礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

狂言の発声法について(六代目野村万蔵「万蔵芸談」より)

2012-07-26 05:34:19 | 日記

◎狂言の発声法について(六代目野村万蔵「万蔵芸談」より)

 古川久の『狂言の研究』(福村書店、一九四八)の巻末に、「万蔵芸談」という付録がある。著者の古川が、和泉流狂言師六代目野村万蔵(一八九八~一九七八)から聞き取った芸談をまとめたものである。付録の扉には、次のようにある。

 先に生活社刊行日本叢書の一部として、『狂言芸談 野村万蔵聞書』を発表したが、同書は頁数に制約があつて、相当分量を割愛しなければならなかつた。今ここに口述者の許可を得、礎稿に目を通していただいて、それを発表する機会に恵まれた。野村氏の声価については既に定評があるので、ここでは吹聴することを避け、ただ同家の系図を掲げるに止める。なお日本叢書の場合と同じく、文責は総て〈スベテ〉筆録者に在ることを、お断りして置く。

 ここに『狂言芸談 野村万蔵聞書』とあるのは、生活社の日本叢書97として、一九四六年(昭和二一)に刊行されたもの。B6判で本文わずか三一ページ、書籍というよりは冊子に近い。ちなみに、『狂言の研究』の「万蔵芸談」は、四二ページ分ある。
 さて、この「万蔵芸談」に、狂言における「発声」と「姿勢」のことが語られていて興味深い。

 狂言はただ大竹の如くにて直ぐ〈スグ〉に清くて節〈フシ〉少けれ、といふ歌を教へられて居りますが、狂言演奏上最も大切なものは、詞と姿勢とであります。
 詞は開口をはつきりと、腹から声を出して、明瞭に発音することで、私どもの伝書に左のやうな心得が記されて居ります。

 ここで、「詞」の読みが気になる。〈シ〉とも〈コトバ〉とも読めるが、おそらく後者であろう。
 このあと、「私どもの伝書」にある「心得」が紹介される。カタカナ文でやや読みにくいが、原文をそのまま引用する。

アイウエオ  唯音     カキクケコ  牙
サシスセソ  舌歯     タチツテト  舌
ナニヌネノ  舌      ハヒフヘホ  唇軽
マミムメモ  唇重     ヤイユエヨ  喉
ラリルレロ  舌      ワヰウヱヲ  喉
 ア     歯ト唇ヲ開ク
 イ     歯ヲ噛ミ唇ヲ開ク
 ウ     歯ヲ噛ミ唇ヲ結ブ
 エ     舌ヲ浮カシ口中ニ開ク
 オ     口ヲ窄ム〈ツボム〉
アカサタナハマヤラワ
 口ヲ大キク開キ顎ヲ出サヌヤウニ和ラカ〈ヤワラカ〉ニ口ヲ開クコト。
イキシチニヒミイリヰ
 歯ヲ合セ専ラ〈モッパラ〉舌ニ力ヲ入レルコト。
ウクスツヌフムユルウ
 唇ヲ柔ラカ〈ヤワラカ〉ニシ唇ヲ反ラシタリ皺ヲ寄セヌコト。
エケセテネヘメエレエ
 舌ノ根ト喉元〈ノドモト〉ニ力ヲ入レ口中ヲ平〈タイラ〉ニ保チ舌ヲ躍動サセヌコト。
オコソトノホモヨロヲ
 舌を窄メ頬ヲ脹ラス〈ハラス〉ヤウニシテ息ヲ太ク使フコト。
シチツス
 此〈コノ〉四音ハ充分舌ニ力ヲ入レテ発音セネバ不明瞭ニナル。
ベビブ
 此三音ハ耳障リ〈ミミザワリ〉ニナリ易キモノナレバ奇麗ニ発音スルコト。

 いずれも、「詞」(言葉)についての注意、すなわち「発声・発音」についての注意である。それにしても、「伝書」の説明が、きわめて合理的であることに驚く。文章表現あるいは使われている語句などから見て、この「伝書」が整えられたのは、近代以降ではないかという印象を抱く。
 なお、引用文中に「顎」という漢字があるが、これは原文では、偏がニクヅキ、ツクリが「顎」の右側という難字(齶の異体字か)になっている。読みが〈アゴ〉であることは間違いないようなので、「顎」としておいた。
 野村万蔵は、続いて、「姿勢」についても語っているが、これについては次回。【この話、続く】

