの内容の思想良心を挙げる。そして法廷意見は「(1)」で(a)と(b)を一まとめにしたうえで憲法第一九条論の対象とし、「(4)」で立ち入った説明なく(c)も憲法第一九条論の枠組みで処理している。だが憲法論としては、(a)(b)(c)をすべて憲法第一九条論として扱うことができるかに疑問があるし、少なくとも同じ解釈論の型で処理するのは正しくない。(a)は、個人としての内心を語っている。それに対して、(b)は、教育公務員としての内心を語っており、ピアノ伴奏の拒否行為は「違法な職務命令に対する服従義務の不在」論という法的構成になじむ。また、(c)は、音楽専門職としての内心を語っており、「本件職務命令は専門職に固有の自律的判断権限の侵害である」という法的構成になじむ。(b)や(c)を憲法第一九条論として扱うことには、説明を要する。」〔18〕
 渡辺も佐々木も焦点化していないが、注意すべきは、最高裁多数意見においては上記(b)を「「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等」として、(a)と同じ思想・良心構造に位置づけている点である。(a)と(b)の異同は、藤田宙靖反対意見が鋭く焦点化しているものである。【以下、次回】

注〔14〕以上は、最高裁判決「理由」の3(1)
注〔15〕同上3(4)
注〔17〕 「公教育における「君が代」と教師の「思想・良心の自由」-ピアノ伴奏拒否事件と予防訴訟を素材として-(『ジュリスト』1337(2007.1))p33 渡辺によれば「本稿が扱っているような事例において、教師が依拠すべきなのは、教師である「個人」の人権なのか、「教師」の職務権限や職責なのかについては、学説上多くの議論がなされてきた。」
注〔18〕「「君が代」ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決と憲法第一九条論」(『自由と正義』2007年12月号)p83

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論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」

2018-07-18 00:33:22 | コラムと名言

◎論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」

 一昨日、知人の桃井銀平さんから、当ブログ宛に、「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」と題する論文の投稿があった。これは、二〇一六年八月一六日から九月一〇日にかけて、このブログで紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」の続編にあたる。
 A4で一六ページに及ぶ長文なので、何回かに分けて、紹介してゆきたい。

日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務
                               桃井銀平

 *既発表の「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」との章節番号の不整合は、(1)を修正するかたちで後日
整理したい。

1,<ピアノ裁判>における思想・良心

 学校儀式において教師が国旗に向かって国歌斉唱することを拒否または国家伴奏を拒否したことに対する懲戒処分をめぐる裁判は、多数の東京都公立学校教職員を原告とするものを中心に2011~12年に立て続けに最高裁判決が出された。その時点で先行事例として既に最高裁判決が出ていた国歌伴奏をめぐる裁判がある。いわゆる<ピアノ裁判>である。さらに一つ、最高裁判決は遅れたが、先行事例と言えるのは北九州の公立学校教師の訴えによるいわゆる<北九州ココロ裁判>である。前者は、2007年2月27日に最高裁における原告敗訴判決でこの裁判は司法上は決着を見た。後者も、2011年7月14日に最高裁における原告敗訴判決で司法上は決着を見た。原告側が主張する思想・良心の内容は、両者共通性が濃い。そして意外なことだが、5年経って2016年7月に最高裁で決着を見た東京都の公立学校教職員の第3次集団訴訟における原告側の主張にも通ずるものがある。<北九州ココロ裁判>についてはwebsite上の資料公開が行われなくなくなったが、<ピアノ裁判>については詳細な裁判関係資料集が公刊されており、広く議論の材料を提供している。<北九州ココロ裁判>における原告側の主張は重要な前例として無視できないが、資料的制約があるので、先行訴訟の検討としては、主たる対象を<ピアノ裁判>におかざるを得ない。
 <ピアノ裁判>の最高裁判決の法廷意見は、職務命令との関係で原告個人の思想・良心を正面からが検討せず、「一般的」「客観的」な社会通念で判断を下したものと一般に受けとめられて、研究者・教育関係者の中では評価は低い〔1〕。一方、藤田宙靖裁判官の反対意見は高い評価を受けていて、その後の国旗国歌強制批判派の理論的拠点の一つとなっている。
 ここでは、原告Fの思想・良心を直接その文章から抽出し、如何なる思想・良心が憲法上の保護を求められていたのかを明らかにしたい。主な素材は『日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件 全資料』(日本評論社〔2〕)である(以下、単に『全資料』」と表記)。

