礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

憲法擁護のためには一身を犠牲とするも悔いず

2017-05-06 06:07:26 | コラムと名言

◎憲法擁護のためには一身を犠牲とするも悔いず

 美濃部亮吉の「狙撃された天皇機関説」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。出典は、『文藝春秋』臨時増刊「読本・現代史」(一九五四年一〇月)。
 昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

  公 職 辞 退
 形勢は日に日に悪化して行つた。著書の発禁によつて機関説事件に終止符が打たれるかに見えたが、案に相違して、機関説排撃の運動は時と共に熾烈さを増した。初めはやや同情的な記事を掲げた新聞も次第に排撃的な調子に変つて行つた。著書の発禁に止らず〈トドマラズ〉、父が一切の公職ことに貴族院議員を辞さない限り、排撃の火の手は止まないかに思えた。
 父が公職を辞し、機関説事件にけりをつけないと政府の運命にさえかかわりそうになつて来た。ことに天皇陛下が機関説は正しいとし、天皇は当然国の機関であり、美濃部は不忠の臣でないといわれたということである。こうなると政府は、軍部・右翼と天皇との間にはさまつて進退きわまつてしまつた。どうしても、父が自発的に公職を辞してくれないと事態は甚だ困ることになる。
 不敬事件として起訴をすることを断念した司法当局は、もし公職を辞さないならば、出版法違反で起訴するとおどかし始めた。裁判の結果がどうなるかはわからないが、当時の情勢から見ると、有罪になつて刑務所に行くようになる可能性も充分にあつた。ずい分変な話ではあるが、公職さえ辞するならば、起訴猶予にすると、政府側からいつて来た。
 政府は又、公職を辞さないでがんばつていると、右翼団体が暴力で父を抹殺しようとする危険が充分にあるといつて私達をおどかした。勿論、現実にそういう事態が起つたのだから、そういう危険があつたことは事実であろう。しかし、そういう危険があることが分つていながら、それを防禦するために充分の措置も講ぜず、そういう危険があるから公職をやめろというのもずい分わからない話である。私も警視総監に呼ばれて、危険がいかに迫つているか、それを防ぐには公職を辞する以外に方法のないことをこんこんと口説かれた。
 父はあくまで自説を曲げるつもりはなかつた。公職を辞することは、自分の非を天下に表明することであるから、公職を辞する意志は毛頭なかつた。生命への危険と起訴の可能性とをたてにとつて、政府は公職辞退を父に対し直接にしようよう〔慫慂〕したことがあるらしい。つぎの手紙は、その返事として書かれたものらしいが、誰にあてたものかはわからない。又実際に投かんはされなかつたらしい。
『小生公職辞の儀につきなお熟考を重ねし結果今日に於て小生自ら公職を辞することによつて自ら自己の罪を認めて過誤を天下に陳謝するの意義を表白致すものに外ならぬとは申すまでもこれ無く、自ら学問的生命を抛棄し、醜命を死後に残すものにて小生の堪え難き苦痛と致す所にこれあり候。勿論裁判の結果万一有罪と相成らば当然失職とも相成り又貴族院に於て除名の決議これあり候はば是又甘受する所に候も自発的に自分の罪を自認する事は自ら省みて疾しきを覚えざるものの忍び得ざる所にこれあり候。何卒苦衷御憫察下され度〈クダサレタク〉候。顧みればこの数年来憲政破壊の風潮益々盛んと相成り甚き〈ハナハダシキ〉は自由主義思想の絶滅を叫ぶ声すら高く而も自由主義は即ち立憲主義とも申すべく少くとも自由主義は憲政の最も重要なる基礎原則として我〈ワガ〉欽定憲法の上諭中にも特にこれを宣言せられ憲法第二章の各条にもこれを明記致し居り候にも拘らず公然自由主義の撲滅を叫んで怪しまざるが如き実に憲政破壊の風潮の著しき現れと存じ、小生微力にして固より〈モトヨリ〉この風潮に対抗してこれを逆襲するだけの力あるものにこれなく候へども憲法の硏究を一生の仕事と致す一人として空しくこの風潮に屈服し退いて一身の安きを貪り〈ムサボリ〉てはその本分に反するものと確信致し居り候。及ばぬまでも憲法擁護のためには一身を犠牲とするも悔いざるの覚悟を定め候については折角の御厚情辞職勧告に背き候は不本意に候へども力の及ぶ限り不退転の意気を以て進み度〈タク〉決意致し居り候』