今日の名言 2012・7・26

◎声の悪い者は形に恵まれると申します

 六代目野村万蔵の言葉。「万蔵芸談」より(『狂言の研究』198ページ)。「これは恵まれるといふよりも、悪声を補はうとする努力の賜物と思ひますし、又観客も声の悪さと比較して、形を見るからでありませう」。名人と言われる人の名言には、この種の逆説が多いような気がする。

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避難は地面の下が一番(昭和一八年「時局防空必携」より)

2012-07-25 04:27:32 | 日記

◎避難は地面の下が一番(昭和一八年「時局防空必携」より)

 一週間ほど前に、大西進氏の『日常の中の戦争遺跡』という新刊を紹介した。その二二三ページに、一九四三年(昭和一八)七月二二日の朝日新聞記事(「避難所」の造り方)の縮小コピーが載っている。しかし、これを「記事」として読むのはきわめて難しい。
 データベースは、おそらく当時の縮刷版だと思うが、その縮刷版がそもそも判読しづらいものなのではないか。当時は、活字や用紙などの事情により、「原紙」自体が、判読しづらいものになっていた可能性もある。
 無理を承知で読んでみると、次のような記事であった。

地面下が一番安全
“時局防空必携”の解説……1
避 難 所
 大東亜戦争が始まつてから防空実施の命令が発せられてゐる、すなはち今は防空実施中である、ところでわれわれが家を護り国を護るには果たしてどの程度の設備と訓練が必要であらうか、この二十一日発行された週報〔雑誌名〕の「改訂時局防空必携」の中から次に拾つてみよう
避難所を造るときの注意
 家庭の避難所は地面を掘り下げて造つたものが安全であり、これに比較すると地上に設けたものは大分効力が劣る
 従つて、やむを得ないもののほか、地面下に造ることがよい、建物の構造や四囲の状況により、地面下に造ることの出来ない場合は、地上または床上〈ユカウエ〉に造る
 床上に造る場合、日常生活に差支へががある場合には警戒警報が発せられたらすぐ造ることにし、その準備をして置かねばならない、屋内か屋外かは敷地や建物の状況、付近の家屋、術工物(工作物)樹木等の状態、土質、地下水位の特性等を十分に現地で研究し、よい方にきめ、屋内床下〈ユカシタ〉に造る場合は、特に出やすいやうにすることが大切である、屋外に設けた場合は、上からの落下物に対し、掩護〈エンゴ〉援護するため布団や鉄兜〈テツカブト〉等で頭や肩を蔽ふ〈オオウ〉やうにし、また図〔略〕のやうに畳などをのせるのも一方法である
 なほ避難所は老人子供等の養護の場所にもなるが、家族の多い家庭では一箇所に大勢集ることは万一の場合に被害が大きくなるから一箇所五人程度にし、且つなるべく分散して造ることが望ましい

 読点(テン)があって、句点(マル)がないが、かつての新聞においては、これがスタンダードな表記であった。
 術工物〈ジュツコウブツ〉という言葉が珍しいが、これは工作物を示す軍事用語のようである。
 さて、ここで説明されている「避難所」とは、今日、私たちが知っている「防空壕」とほぼ同義と思われる。このころはまだ、「防空壕」という言葉は、一般的ではなかったのか(避難所のうち、屋外の地面下に造られたものが「防空壕」という位置づけになるのであろう)。
 なお、この新聞記事は、内閣情報局発行の雑誌『週報』第三五三号を踏まえている。ご関心のある方は、「週報 第353号」で検索してみてください。さらに情報が得られます。

今日の名言 2012・7・25

◎待避所は一カ所に大勢集まると直撃弾の被害が大きくなる

『週報』第353号(昭和18年7月21日号)より。上記新聞記事の「一箇所に大勢集ることは万一の場合に被害が大きくなる」という記述は、『週報』のこの記述に対応しているようである。ここのところ、地震・津波・原発事故・竜巻・集中豪雨などが続いている。戦時下のこうした「情報」が、再び、国民の「心得」となる日も近いかもしれない。

*平成地震かるた* 「余白」さん、投稿ありがとうございました(6月15日のコラムへのコメント)。私も作ってみました。【い】命からがら避難所へ【は】初めて聞く計画停電【へ】ヘリコプターから注水【り】陸前高田の一本松【る】留守のあいだに家畜全滅【わ】悪者にされた菅首相【よ】夜道をゾロゾロ帰宅難民【れ】列を作って入浴し【く】車を呑みこむ黒い波【こ】これに懲りよ保安院【て】テレビCM自主規制【せ】世界の言葉フクシマ

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情の脆さに祟られた福地桜痴(柳田泉の桜痴論を読む・その2)

