礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

銃後で余裕のある生活をしている姿が第一線の人々を安心させる

2019-01-07 06:01:49 | コラムと名言

◎銃後で余裕のある生活をしている姿が第一線の人々を安心させる

 伊藤行男『随筆 船医手帖』(日新書院、一九四一年三月)から、そこに載っているエッセイを紹介しいる。本日は、その三回目。
 本日、紹介するのは、「こゝろと形」。「余外集」の部に置かれているエッセイである。

  こ ゝ ろ と 形

 最近、大陸の第一線に軍医として出征してゐる一友人のよこした一文の中に、凡そ〈オヨソ〉次のやうなことが記してある。「近頃内地からの慰問団や、慰問文・新聞・雑誌などから受けるものに共通した概念がある、一例をあげると、勤勉力行・貯蓄報国・スフ入り国防服・モンぺ姿の令嬢・日の丸弁当、といつた類〈タグイ〉のものである。どれ一つとりあげてみても悪いものは一つもない。然し、生活態度が多種多様な大きな社会に於て、短時日の間に判で押したやうな変化は考へられぬ。之がかけ声だけであるとすれば困つたものであるし、私共、前線の者を励ますためであるとすれば、誤りもまた甚しいものである。例へば、日の丸弁当がいゝとしたところで、三度の食事に、これで充分と云ふ訳にはいかんだらうし、そのやうな事を誇張するのは卑屈な気持である。私共が南京米と乾野菜〈ホシヤサイ〉で生活してゐる時、銃後の人が鮨を喰ふたときいても、何とも思ひはしない。また私共が熱風の中を行軍する時、銃後の人が、海水浴やハイキングに行つたときいても何とも思ひはしない。相互に分に応じた生活といふものがあるのであつて、真摯な道を辿る事が目下の際の大切なことではあるまいか。私共の残して来た家族や兄弟や友達が、私共を慰めんがためにいろいろな苦行をされるとしたら、私共の慰安になりはしない。私共は紋切型の慰問で喜びを覚える程、単純ではないのだ。命をかけた生活をしてゐる時の人間の心は、平常以上に複雑なものである……」と。これを読んで、私自身がもし第一線に行けば、同じ気持に支配されるに違ひないと想像した。銃後の生活は萎縮してはいけない。贅沢はしないまでも、精神的にも肉体的にも絶えず余裕をもつてゐる必要がある。銃後で余裕のある晴々とした生活をしてゐる姿こそ、第一線の人々を安心させるのであつて、こちこちと縮かんだ姿は、決して戦場の人達を安んじさせはしないのである。
 ところが、最近の指導者の指令には、何か紋切型の内容の伴はないものが多いやうに思へる。元々ある種の指導者は、同じやうな形の上のことばかり云つてゐるのが、特に今の時勢に目立つのかも知れないが、一例をとつてみれば、例のパーマネントの問題である。これは幸ひ禁止はまぬがれたらしくほつとした様子であるが、これなど笑止千万なことである。パーマネントを禁止する程なら、丸まげとか島田とか云ふ複雑極るものこそ問題とならなければならない。生活に即した近代文化はいけないが、生活に即さない古典はいゝと云つた調子である。待合のどんちやんさわぎは許されるが、ダンスホ一ルの近代性はいけないと云ふのも軌を一つにしてゐる。どこに目標があるのか一向に解らない。近代戦の先端を行く機械化部隊は、これは或る意味ではパーマネントと同一列に位するものである。丸まげ様の武器を以てしては、ソ連はおろか支那さへやつつけることは困難である。ところが一歩、生活・風俗等の問題となつて来ると、まるで時代をかけ離れた丸まげ是〈ゼ〉論となつてくるのだから可笑しい〈オカシイ〉。
 ゴルファーの中に、ゴルフの服装は宜く〈ヨロシク〉モンペにすべしと云ふ人がゐる。これは笑ひ話ではない。現にある市に存在するのである。こんな人は始めからゴルフなんかやらなければいのである。弓でもひいてゐれば、何も他のゴルファーに向つて、モンぺをはけ、などと口やかましく云つて、他人を不愉快にしたり困らせたりしなくともすむのである。モンペよりニッカーや普通のパンツの方がプレーし易いことはわかり切つてゐる。モンペにわらじよりスパイクのついた靴の方がゴルフの目的にかなつてゐるのである。モンペをはいてゐなくつたつて、また、たまには銀座裏で酒をのんでゐたつてその人が真に日本人である以上、大和魂をもつてゐる以上は、戦場に出れば命なんか惜しみはしないのである。内容的に訓練しなくつて、形の上でのみづけづけと圧迫してゐれば、形の上ばかりでなく内容的にも萎縮した人間が出来てしまふ。これは怖るべきことである。内容、即ち精神あつての形でこれが真の自粛である。
 宮城〈キュウジョウ〉・明治神宮・靖国神社前を通過する電車やバスの中からの礼拝について賛否両論が旺ん〈サカン〉なやうであるが、この問題なんかもあまりに形を重んじ過ぎた(別の意味から云へば、あまりに重んじなさ過ぎるが)行きすぎた悪風である。禁止してもらひたいことである。私のやうに、神宮前を一日数回も往復する者にとつては、実に痛切に感じる。乗物にのつて、腰をかけて、ポケットに手をつゝこんで、神々しい対象を礼拝するなんかもつての外のことである。神を拝むには下乗と云ふ言葉さへ古くからある。車掌が、只今××前通過ですと云ふ、ある者はゐねむりをし、ある者は新聞をよんできこえぬふりをしてゐる。満員のバスなどで帽子をとらうとすれば危険さへ伴ふことがある、それでも周囲の人達に対する面子〈メンツ〉上、または真の気持からでも無理に脱帽しようとする。これ等の不統一な様々な風景は、決して快いものではない。今に飛行機の上からで礼拝せよ、といふことになるかも知れない。
 形を重んじて真に形を重んぜざるの甚しきものと云へよう。
 心身一如と云ふ言葉がある。私は敢て内容のみを重んぜよとは云はない。内容は外形を決定し、外形は内容を決定することは自明の理である。たゞ内容を重んぜず、徒に〈イタズラニ〉外形のみに走るのを怖れるのである。
 前途は尚遥かである。よくよく生活態度については深く考へる必要がある。

 当時の世相、当時の指導者の発想を、リアルタイムで批判している。こうした発言には、かなりの勇気が必要だったのではないだろうか。
 なお、宮城・明治神宮・靖国神社前を通過する電車・バス(ここでいう電車は、たぶん路面電車のことだろう)の乗客が、「礼拝」をおこなう習慣は、小学生らの間で始ったもので、小学生らにそれを呼びかけたのは、教育運動家の松永健哉だったということを、むかし、何かの本で読んだことがある。

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