礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その7

2018-08-08 03:18:57 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その7

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」を紹介している。本日は、その七回目。

(7) 教師の権利について

 『良心の自由 増補版』第4部では、国旗・国歌法制定という事態を受けて、日本の公教育における国旗・国歌問題を本格的に論じている。
「 国旗・国歌法の狙いは、学校における国旗・国歌指導に対する教師の反対を抑圧する所にあった。法的には、この狙いは空転している。ただ、国旗国歌の指導に関する教師の権利義務は、なお難しい問題を含む。
 そもそも教師は、憲法一九条を引き合いに出せるのか。「国民の教育権」論は、教師の職務上の行為を、学問の自由を中核とする基本的人権の行使と理解してきた、その論理では、教師の思想・良心の自由が前面に立つ。ただ、この理論はすでに克服されつつある。国家の教育保障権限を行使する教師は、自らの人権に訴えて子どもの思想・良心形成の自由に対する侵害を正当化できない。その場合、国旗・国歌の指導は、どのように位置づくのか。〔54〕」(下線は引用者)
 西原は、基本的人権から教師の教育権を基礎づける<国民の教育権>説を厳しく批判するが、そもそも<国民の教育権>説は、西原が言うように<生徒に対する「基本的人権の行使」として職務を遂行する>という主張をしているのであろうか。代表的論者の著作を見る限り、そうとは言えない〔55〕。これに限らず、西原学説全体に言えることだが、学校における法的関係の単純化が目立つ。今橋盛勝は、<第2の教育法関係論>を唱え、学校における法的関係を教師と国家との関係と教師と子供・生徒との関係の二つに分けて、後者独自の考察を要求する〔56〕。今橋説を高く評価する内野正幸は、教師の教育上の権利は対国家との関係では一部は人権、一部は職務権限、対生徒の関係は職務権限と分節化して考察する〔57〕。西原の場合は、教師を単純に国家機関として国家の権限をゆだねられている存在としている場合が多い。そこから、国家機関である教師が子供・生徒に対して人権を主張することはあり得ないということになり、教師の思想・良心の自由の主張については、生徒の人権を抑圧する場合が特に焦点化されている。学問の自由についても、直接生徒に向き合っていることから導き出される教授方法の工夫に重点が置かれている。
 しかし、教師の職務権限の独立性は生徒に直接教育を行っていることだけでなく、教科教育で<真理><事実><通説>を判断する必要性があることからも要請されるものである。西原においては後者の研究の自由への着目が十分ではない。問題は、憲法上の学問の自由があるかないかではなく、公教育における教師の学問の自由が、十分に批判能力を持たない生徒との関係〔58〕で適正に機能できる条件があるのかないのか、ないとすればどのような配慮・制度的枠組みが必要か、という点である。
 また、教師の思想・良心の自由は、生徒にとって学校における思想・良心上の環境の多様性を保障するものでもある。ここでも問題は同様に教師の自由がその行使にあたって生徒の人権侵害を犯さないようにする配慮・制度的枠組みの問題である。西原の場合、教師の生徒への人権侵害を防止・除去する役割において学説の構造上必然的に国家に大きく期待することになる〔59〕が、彼自身強調することだが、国家もまた生徒に対する人権侵害の有力な主体となり得る存在である(その場合、教師はその末端機能を担うことになりうる)。
 以上の論点に関して、西原は、特異な場面分けをしている。ここは重要なので、長く引用したい(下線は引用者)。
「 場面を分ける必要がある。まず、教師が児童・生徒の教育に直接携わる場合がある。ここでの教師の活動は、権力性をもった教育保障権限の執行であり、教師の基本的人権とは無縁である。したがって、教室で担任学級の前に立って国旗・国歌を扱う際には、教師の信条に基づく一方的な働きかけは許されない。国旗・国歌の指導が学校で行われる際、特定の信条を押しつけるごときは、あり得べからざるものである。
 ただ、この領域では、教師は、一定範囲で専門的裁量をもつ。この裁量は、教科教育に関わる部分で、教科の専門性に立ち入る基盤をもたない校長による監督との関係で成立する専門教科教諭の裁量とは、性格が異なる。むしろこの裁量権は、特定の生徒の性格を個別に把握し、それに応じた教育方法を採用できる状況に基づく。これは、国家の教育保障権限の境界線上にある国旗・国歌指導の特殊性と関連する。この指導が狙うのは、子ビもに国家との関係を自省的に意識化することでしかあり得ない。その場合には教師は、イデオロギー的教化を避けながら、問題提起と思考素材の提供を通じて内的省察を促すという困難な課題を背負う。その任務を果たすためには、通常の教科教育以上に教師と児童・生徒の間の信頼関係が基盤となる。外からの介入は、校長の監督権限に基づく場合でも、この効果的指導の基礎を掘り崩す危険を有するため、イデオロギー的教化に対する救済を提供する場合に限定されなければならない。
 この教師の職務権限は、学校教育法二三条で「児童の教育をつかさどる」ものとされた教師が、「校務をつかさどる」任務を負う校長との関係で、第一次的責任を負うことの帰結といえ、判例上は一九七六年五月二一日の学テ事件最高裁判決で直接に承認された。それに対し、校長の権限を包括的に捉え、個々の教師の専門的裁量を否定するならば、人間的要素を排して子どもの教育を機械の一方的操作と同視する限りで誤りであるとのそしりを免れない。「国家の教育権」論は、「国民の教育権」諭との論争図式に規定され、それに伴い論争の終結とともに歴史的役割を終えた。〔60〕」
 この場面分けが具体的にどういう状況を想定しているのかについては、一考を要する。専門の教科教育でなく、かつ「教室で担任学級の前に立って」おこなう国旗国歌指導とは、儀式の事前指導なのであろう。これを西原のいう内容で実施する場合、日本の国旗国歌の由来、歴史的事情(学校での使用のされ方を含め)、憲法上の自由権の意義、これらについて言及することなく指導はできないであろう。それは西原がいう「特定の生徒の性格を個別に把握し、それに応じた教育方法を採用できる状況に基づく」裁量権というよりも、専門の教科教育に必然的に必要な学問の自由に基礎づけられたものである。彼がこの文章で依拠した学校教育法第二三条は、それも含意しているとみるべきである。