2012-07-24 05:38:39 | 日記

◎情の脆さに祟られた福地桜痴(柳田泉の桜痴論を読む・その2)

 昨日の続きである。柳田泉の「桜痴居士の『懐往事談』について」の「二」の後半部分を引用する。

 桜痴の才は豊富だったが、それがあまりに豊富すぎた割に、性格に訓練がなかった。桜痴の聡明も人に絶していたが、いささかそれを恃み〈タノミ〉過ぎた。彼がかつて岩倉公〔岩倉具視〕にいった言葉で、自分は「四人分の仕事ができる」と自信していたことが分かるが、口では四人分といっても、実際の四人分は大変なものである。こういう才能や自信のために、彼には世間が馬鹿に見えて仕方がなかったろう。才を恃むと、人から服される一面には、人から憎まれる。それが繰り返されてくると、一種の妙な心理が生まれてくる。自分自身としては、何をなしても人一倍できるという万能的衿持〈キョウジ〉と環境の不如意〈フニョイ〉との軋轢〈アツレキ〉から、一種の棄て鉢〈ステバチ〉的な心境になるのである。その上、桜痴には、恐ろしく人情に脆い〈モロイ〉弱点がある。情に脆いのは、弱点というよりも、むしろ美点であるが、それは、意志の力でほどほどに調節されてのことで、度を過ぎると、もう立派に一種の道徳的欠陥、一種の性格的病気といえる。それこれすると、人から、操守がないとか、無節操といわれる結果にもなろう。この情の脆さがまた、今いった棄て鉢的な心境で強められ是認されて、万事に対して任地的無操守無理想(何でももいいや、なるようになれ)という、社会人としては、きわめて信頼できぬ一種の性格ができあがってしまう。
 桜痴居士の生涯を見ると、こういう性格にあくまで祟られ〈タタラレ〉ているように思われる。公人としての彼の致命傷となつた芳原〔吉原遊郭〕収賄事件を考えてみても、また売節云々で攻撃された(今なお攻撃されている)御用記者的態度を見ても、さては本篇で知られるように、折角の大蔵省四等出仕を一片の気まま我がままからさらりと投げ出した無責任さについても、たいてい同じことがいえるので、天分の動くままに動いて、それが失脚の一途をたどるというのでは、それを性格悲劇とよんでも、そう聞違ったものといえなかろう。
 眼さきが見えなくはない、むしろ十分見え過ぎる、こうすればこうなるということは十分わかっている。それでいて情にからんでこられると、ころりと負けてしまう。だが負けたと知りつつ、根が智慧者〈チエシャ〉のことだから、それを負けたのではないと理屈で紛らそうとする。その才力で立派な理屈を生み出す、しかしどうしても無理ができる。自縄自縛となる、社会の攻撃を買う。しかも内心、そういうふうに他人のために損な役廻りをひきうけて、妙な得意と感激を覚える。俺の心事は知る人ぞ知る、お前方の知ったことじゃないといった、澄ました気でいるが、彼の心事を知るはずの人が、いずれも彼一人を犠牲にし放して、決してその心事の証明はしてやらない。損はいつも彼の頭にばかりかぶさる。そうしてそのままで後世に残され、それが定評という恐ろしいものになる。桜痴の場合がまったくいい手本だといってよい。
 情に脆いということは、世間的には乃至〈ナイシ〉ある人、ある場合には美しい好い事であるに違いない。しかし桜痴の場合には、きわめて悪いことであった。桜痴自身もそれを知っていたろう、しかしその性格がどうにもすることを許さなかった。
 私が桜痴を気の毒ずくめというわけがこれでいくらか分かってもらえると思う。
『新聞紙実歴』〔『懐往事談』の付録〕のほうには、いく分そういう性格が出ているはずであるから、注意してお読みになりたい。

 以上が、引用である。柳田泉は、桜痴のことを、厳しく突き放して論じているかに見えて、その実、桜痴の内面、桜痴の秘密に迫ろうとしている。福地桜痴という人物を、ここまで真剣に論じた文章は、多分ほかにはない。柳田泉には、何か、桜痴に「思い入れる」理由があったのだろうか。
 なお、文中、「芳原」という言葉が出てくる。この読みは〈ヨシハラ〉だと思うが、吉原遊郭の「佳語」として使っているとすれば、その読みは〈ホウゲン〉ということになろう。

今日の名言 2012・7・24

◎何も変えないでいると、結局、突然、大きく変えざるを得なくなる

 今日の日本経済新聞の「やさしい経済学」欄より。執筆は京都大学名誉教授の西村和雄氏。西村氏は、アダム・スミスの『国富論』を援用しながらこのように言う。もちろん、「なかなか改革の必要性を認めない」日本政府を意識しての発言である。