(1)<ピアノ裁判>の概要。

① 伴奏拒否
 小学校教諭Fは、1999年4月1日、小平市立花小金井小学校から日野市立南平小学校に音楽専科教諭として転任した〔3〕。南平小学校では1995(平成7)年3月の卒業式から入学式卒業式の君が代(1999年8月成立の国旗・国家法の後は国歌)斉唱の伴奏はテープではなく音楽専科教諭によるピアノ伴奏で実施していた。3月17日、南平小学校校長Hは、転任にあたっての面接で同校を訪れたF教諭に対して「南平小学校では、従来、入学式の際にピアノ伴奏で国歌斉唱を行ってきたので、新しく来たあなたもピアノ伴奏をお願いしたい。」と要請したところ、F教諭は「自分の思想・信条上それから音楽教師としてできない。」と断った。4月5日に入学式の最終打ち合わせを行う職員会議が開催された。F教諭は、その場で「事前面接の時に弾くように言われたけれど、私は、思想・信条上それから音楽教師としても弾けません。」と発言した。校長はそれに対し「校歌と同じように、国歌につてもピアノ伴奏をお願いしたい。」と言ったところ、他の教諭からは校長の発言に批判的な意見が出た。H校長は、「本校では従来ピアノを弾いてきたので、国歌のピアノ伴奏をお願いします。これは職務命令です。」と発言した。職務命令だと処罰されますかとのFの問いに対してH校長は、処罰されます、と答えた。校長は記録担当者に発言時刻を記載させた。F教諭はこれに対し「『君が代』の伴奏に対して職務命令が出されたことは疑問です。弾きません。」と答えた。職員会議の司会担当教諭は「『君が代』の扱いについてはもう一度管理職で考えてほしい。」と述べて議論を終了させた。その後、H校長は教頭にテープレコーダーとカセットテープを渡して、F教諭が伴奏をしない場合に備えさせた。
 入学式当日4月6日朝、校長室でF教諭に再度、「国歌について、ピアノ伴奏をお願いしたい。あなたの名前を式の中では指名しないけれども、ぜひピアノ伴奏をお願いしたい。職務命令です。」と言ったところF教諭は、「弾けません。」と答えた。午前10時、入学式が開始され、F教諭は入場曲「さんぽ」をピアノ伴奏した。新入生の入場後、司会の教頭が開式の言葉を述べ、続けて「国歌斉唱」と言った〔4〕。F教諭がピアノの前の椅子に座ったまま、5ないし10秒間、ピアノを弾く様子がなかったので、校長の合図により教頭はテープ伴奏を〔5〕開始し国歌斉唱が行われた〔6〕。

② 懲戒処分と審査請求
 4月14日、H校長は、「平成11年4月14日付け南平小発第24号 教員の職務命令違反について(報告)」を市教委に提出し、請求人に対して厳正な措置で臨むことが適切であると判断する旨、報告した。4月15日午後2時33分から同2時54分まで、市教委のN指導室長は、南平小校長室で請求人から事情聴取を行った。請求人は、職務命令が出されたが弾かなかったと発言した。5月7日、処分者の東京都教育委員会は、請求人に対して事情聴取を行った。5月26日、市教委は、臨時会を開催し、請求人の職務命令違反に対して厳正な措置を求める内申を処分者に提出することを決定し、同年5月31日付けで「日野市立南平小学校教諭Fの服務事故について」を処分者に提出した。
 6月11日、処分者東京都教育委員会は、本件について懲戒処分を行い、発令通知書及び処分説明書を請求人に交付した〔7〕。F教諭は、7月21日付で東京都人事院会に戒告処分取り消しを請求する審査請求を行ったが、同委員会は2001(平成13年)10月26日、審査請求棄却の採決を行った〔8〕。