 西原が念頭に置いている国旗・国歌指導は、学習指導要領を前提にした場合、そこで言及された儀式における国旗国歌指導の意義に則したものとはならない。学習指導要領は「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」(高等学校特別活動篇 平成21年3月告示)と規定されているが、「その意義」とはいったい何であろうか。「法規としての性格を持つ」とされる学習指導要領には明記していないが、立法者意思を事実上示したと考えられる文部科学省著作の『学習指導要領 特別活動篇 解説』(平成21年7月)には次のように記されている(下線は引用者)。
 「国際化の進展に伴い,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,生徒が将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長していくためには,国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。
 学校において行われる行事には,様々なものがあるが,この中で,入学式や卒業式は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機付けを行い,学校,社会,国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである。このような意義を踏まえ,入学式や卒業式においては,「国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」こととしている。〔61〕」
 育成されるべき心情は「学校,社会,国家など集団への所属感」であり、国旗国歌への「尊重」によってそれが叶えられるという。学習指導要領に素直に従えば、西原のいう「子どもに国家との関係を自省的に意識化することでしかあり得ない。」とは決してならない。そもそも儀式を利用した国旗国歌指導は西原が公教育の本来の責務とする知識教育とは対極に立つものであり、儀式に導入された国旗国歌儀礼の事前指導をせねばならなくなった時点ですでに国家の教育意思は大きく貫かれているといえよう。教師の裁量の範囲は、「特定の生徒の性格を個別に把握し、それに応じた教育方法を採用できる状況に基づ」いて、担任の生徒の民族的出自等に対して技術的に配慮することぐらいになってしまう〔62〕。
 さらに、教室における生徒指導の内容に対して、外部からの強制的介入もありうる。行政によって上記「解説」に則した指導を唯一のものとして強制された場合、保護者の多数から特定の政治立場に偏した指導を強いられた場合、専門職としての職権の侵害となるだけでなく、教師自身の思想・良心と衝突することもありうる。教室は決して「教師の基本的人権とは無縁」な場ではない。
 西原の主著からの引用を続けよう(下線は引用者)。
「第二に、各教師が、日常的な教育活動の割り当てを離れ、単なる校長の補助機関として学校行事の運営に関わる場面がある。ここでは、教師が生徒に対する直接の権力行使のあり方についての教育的判断権をもつわけではない。その場合には、職務上であっても、なおも市民的自由が成立する余地がある。通常の労使関係における「良心の抗弁」に関するドイツの民法理論を参照すれば、良心に反する義務が職務上発生する場合、その義務の履行は強制されてはならず、また、その義務が任に就くにあたって合理的には予見し得ない場合、民事上も免貴される。それとのアナロジーで捉えれば、本源的な教育保障権限の行使を離れた国旗・国歌の指導に対しては、教師である前にまず一人の市民であるという論理で、基本的人権の主張が成り立つ場合があり得えよう。〔63〕」
 第一の場合も含めて、ここは一般論として職務における教師個人の思想・良心の自由について論じているところであるにもかかわらず、西原が設定しているこの場面はかなり限定され抽象化されたものである。
 東京都などの公立学校の卒業式入学式ではまさに「単なる校長の補助機関として学校行事の運営に関わる」ことが教師に求められているが、それでも儀式中の国旗国家儀礼に関わる部分以外は、教師集団に一定の裁量の余地が残されている。また、教師個人の市民的自由の存否と業務に関する意思決定のあり方とは別個の問題であって、この場面設定自体が教師の思想・良心の自由が認められる場面を極力限定しようという西原自身の主張そのものである。
 学校における国旗国歌儀礼の生徒に対する事実上の強制はそのすべてと言っていいほど教師の精神的自由の抑圧が不可欠の媒介となっている。二つの問題は堅く結びついている。生徒との関係を敢えて捨象して教師と校長の関係だけ抜き出して論じることはできない。「補助機関」の教師が不起立等で思想・良心の自由を守った場合でも、個々の生徒の受けとめ方次第では生徒の思想・良心の自由への影響は生じうる。「補助機関」の教師が思想・良心への侵害を感じなくても当該教師の起立斉唱行為は生徒の思想・良心の自由への圧迫になりうる。西原学説によれば、ここで<抗命義務>が生じるはずではなかったか。
 また、学校儀式の現場における国旗国歌指導を、ここで西原がいうように「本源的な教育保障権限の行使を離れた国旗・国歌の指導」とするのは、国旗国歌強制を批判する側の主張であって、推進する側にとってはれっきとした教育保障権限の行使と見なされている。批判的な教師が、たとえ「本源的な教育保障権限の行使を離れた国旗・国歌の指導」と見なそうと生徒に対する教育上の効果は不可避的に生ずる。不起立等で対応した教師の多くは、自身へのピアノ伴奏命令・起立斉唱命令を何らかの程度で自身の思想・良心の自由への侵害と受けとめている。と同時に、教師が伴奏し起立斉唱することは、生徒への同調圧力を強めるというかたちで儀式を通じた愛国心教育へ荷担することになり、ここで教師自身の行為と生徒の思想・良心の自由との関係も生ずる。【以下、次回】