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福地桜痴の「性格悲劇」(柳田泉の桜痴論を読む)

2012-07-23 05:41:55 | 日記

◎福地桜痴の「性格悲劇」(柳田泉の桜痴論を読む)

 明治期の新聞記者・福地桜痴(一八四一~一九〇六)の代表作に『懐往事談』という史論があるが、その改造文庫版(一九四一)は、きわめて貴重な史料である。第一に、柳田泉による長文の解説「桜痴居士の『懐往事談』について」が付されている。第二に、あちこちに伏字〈フセジ〉があるからである。
 この伏字は、おそらく検閲を意識した「自主規制」であろう。一八九四年(明治二七)の初版で表現できても、一九四一年(昭和一六)においては、表現しにくくなっていた言葉や事柄があったということである。数年前、どういう言葉、どういう事柄を伏せようとしたかを調べてみたことがあった(拙著『攘夷と憂国』終章参照)。非常に興味深い経験であったが、今は、それについては述べない。
 ここでは、同文庫版の巻末にある柳田泉の解説を紹介してみよう。この解説は三節からなるが、その「二」の部分を紹介する。かな遣いなどは、少し直した。

 私は、この文章の最初のところで、不遇な晩年といった。しかし桜痴の不遇は、四十代から始まるのである、つまり四十代の初めまで、明治十七八年まではすこぶる不遇であるが、それ以後は一年一年不遇になってくる。いな、不遇は不遇だけですまず、しきりに不評を伴ってくる、そうしていろいろな不幸も加わる。前半生の華やかなのに引き換え、後半生は、文字通りの才人の落托〔おちぶれること〕ということになり、気の毒ずくめの中で死んでしまった。
 私は昭和十年〔一九三五〕の一月、桜痴居士の三十年忌に一文を認めて〈シタタメテ〉、いささか居士のために弁じたことがあったが、まったく居士は気の毒な人である。それで、この機会に、右の一文の中から一節を借用して、その気の毒だというわけをもう一度おさらいしよう。
 豊富な才能とか聡明絶倫とかいう点からいっても、その生涯に成就した仕事の分量や種類からいっても、桜痴居士は、たしかに常人が梯〈ハシゴ〉をかけても及ばないところがある。官人として、記者として、文章家として、政治家として、学者として、劇界の人として、小説家として、それぞれ自家の特色を発揮して、そのある方面では優に明治時代第一流の人材たる実〈ジツ〉を示し、その得意でない方面でも、第二流を下らぬ才力〈サイリョク〉を現わして万能選手の意気を見せている。だのに、人は、その能は認めても、その人を買おうとはしない。折角の三面六臂の働きも額面通りに通用しなかったのは、何故であろう。それは、桜痴居士自身の不徳のためだ、不品行のためだ、彼の放蕩と売節〔節操を曲げること〕のせいだ、彼の運が悪いのだ、云々〈ウンヌン〉と世人は答えるかもしれない。一応はその通りである。いかにも彼は不徳であった、不品行であった、放蕩も甚しかった、売節もした、不運でもあった。だが、そういっても、まだ割りきれないものが、彼を気の毒がる私の胸に残っている。不徳不品行が桜痴以下とはいえない人でも、立派に明治史上第一流の名を残している人がある。放蕩といっても、彼は時流の一人であったのみ、皆が皆、もっとひどいことばかりやったのである。売節はなるほど悪い、弁護の余地はない(その事実は、『新聞紙実歴』を見られたい)、それは公然とかつ無邪気にやったから、人目立って〈ヒトメダッテ〉いるところが多いのだ。暮夜〈ボヤ〉密かに権門の金を握った人は、当時清白の名をとった人々にも随分あったのだ。運不運といっても、運はその人の意志次第である程度まで左右できるものだから、それだけでもない。私は、桜痴の場合は、一つの典型的な性格悲劇だといいたい。彼はつまるところ、弱かった、意志の力を欠いていた。

 このあと、柳田泉の筆は、さらに福地桜痴という人物の核心に迫ってゆくが、これは次回。【この話、続く】

今日の名言 2012・7・23

◎幼少の居士は天才的早熟児であつた

 柳田泉「桜痴居士の『懐往事談』について」(1941)より。桜痴居士、福地源一郎、名は萬世〈ツムヨ〉、1841年(天保12)、長崎本石灰町〈モトシックイマチ〉に生まれる。4歳で「三字経孝経」を誦し、12歳のとき、漢文で『皇朝二十四孝』という一書を著したという。