 父ながらまことに名文である。軒昂たる意気のなかに悲壮なものをよみ取ることができる。
 これだけの決意をもちながら、ついに公職を辞退することを決心するようになつたのは、一に〈イツニ〉、の親友である松本蒸治博士や私達近親のものの切なる懇請によつたものである。辞退を決意する前に、公職を辞しても、それは世の中をさわがせたことに責任を感じたからであつて、機関説の誤りを認めた結果ではないという声明をするがそれでよいかということを政府にたしかめたらしい。わらをもつかみたい政府はそれを承諾したらしい。
  凶弾からファッショへ
 昭和十年〔一九三五〕九月、一切の公職を辞することを司法大臣に通知すると共に、新聞にコンミュニケを発表した。
 そのなかには『……くれぐれも申し上げますがそれは私の学説を翻すとか自分の著書のまちがつていたことを認めるかという問題ではなく、唯貴族院の今日の空気において私が議員としての職分をつくすことが甚だ困難になつたことを深く感じたがために他なりません』という言葉があつた。軍部はもう一度さわぎだした。政府はもう一度圧迫を加えた。
 ここまで譲歩した以上、これ以上がんばつても仕方がないと思つたためか、父もその声明を取り消した。
 父は私に、政府のペテンにかけられたようなものだと語つていた。
 時の司法大臣は現司法大臣である小原直〈オハラ・ナオシ〉氏であつた。
 父の公職辞退で片がつくと思つた機関説事件も、約半年後意外な形で結末がつけられることになつた。
 昭和十一年〔一九三六〕二月一日、小田某と名乗る青年が吉祥寺の父の宅を訪れた。彼は、九州大学における父の教え子であり、満洲に転任になるので御あいさつに上つたといつて、手土産にかごにもり上げた果物を持参した。その時も、十人に上る護衛の警官が詰めていた。
 その学生は応接間に通された。談数刻、父は何かの本を取りに二階へ上つた。二階から下りて応接間に入るとたん、その青年は果物かごのなかから斬かん状とピストルとを取り出した。見かけに似合わず案外に敏しような父は、いち早く戸外に逃げ出した。門を出てとなりの空地を逃走中、一発の弾丸が足に命中した。幸いにも倒れることもなく逃げおわせる〔ママ〕ことができた。
 こつけいだつたのは、護衛中の警官の大部分が、くもの子をちらすように逃げ去つたことである。
 天皇機関説は完全に葬り去られた。ファッショは、天皇の名によつてあらゆる悪事を働いた。機関説の排撃は、独裁への道に横たわつていた最初の障害物であつたのである。
   (東京教育大学教授)

 昨日、紹介した「舞い込む脅迫状」の節で、美濃部亮吉は、吉祥寺の美濃部邸に派遣されていた巡査らが、「いざ鎌倉という時にはまるで役に立たなかつた」と述べていた。これは、「護衛中の警官の大部分が、くもの子をちらすように逃げ去つた」などの記述に対応しているのであろう。
 しかし、実際には、犯人の小田某は、巡査らのピストルによって負傷し、捕縛されている(五月三日のブログ参照)。したがって、巡査らが「まるで役に立たなかつた」というのは、言いすぎであろう。しかし、一方で、事件を聞いて美濃部達吉博士の前を走って逃げ、転倒した際に発砲し、美濃部博士の右脚に当ててしまった巡査がいたことも事実だったのである(これについても、五月三日のブログを参照されたい)。

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