注〔54〕前出『良心の自由 増補版』p459-460
注〔55〕たとえば、国民の教育権論に立つ教育法学の代表的著作兼子仁『教育法〔新版〕』(有斐閣1978)は以下のように記している。丁寧に読めば、西原の理解とは異なっていることがわかる。
「(1)教師の教育権の複合的性格―その人権性と自治的権限性  学校教師に人権としての教育権の保障があるか否か
は、従来、憲法二三条「学問の自由」のなかに学校教師の教育の自由がふくまれるかという形でのみ論じられる傾きがあった。たしかに、真理を教育する真理教育の自由という意味での「学問の自由」とのむすびつきが有るが、学校教師の「教育の自由」はより広く、文化をになう国民としての文化的教育の自由(前述)や、子どもの成長発達を見定めていく専門的教育の自由(後述)をも意味するものと考えられるのである。そしてとくに、個人および集団としての学校教師の専門的教育の自由は、子どもの教育をうける権利の保障(憲法二六条)の一環を成すという意味で現代的な教育人権性を有していると解される。さらに、学校教師とその集団は、公教育組織内において自治的権限としての独立な「教育権限」を保障されているものと解され、この範囲での教育権はそれ自体が教師の人権ではないが、やはり子どもの教育をうける権利保障の一環をなすという教育人権的価値を担っている制度である。このように、現行公教育法制における教師の教育権を十全に見定めるためには、その複合性に留意しなければならないであろう。」(p273-274)
 また、西原が<国民の教育権>説の代表者として批判してやまない堀尾輝久も、その代表的著作『現代教育の思想と構造』(岩波書店 1971)で、以下のように教師の<教育の自由>を学問の自由一般と同一視することに批判的な見解を述べている。
「教師の研究と教育の自由を、学問研究一般およびそのコロラリーとしての発表・教授の自由と単純に同一視することはできないといわねばならない。ここでは、研究(教育の)が教授の自由を要請するのではなく、逆に、学習権を充足させるための教授(育)という目的によって、研究の自由が要請されているのであり、だから、研究の自由と教授の自由の関係は、いわば逆転しているといわねばならない。教師の研究と教育(授)の自由は、学問の自由の系として、それが国民の権利であるがゆえに教師にも必然的に認められた自由と同義ではなく、大学における自由が、いわば学問の民主化とともに下級教育にまで下降してきたものとして、下級教育棟関の教師もそれと同等の権利の主体者であるという意味での自由でもない。それは、教育ということがらの本質が、したがってまた、教職というプロフェッションが要請している研究の必要とその教育にともなう自由であるというぺきであろう。」(p331-332)
注〔56〕『教育法と法社会学』特に第1章第3節(三省堂1983)
注〔57〕『教育における自由と権利』p116-130(有斐閣1994)
注〔58〕もちろん、「教師の送る「言論」に対し批判能力を持たぬものは、政府の送る「言論」に対しても、批判能力を持たぬ筈である。」ということも外せない観点である(前出蟻川恒正「思想の自由」p121)
注〔59〕教師が本質的に権力的存在でありその権力は公権力であるならば、濫用の防止・除去は、公権力内部の規律として当然に国家の役割となる。また、職能団体としての自律的規制を期待しうる教師の集団性を、生徒の権利侵害など主に否定的側面で把握している。
注〔60〕前出『良心の自由 増補版』p460-461
注〔61〕p81。文科省websiteより。
注〔62〕それはそれで大事なことではあるが。
注〔63〕以上、前出『良心の自由 増補版』p460

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