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言語学者・橘正一の業績について(付・「絶好調」の週刊文春)

2012-07-22 07:22:25 | 日記

◎言語学者・橘正一の業績について

 橘正一〈タチバナ・ショウイチ〉という言語学者がいた(一九〇二~一九四〇)。若くして亡くなったためか、あまり評価されていないようだ。多くの優れた論文を残しているが、それらを一冊の本にまとめようという動きがないのは残念である。
 橘正一の論文には、以前から注目してきた。橘正一の論文を読むと、この人は、民俗学ないし民族学(文化人類学)という学問に関心があり、また民俗学的・民族学的なセンスを持っていたという印象をいだく。
 歴史民俗学資料叢書(全一五巻、批評社)に、何編か、彼の論文を収録できたことを、密かな誇りとしている。特に、『性愛の民俗学』(二〇〇七)に収録した「シタクチバナシ」(一九三〇)は、いかにも橘らしいユニークな論文であると考えている。
 その業績には注目してきたものの、橘正一の人物については、まだほとんど調べていない。橘正一の人物や業績について調べている研究者がいるのかどうかも把握していない。
 ただ最近、たまたま開いた本の中に、橘正一について述べている部分があったので紹介しておこう。

 五年〔昭和五年=一九三〇〕の同じ八月に盛岡の橘正一氏は謄写版で「方言と土俗」という雑誌を創刊した。この発行については大田栄太郎と私〔東条操〕とに相談があり連名でという事であったが、事実は橘氏の独力で規画〔ママ〕され経営された。橘氏は既に故人であるからやや詳しく記しておきたい。
 橘氏は盛岡の人で、方言に興味を持ったのはある種の民俗研究かららしいが、二高を出た大正十一年〔一九二二〕以来肺を冒され多く臥床していた。「一つの身に五つの病を持ち」と記した彼は、病床で方言集を集めながら方言の比較研究に熱中した。雑誌を計画した昭和五年〔一九三〇〕には二十九歳であった。この雑誌は四年ばかり続き四十五冊を出した。三十一歳の昭和十一年〔一九三六〕に「方言学概論」を出した。これは八年間の努力で集めた十三万枚の方言カードの結晶だといっている。翌十二年には「方言読本」を出した。両書とも語彙中心のものだが、かなり大衆向で面白く読める。氏の興味は、やがて語彙から語法に移って方言文学を材料として、この方面の論文を続々発表した。十四年から「分類全国方言辞典」を計画し十五年〔一九四〇〕に第四冊目の「諸国助詞方言集」を出したが、同年三十九歳で没した。非常な努力家であり、方言の啓蒙には功績のあった人である。方言研究家には病身のために研究に入った人が多い。元来は全国を踏査するだけの頑健さの必な筈〈ハズ〉の方言研究が、病人の仕事となった点に従来の日本の方言研究の弱い性格が見える。方言研究はどうしても臨地調査の上に築かれなければならない。文献に依存ずるのは権道〈ケンドウ〉である。

 出典は、東条操『方言の研究』(刀江書院、一九五一)である。わずか一ページほどの記述であるが、それでも貴重な情報である。
 私は、この東条操という人物については、よく知らないが(方言学者であることは知っている)、すくなくとも、橘正一のよき理解者ではなかったようだ。
 橘正一を単なる方言学者としか見ていないし、しかも大成できなかった方言学者としか見ていない。「方言の啓蒙には功績のあった人である」というのは、もちろん「褒め言葉」ではない。おそらく東条は、橘が『方言と土俗』というタイトルの雑誌を出し続けた意味を理解していなかったし、橘論文における民俗学的・民族学的な視点にも気づかなかった(気づこうとしなかった)のであろう。
 ちなみに、引用文の最後にある「権道」とは、「正道」の対語で、目的を達するためにとる手段が正しくない道といった意味である。東条操は、自分の方言学が「正道」で、橘正一の方言学は「権道」だと意識していたのであろう。

今日の名言 2012・7・22

◎名誉毀損の裁判は個人の立場でおこなうべきだ

 本日の東京新聞「週刊誌を読む」欄(執筆・篠田博之)によると、このところ週刊文春が「絶好調」のようだ。日経新聞社長の名誉毀損事件、週刊文春広告拒否問題でも、週刊文春側は強気の姿勢を崩していない。一方、日経新聞社内では、「社長個人の問題ならば、名誉毀損の裁判は個人の立場でおこなうべきだ」という意見が優勢らしい。ただしこれは、週刊文春の報道なので割り引いて考える必要があるというのが、篠田博之氏のコメントである。

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