礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない

2014-11-29 07:02:45 | コラムと名言

◎眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない

 昨日の続きである。哲学者の戸坂潤が執筆し、一九三六年(昭和一一)の一〇月一日から三日までの三日間、『報知新聞』に掲載した「ひとのみち事件批判」という文章を紹介している。
 本日は、その三回目(最後)で、一〇日三日掲載分を紹介する。

 宗教における思想と風俗…【3】…
 類似宗教抬頭の原因の一つを、現代思想の混迷に帰せようとする内務、文部案もまた間違つてはいない。だが一体今日の思想は混迷してゐるのだらうか。マルクス主義乃至唯物論の側に立つ思想も、勿論今は絶対的安定を得てゐるなどということは出来ないが、しかし結局においてハツキリとした見透しを持つゐるわけで、混迷などとは似ても似つかぬ事態の下にあることを思い出さねばならぬ。混迷してゐる思想といふのは、ある特別な思想に限るのである。
 思想の混迷とかいふものはどういう時に発生するか。既成思想の崩壊に当つて、これに代るべき新しい生きた思想が、与えられない時だ。あるいは与へられたやうに思われても、その与へられたのが輪郭の潔くない、その意味で不潔な、もつともさうなまたもつともらしからぬ、不信用な観念である時である。そして特に、当然行くべき思想段階に行きつかうとして、しかもそれを強制的に妨げられる時、思想は最もいちじるしく混迷し腐廃するものなのだ。
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 だから思想の混迷を矯正するといつて、思想を強制的に統制しようとし始めたりすればそれこそかえって思想をくさられて混迷に導くものなのである。内務省や文部省が思想の混迷を類似宗教発生の一原因と見なす場合、思想の進歩と代謝とを圧制することによつこれを混迷させたものも自分達なら、また次にこれを強権的に統制して重ねて混迷へ導くものも、自分達自身であることいふことをあるいは自分でも知らないのだらう。類似宗教征伐に最も熱心であるものが、あに計らんや類似宗教の温床であるといふこと、かういふ一種の『インチキ』は政治事情の上ではいつもあることだ。暴動を鎮圧したのが暴徒の一味だつたり何かするのである。
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 最後に、宗教復興・精神作興の声を利用して類似宗教が進出したといふ関係当局の見解は、最も天晴れ〈アッパレ〉といはねばならぬ。全くさうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出〈ソウシュツ〉とは、社会的に同じ本質の二つの現象だといつてゐるのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角〈トヤカク〉話題になるものゝ大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教、ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めとして、天津教〈アマツキョウ〉、島津治子教〈シマヅハルコキョウ〉、などいずれもさうだ。脱税問題で問題になりかけたり教義についてある種のうはさが流布されたりしてゐる天理教を見てもよい。とに角『類似宗教』乃至類似宗教類似の宗教は、神惟〈カンナガラ〉の道や国史的言論と密接な関係があるといふことを、あくまで重大視せねばならぬ。
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 それであればこそ、かへつて秘めて類似宗教は大体において不敬問題をひき起しやすいのである。島津治子女史一味の不敬は精神病学専門家の判決(?)によると、精神病に原因するさうで一味の婦人達はにはかに松沢精神病院へ収容された。だが、幾人かの婦人達がある特定の不敬な妄想内容を共通にするといふことは、恐らく精神病学的に特別な興味をひくものだらう。精神病のこの種の社会的カテゴリーが発見されゝば、今後の歴史家は歴史上における反動現象を記述するのに、大変重宝がることだらうと思ふ。と同時にこの調子で行くと、社会思想を取締るには、すべてこれを社会的宗教的な発狂と診断すればよいことになりさうで、安心がならぬわけであるが。
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 島津治子教の不敬は病理現象だとして、天津教の如きは極めて手の込んだ国体的文献学に基づいてゐるらしい。形式からいつてまた内容からいつてこの教へが不埒〈フラチ〉であることは、狩野亨吉〈カノウ・コウキチ〉博士が鑑定し証明した通りだらうと思ふ。また大本教の不敬についてはあまりに有名だし『ひとのみち』その他のものといへども決してさういふ羽目に陥らぬとは断言出来ぬ。
 だが問題は不敬宗教が決して不逞な意図から出たのではなく、かへつて宗教復興・精神作興の意図自身から出て来てゐるものだという点にある。不敬を生んだものはほかならぬ敬虔〈ケイケン〉の強制そのものなのだ。
 要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである。だから眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない筈である。(完)

 以上である。コメントは次回。

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