礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

米川正夫が回想する琴三弦演奏会(付・内田百間と『文章世界』)

2012-11-12 05:44:27 | 日記

◎米川正夫が回想する琴三弦演奏会

 ロシア文学者の米川正夫(一八九一~一九六五)に、『鈍・根・才 米川正夫自伝』(河出書房)という自伝がある。生前の一九六二年(昭和三七)に出版されたものである。
 この本の終章で米川は、「桑原会」のこと、および、一九三八年(昭和一三)七月二日に開かれたその第一回演奏会のことを記している。引用してみよう。

 
 私と内田百間氏が中心になって、文芸家もしくは文化人ばかりで、「桑原会」〈ソウゲンカイ〉という素人の琴三絃の会をつくったことがある。百間氏は私や中村白葉などと同じく、むかし『文章世界』の投書家だった。当時流石というペンネームを使っていたが、すでに完成した文体で田山花袋〔当時、『文章世界』編集主任〕にも注目されていた。私の外語〔東京外国語学校〕時代、彼は岡山の六高を卒業して、東大の独文科に入ったとき、麹町の兄親敏の家へ私を訪ねて来てくれた。それは、『文章世界』での私の文名が高かったからではなく、二人がおなじ岡山県人であり、その上、彼も岡山で生田流の琴に熱中し、『残月』などという難曲さえ征服していたので、私が琴を弾くことを知って、同好の士として近づきを求めに来たわけである。内田氏はそのとき、酒落た製本のパンフレット『残月』論を残して行ったが、後で読んでみると、実にブリリアントな名文であるのに感服した。にもかかわらず、その当時の私の引込み思案と口重〈クチオモ〉のために、せっかくの彼の訪問も実を結ばず、それからじつに三十年ちかく、二人は文通もしなければ、顔を合わしたこともなかった。
 ところが、昭和十三年のことである。その頃、麹町富士見町にいた妹の文子が、近所同士のため内田氏と親しくなった。琴の縁もあるが、内田氏が酒豪の上、妹も酒が好きだったからである(数年前、眼底出血をしたため、妹はきれいに禁酒してしまった)。そういう関係で、私も妹の家で内田氏と酒を酌み交わすようになり、はじめに述べたような会をつくろうではないか、という話になった。三人で相談の結果、会のお守り役としては妹と、内田氏のとくに親しくしている宮城道雄氏、ということに決まった。メンバーにはまず第一に葛原〈クズハラ〉しげる氏――これは『狐の嫁入』などで、中国地方では知られている盲目の箏曲家葛原勾当〈コウトウ〉の息〈ソク〉で、おなじく琴をたしなむ人である。宮城さんと親しく、宮城さんはこの人の童謡に作曲して、幾つかの名品を残している。次は音楽理論家の田辺尚雄〈ヒサオ〉氏、この人は鈴木鼓村〈コソン〉が明治末期に創立した京極流の琴を弾じる。第三は演劇評論家の故渥美清太郎〈アツミ・セイタロウ〉氏、これは長唄その他一般に江戸唄の三味線の達人だから、地唄の三絃も習えばすぐ弾けるだろう、というわけである。第四は(こういう序列には何の意味もない、頭に浮かぶままを数字に表わしたばかりである)、尺八を廃業して雑誌『三曲』(今では『日本音楽』)の編集発行者となった藤田俊一氏、この人なら素人として通用する、というわけである。そのほか二、三の人を勧誘して、会が成立した形になった。
 さて、会の名前をどうするか、という段になり、いろいろ意見が出たけれど、容易にまとまらない。そのとき私が、桑原会はどうだろうか、と提案してみた。桑原は箏絃に通じるし、一方、お客様が素人芸に僻易〈ヘキエキ〉して、くわばらくわばらと逃げ出すだろう、という酒落なのである。みなも、まあまあと言うので、これで会名も決まった。プロ〔プログラム〕が見つからないので、月は忘れたが、たしかその年の秋、牛込中町の宮城道場で、桑原会の第一回演奏会を開いた。道場というのは、宮城さんの新築された住まいを総二階にして、百畳ばかりの大広間をつくり、お弟子さんたちの私的な演奏会場に当てたものである。
 宮城さんの斡旋〈アッセン〉のおかげか、内田百間氏の名声の力か、当日は箏曲界一流の先生方がほとんどすべて出席し、聴衆にも各界の名士が相当あつまって、広間は満員の盛況であった。演奏をはじめる前に、宮城さんが開会の辞を述べたが、その言葉が一つ一つ明快で、生き生きしていて、とうてい学校へもろくろく行かぬ盲人の話と思えないほどであった。私と内田氏は『残月』を三絃〔三味線〕なしに、琴二面で合奏した。といっても、二人が同じ手を弾くのではない。総じて生田流の曲はおおむね、三味線が原曲であって、琴はそれを変曲しながら、二部合奏の形式にするのである。したがって、琴の編曲者が違うと、形も相当かわってくるのは当然である、しかもこの時の『残月』は、二人の琴の調子〔調弦〕が違って、内田氏の方のは半雲井調子〈ハンクモイヂョウシ〉、私の方のは平調子〈ヒラヂョウシ〉であるから、手は全然べつで、ほとんど似たところがない。それでいてぴったり合わなければならないのである。しかも原曲である三絃なしの合奏であるから、素人としては難中の難事である。それをともかく、大した破綻なしに演了したのは、一か月間の申し合わせ、練習のたまものである。【後略】

 さらに、回想は続くが、切りがないので、このあたりにしておこう。なお、内田ヒャッケンのケン(門構えに月)は、ワードなどでは出るが、ブログのプレビューでは出なかったので、「間」で代用した。
 いずれにしても、ここで米川正夫は、「桑原会」の思い出を、実に楽しそうに語っている。米川にとっては、その人生のなかで、特に充実していた時期だったのではないだろうか。
 しかし、当時、すでに日中戦争が始まっており、こうした優雅な楽しみは許されない雰囲気になってきていた。しかも米川は、当時、陸軍大学校でロシア語を教えていた。校内にも「けしからん」という私語があったという。ちなみに、米川は、一九四一年(昭和一六)四月、「依願退官」の形で、陸軍大学校教授を解雇されている。

今日の名言 2012・11・12

◎田山らの影響が強く、自然主義文学の拠点と言われた

 備仲臣道〈ビンナカ・シゲミチ〉さんの『読む事典 内田百間 我楽多箱』(皓星社、2012)の「文章世界」の項に出てくる。内田百間や米川正夫が投稿していた雑誌『文章世界』は、1906年(明治39)に博文館から創刊された。作家の田山花袋〈カタイ〉が編集主任を務めたという。「田山らの影響が強く、自然主義文学の拠点と言われた。中学生のころの百間は、内田流石などの筆名で投稿し、『乞食』が優等入選したのをはじめ、いくつもの小品文が入選した」。

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