礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

平生の鬱懐、抑へんとして抑ふる能はず(栄田猛猪)

2017-04-25 06:14:37 | コラムと名言

◎平生の鬱懐、抑へんとして抑ふる能はず(栄田猛猪)

 栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めている場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。

 遮莫〈サモアラバアレ〉。今此書を手にするに及んで、悲愁の思い胸に満ち、追恨の情転た〈ウタタ〉新たなるを覚ゆるものあり。曰く、世が祖母と母との逝去是れなり。余明治三六年〔一九〇三〕四月郷国〈キョウコク〉を辞し、爾来東都に住すと雖、一年二回夏冬の休暇を利用して必ず帰郷し、祖母と両親とを省みるをば忘れざりき。然るに本書の剞劂〈キケツ〉に附せらるゝに及び、徒に〈イタズラニ〉成功の期を急ぎて、帰省の礼を欠くこと三年、図らざりき、大正三年〔一九一四〕十一月二十日、忽ちにして祖母の訃〔フ〕に接せんとは。慟天哭地〈ドウテンコクチ〉何の甲斐かある。余は、余の心なかりし行為を痛恨ぜずんばあらず。然るに何事ぞ。悲涙未だ乾かざるに、越えて翌四年〔一九一五〕一〇月二二日、再び母の喪に走る。かけても思はんや、昨日の恨〈ウラミ〉を、今日再び重ねんとは。祖母の齢八旬に及ぶと雖、猶其悲しみは得〈エ〉堪へざるを。況んや母にありては、僅かに五十有七歳。この年頃を僂麻質斯〈ロイマチス〉には犯されたれど、斯くまで病の進めりともしらざりしは、余が終生の恨事なりき。余等霊前に額づくとき、汝が母は流石に朝な夕なに汝が為に心砕きたれど、海山遠く三百余里を相距て、親しく援助も成し難きを打ち嘆きて、せめては一日たりとも、務めにいそしむ汝が心を擾す〈ミダス〉まじと、篤き病をも包みけむ。病勢頓に〈トミニ〉革まりて〈アラタマリテ〉、心臓麻痺にてうち斃れぬ。女ながらも、強き気性、それとは口に出さねど、心は嘸や〈サゾヤ〉切〈セツ〉なかりけむ。生前に、唯一言をだに交はし得ざりし、汝が恨みも無理ならねど、起き臥しを共にせし我すら、事の余り急なるに、施さん術〈スベ〉なかりしものを。今にして思へば、あれも夢、これも幻なりと、咽び〈ムセビ〉ながらに物語る父が言葉を聞くに堪へんや。噫。此親心。露〈ツユ〉さとり得ざりし我が愚かさよ。されど亦、親思ふ子の、此の心をも酌ませ給はざりし、母の心の、慈愛に過ぎて恨めしくもある哉。此上は、三たびの悔〈クイ〉を父に重ねじ。余が事已に〈スデニ〉定まりぬ。今ははや都にも上るまじ、と心定むれば、父は徐に〈オモムロニ〉余を慰めて、汝が心もさることながら、斯くては事業も半ばにして絶えなん。悔いて返らぬ昔を恋ひて、山より高き師の恵〈メグミ〉をば如何にかする。さらば却りて母が慈悲をば仇〈アダ〉とやせん。死生命あり。又如何ともすべからず。母を慕はゞ、汝が業を成就するに若かじ、と、誡むる父の言葉も、もだし難く、さらばとて、妻をば留おき、尽きぬ涙を打ち払ひて、余は復〈マタ〉、単身都の人となりぬ。今幸いに師友の恩によりて、梓〈アズサ〉成るを告ぐと雖、風樹の恨みに至りては、将た〈ハタ〉何によつてか解く事を得ん。
 嗚呼。斯くの如くにして過ぎ来たりし余が字書生活十有一年、公務の外はすべて門を閉じ、交〈マジワリ〉を絶ち、内、慈親を忘れ、外、先輩知友に背く。一巻の述作、若し幸にして家親教学の趣旨に副ひ〈ソイ〉、僅なりとも学界に貢献することを得ば、聊か〈イササカ〉平昔の罪を贖ふ〈アガナウ〉に足らん乎〈カ〉、たゞそれ孟浪魯魚〔不備や誤記〕の罪、繋つて〈カカッテ〉一に〈イツニ〉我にあり。思へば悚懼揣慄〈ショウクスイリツ〉、謝するところを知らざるなり。庶幾くは〈コイネガワクハ〉大方諸彦〈タイホウショゲン〉の垂教を仰ぎ、益々奮励重修を期して、校訂改善の実を挙げんと欲す。
 茲に聊か編纂の顛末を記し、敢て師友の恩を謝せんとして、忽ち誤つて私親追懐の涙に咽ぶ〈ムセブ〉。平生〈ヘイゼイ〉の鬱懐迸る〈ホトバシル〉ところ、抑へんとして抑ふる能はざればなり。希くは諒せよ。

  大正六年〔一九一七〕三月三日 文科大学国語研究室にて 栄田猛猪識

 小冊子版には、このあとに、大正一〇年〔一九二一〕七月七日付「増補訂正に就て」という一文が引用されているが、割愛する。

*このブログの人気記事 2017・4・25(6・8・10位にかなり珍しいものが)

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