③訴訟
A、 第一審 
 2002(平成14)年1月25日、F教諭は東京都教育委員会を被告として、弁護士Y他を訴訟代理人として東京地方裁判所民事部に訴状を提出した。請求の趣旨は「1 被告が1999(平成11)年6月11日付で原告に対してなした戒告処分を取り消す。2 訴訟費用は被告の負担とする。」 というものであった〔9〕。東京地方裁判所は翌2003年12月3日、「主文 1 原告の請求を棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。」という原告敗訴の判決を行った。その理由は、原告の職務命令拒否が原告の思想・良心を根拠とするものであり、本件を憲法19条の適用如何が問われる案件と認めたが、地方公務員法・学習指導要領を根拠に職務命令は違憲違法ではなく、原告は思想・良心への制約を受忍すべきものとした〔10〕。
B、 控訴審
 第一審敗訴に対して、原告は2003(平成15)年12月9日、第一審と同じ弁護士Y他を代理人として、原判決の取り消しを求めて東京高等裁判所民事部に控訴した〔11〕。東京高等裁判所は、翌2004年7月7日、控訴棄却を判決し、原告はここでも敗訴した。その理由は、第1審と基本的に同じである。
C、上告審
 2004(平成16)年7月20日、原告はこれまでと同じ弁護士Y他を代理人として、原判決(第2審判決)の取り消しを求めて最高裁判所に上告した。本件は第三小法廷で審理されることとなったが、最高裁は一度も口頭弁論を開かないまま2007(平成19)年2月27日、上告棄却の判決を言い渡した。〔12〕その理由は、解釈が分かれるところだが〔13〕、第1審・控訴審とは異なり、「一般的」「客観的」な観点から、原告の主張する思想・良心を憲法19条の保護外にあるとするものであった。
 こうして東京地裁への出訴から数えて5年以上経て、本件は司法上決着をみた。処分対象の事件から数えれば8年に及ぶ裁判であった。【以下、次回】

注〔1〕たとえば土屋英雄〔「日の丸・君が代」裁判と思想・良心の自由 意見書・証言録〕(現代人文社 2007)p193以下
注〔2〕日野「君が代」処分対策委員会・日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件弁護団編。2008年8月10日
注〔3〕以下の叙述は、特に断りがない限り『全資料』所収の地裁判決中「第3 当裁判所の判断 1 事実認定」より(p713以下)
注〔4〕人事委員会採決の事実認定では、教頭は「一同ご起立ください。一年生も立ちましょう。ただ今より平成11年度日野市立南平小学校第26回入学式を始めます。礼。国歌斉唱。」といった、という(『全資料』p697)。
注〔5〕このテープが管弦楽であったか、それとも校長の方針に基づきピアノであったかは、「全資料」のどの文書にも明記されていない。伴奏テープの一般(川島素晴意見書(『全資料』p296)から考えて管弦楽であったことが推測される。
注〔6〕以上『全資料』p713-715。
注〔7〕以上東京都人事委員会採決「1 認定事実」より(『全資料』p697-698)
注〔8〕『全資料』p692
注〔9〕『全資料』p12-13
注〔10〕『全資料』p702-723
注〔11〕『全資料』p320
注〔12〕『全資料』p738以下
注〔13〕たとえば、多くの批判的論評と調査官解説(『ジュリストNO.1344』(2007.11.1))

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君臣水魚、元と偶然に非ざるを知るべし(福田芳之助)

2018-07-17 05:06:45 | コラムと名言

◎君臣水魚、元と偶然に非ざるを知るべし(福田芳之助)

 昨日の続きである。本日は、福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)から、「金庾信」と「中臣鎌足」とを対比している箇所(二五五~二五八ページ)を紹介してみたい。
 引用したところの最初にある「史論子」とは、著者・福田芳之助の自称である。

