礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和の心学は衆教一致でなければ(井上哲次郎)

2019-01-11 00:35:09 | コラムと名言

◎昭和の心学は衆教一致でなければ(井上哲次郎)
 
『心学道話』第四四号「東北心学研究」(一九三二年一〇月)から、井上哲次郎述「心学に対する感想と希望」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 石田梅巌によつて創唱せられた心学は、手島堵庵〈テジマ・トアン〉・中澤道二〈ナカザワ・ドウニ〉等の時代を経るに従つて、自ら確固たる地盤を作つて新しい一派を構成するに至つた。かくて目に一丁字〈イッテイジ〉無き丁稚〈デッチ〉小僧女中衆の低きに至るまで之に対して、凡そ〈オヨソ〉人たるの道を理解させ、如何にも面白く日常実行の道徳を説き示した事は、民衆を導くべき教〈オシエ〉の無かつた当時の欠陥を補ふて尚ほ余りあるものであつた。江戸中葉期に於ける社会教育特に民衆教育の勃興、それが心学であつたのである。
 而して心学派の中には、或は神道を力説し、或は朱子学を高唱した者もあつた。更に陽明学を重視し、或は又禅味を中心とした者もあつて、人により其の説く所多少の相違を免れ得なかつたが、全体的に之を云へば、その何れもが神儒仏三教とも是を尊信してゐたものゝやうであつた。
 一体、支那に起つた儒教は、主として帝王・官史・学者・処士・文人・墨客の間換言すればインテリゲンチヤの一方面にのみ行はれて、その他広く民衆には高尚過ぎて余り行はれなかつたのである。支那に於ける一般庶民の教化は儒教よりも寧ろ道教によつて成されたものである。例へば太上感応篇〈タイジョウカンノウヘン〉の如き、或は陰隲文〈インシツブン〉の如き、さう云ふ道教の書は通俗的で最も広く民間に流布し、下層階級の修養書として愛読されたものである。
 斯くの如く地元の支那に於いてさへ、民衆教化の機関たり得なかつた儒教を、平易に闡明〈センメイ〉して民衆教化に役立てた事は、何う〈ドウ〉しても石田梅巌の偉勲とせねばならない。
 かくて心学道話の最も盛んに行はれたのは約百四・五十年が間であつた。梅巌は貞享〈ジョウキョウ〉二年〔一六八五〕に生れ、四十五歳を以て初て道話を説き出したのであるから、その時から数へると明治元年〔一八六八〕まで百四十一年になる。維新後も彼是〈カレコレ〉十年頃まで相等の力を持つてゐたものゝやうであるから、そう見ると百四・五十年になる訳である。明治維新は社会制度と言ひ国民思想と言ひ、あらゆる日本文化の刷新期であつた。儒教も仏教も神道も乃至は心学も、澎湃〈ホウハイ〉としておし寄する外来文化の圧力には抗すべくもなかつた。心学も勢ひ地に堕ちて、時と共に社会から遊離し去つたものゝやうである。維新以来既に六十五年の歳月を経過して来た。心学が江戸時代の旧殻〈キュウカク〉の中に跼蹐〈キョクセキ〉する事は、斯教〔心学〕の為に取らざる事は勿論、混沌たる現代民衆を教化するには、教理構成上に於いて一大刷新を施さねばならぬであらう。
 以下卒直に心学復興に就いての私見を述べて置かう。
 今日外来文化の中には哲学あり、心理学あり、倫理学あり、社会学あり、経済学あり、又それ以外に宗教がある。
 哲学の中に於いてもプラトン・カント・フヒテ・ヘーゲル等の思想の中には、採つて範とすべき思想が多分に含まれてゐる。一体哲学者の説く哲学は、概して難解に過ぎて民衆には縁遠いものである。こゝに一般民衆に対する平易な哲学を創成する使命が、昭和心学者に与へられてゐると思ふ。倫理学又然り心理学又然り。又前に言つた宗教とは主として基督教を指したのであるが、尤も基督教は牧師や宣教師によつて説かれてゐるから、深く立ち入るべき要はないと思ふが,然しながら旧約書中のソロモンの箴言、新約書中の福音書又はポーロの書翰中には、金玉〈キンギョク〉の如き格言が溢れてゐる。是等を道話の材料に役立てたならば、必ずや心学道話の興隆に新しい一種の力と勢とを与へるものではなからうか。聖人は物に凝滞〈ギョウタイ〉せず能く世と推し移ると言ふ。心学が新しい組織と方法を採る時、初めて時世の要求に応じ、社会の進運に伴ふ事が出来るであらう。梅巌は三教一致を唱へたが、昭和の心学は哲学を基礎に置いた衆教一致でなければならない。
 然し衆教一致と言つても、それは徒らに思想の雑居を意味するのではない。是等衆教を統一する為に最後に我が純神道を以つてする事を忘れてはならない。古来、儒教も仏教も神道に結びついた事に依つて日本に更生したのであつた。心学も矢張り畢竟神ながらの道を以つて世界衆教の諸思想を統一する事がなかつたならば、真に烈々たる活気を呈する事が出来ないであらう。
 今日専ら心学に従事する方々が、以上の諸点に就いて顧慮して下さるゝならば幸であるが、 予は殊に之を新進気鋭の年若き心学者に期待する次第である。

 この文章のタイトルは、「心学に対する感想と希望」である。そして、井上哲次郎は、本日、紹介した箇所で、心学に対する「希望」を述べている。それを一言で言えば、「心学に従事する方々」によって、儒教・仏教・神道、あるいは西洋の宗教・哲学・倫理学・心理学をも統一した、「昭和の心学」がつくられるべきだ(衆教一致)というものである。その際、「我が純神道」を、その「昭和の心学」の核としたいと希望するところが(下線部注意)、いかにも「御用学者」らしい。明日は、いったん話題を変える。

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