 史論子曰く、三国鼎峙の季〈スエ〉、各一人の英雄を出す、高勾驪〔高句麗〕の蓋蘇文〔淵蓋蘇文〕、百済の福信〔鬼室福信〕、新羅の金庾信〈キン・ユシン〉是なり。蓋蘇文国政を執るの時、唐の太宗の英武を以て、自ら師〔軍隊〕を将ゐて〈ヒキイテ〉之に臨む、長孫無忌〈チョウソン・ムキ〉、王道宗、李世勣〈リ・セイセキ〉、皆一世の才にして、なほ安市の蹉躓〈サチ〉あり、爾後頻年〈ヒンネン〉兵を出すも、高勾驪動かざること磐石〈バンジャク〉の如し。福信已に〈スデニ〉滅ぶるの百済を糾合し、唐軍を熊津〈クマナリ〉の一城に窘迫〈キンパク〉す、新羅の援軍、匹馬〈ヒツバ〉回らず、河南河北皆響応して、略ぼ〈ホボ〉旧図を復さんとす。而も福信殺されて、百済秋草を焼くが如く、蓋蘇文死して、高勾驪朽木の如し、庾信之と時を同うして、其胆略は蘇文に及ばず、其怪力は福信に及ばず、而して其克く一統の業を成す所以のもの何ぞや。庾信年十七、中嶽の石崛〈セックツ〉に入り、天に祈て曰く、敵国無道にして、我〈ワガ〉疆域〈キョウイキ〉を擾し〈ミダシ〉、略ぼ寧歳あること無し、天よ、願くは神を下して、手を我に仮せ〈カセ〉と。彼は恒に此至誠を以て心と為し、君臣水魚、肝胆相照しぬ、去れば庾信ありと雖も、春秋無くんば不可なり、二人相俟て〈アイマッテ〉始めて功を攻すものと謂ふべく、猶我天智鎌足の如きか。初め鎌足、蘇我氏の跳梁を患へて〈ウレエテ〉、窃に〈ヒソカニ〉匡済〈キョウサイ〉の志を懐くや、中大兄皇子〈ナカノオオエノオウジ〉に心を嘱し〈ショクシ〉、法興寺槻樹下〔つきのきのもと〕に蹴鞠〈ケマリ〉の時、会〈タマタマ〉皇子の鞋〈クツ〉の、鞠と共に脱したるを見、趨りて〈ハシリテ〉之を捧げ、以て慇懃〈インギン〉を通じぬ。庾信亦春秋王孫と、宅前に蹴鞠の戯を為し、故らに〈コトサラニ〉其衣を裂て、家に引入し、以て姻戚を結ぶの端を啓く〈ヒラク〉と、事〈コト〉甚だ相似て、君臣水魚、元と偶然に非ざる〈アラザル〉を知るべし。中大兄、鎌足と謀て大臣蘇我入鹿〈ソガノイルカ〉を誅するや、皇極位を孝徳に譲り、中大兄を以て皇太子と為す、五年にして孝徳崩じ、中大兄当然立つべかりしを、再び皇極女帝を擁して重祚〈チョウソ〉せしめ、己れは万機の衝に当りて、政事を行へり。庾信等、大臣毗曇〈ヒドン〉の乱を平げ、次で善徳女王殂し〈ソシ〉、王系の近親と、其重望より云へば、春秋は、最も後継に擬せられるべき位置に在りながら、自ら避けて真徳女王を立て、其身は専ら内外の枢機に参しぬ。両者隠忍自重〈インニンジチョウ〉すること如斯〈カクノゴトク〉にして、遂に位に即くや、一は空前の國體改革を遂行し、一は三国一統の大事業を成就したり。而して鎌足と庾信とが、此間に於ける参画の功は之を竹帛〈チクハク〉に垂れて遜色あることなし。鎌足薨する〈コウスル〉や、天智其第に臨みて、優詔を下し、庾信卒する時、文武亦其第に臨みて、優詔を下す、俱に〈トモニ〉元勲を待つの体を得たもと謂ふべし。鎌足薨後、其子不比等〔藤原不比等〕、右大臣を拝して、朝恩浅からず、太政大臣正一位を贈らる、是より其子孫、世々台閣に列し、其家より后妃〈コウヒ〉を出し、遂には朝権を侮蔑し、天子は我家の立つる所なりと云ふものすら無きに非ざりき。庾信五男四女あり、殊に武烈の妃は其妹にして、文武は其姪なり、若し一家の栄達を計らんと欲せば、何事をも為し得べしと雖も、其身を持すること極めて方正、曽て〈カツテ〉第二子、元述の戦に敗れて還るや、之を斬らんことを請ひ、其母亦、之を門に入るゝを拒みたるが如き、最も家門の厳粛を知るべし。是を以て、子孫亦克く其遺訓を守り、後世藤原氏の如き閥族を生ずるに至らず、武烈より景徳に至る、五世百十余年、綱紀愈〈イヨイヨ〉張りて、一統の業を堕さゞりしは、抑〈ソモソモ〉亦故ありと謂ふべし。

 漢文調の文体で、読むのに、漢和辞典が手ばなせない。しかし、説くところは明白であって、春秋・庾信の故事と、中大兄・鎌足の故事とが、「甚だ相似て」おり、これは「偶然に非ざる」を知るべきだと指摘している。
 しかし、福田芳之助の指摘は、そこまでであって、それ以上のことは言っていない。
 ところが、昨日も見たように、鹿島史観においては、この福田の指摘が、「入鹿殺しのモデルが毗曇の乱だ」とか、『日本書紀』は「朝鮮史の飜訳だ」とか、いう話になってしまうのである。

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