礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

未曽有の危急に際し何らの尽力もなさゞるか(ボアソナード)

2023-07-05 00:03:28 | コラムと名言

◎未曽有の危急に際し何らの尽力もなさゞるか(ボアソナード)

 高橋是清口述『高橋是清自伝』(千倉書房、1936)から、「ボアソナードの条約改正意見」の節を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 余問 足下は旧条約と新草案との比較において、何【いづ】れが優【まさ】れりとせらるゝか。
 ボ答 新草案の旧条約に劣れること甚だ著し。何となれば旧条約の害は区域狭小【けふせう】なれども新草案は不利益を一般全国に流せばなり。なほこの外【ほか】に挙ぐべき事あり。外国人組織の裁判所は全国八ケ所に限るをもつて、日本人は外国人に対し原告たると被告たるとを問はず、訴訟のために遠隔の地方にあるところの裁判所に呼出されるを得ず。たとへば、沖縄県人民も海を越えて長崎に呼出さるゝことあるべし、これまた日本人民のためには不利益の一事なり。
 余問 しからば足下の草案にては旧条約を存【そん】するにありや。
 ボ云 否【いな】予は刑事の重罪のみに限り外国人は外国裁判の下【もと】にあらしめ、軽罪は日本裁判所において裁判し、民事に致つて何らの約束もなしに専ら日本裁判官の管轄に帰せしむべきことを提出したり。予の草案は採用せられずして今日の結局に致りたれば日本のために哀【かな】しむべく痛むべく嘆くべき極度なり、予は今日にありても、日本のために斯【かく】の如き不利益を傍観すること能【あた】はず、日本人の中の忠実なる人々を結合してせめては 天皇陛下の御批准を与へられずして、むしろ旧条約の保存せらるゝことを願ふの一路〈イチロ〉を取らんとす。足下は高等の地位にあり、且つは平常の志操は予の信用するところなり。本国の為めに古今未曽有の危急に際し、何らの尽力もなさゞるか(これらの言語を叶く時はボアソナード氏の顔色【がんしよく】勃然として憤怨の色あり)且ついふ、予は今日ほど激越の言語を吐きたることなし。(この一節覚えず感涙千行〈カンルイセンコウ〉)
 余云 予は前に秘密の約束をなしたれども、このことは国の大事なるをもつて、足下の許可を得て今日【こんにち】の問答を伊藤〔博文〕伯に報道せんとす。
 ボ云 何の差支【さしつかへ】無し。
 又云 足下のために思慮するに足下若【も】し未だ条約談判の明細を見ざるならば、伊藤伯の秘書官に請ひその一部を借り得て予とこれを対論し、詳細にその不利益の点を諒解して、しかるのちにまた予の意見書を一読あり、十分このことの始末を呑み込み、その上にて足下の意をもつて忠告ありては如何。
 余云 その辺は都合次第にすべし。(右一段の談話をはりて)。
 ボ氏突然予に問うて曰く。足下は伊藤伯の『フアンシーホール』に赴かれしか。
 余答 偶【たまたま】病気の故に辞したり。
 又問 鳥居坂邸の芝居に赴かれしか。(井上〔馨〕伯の邸【やしき】)
 余答 また病【やまひ】をもつて辞したり。
 ボ云 足下は定めて予と同感なる故に態【わざ】と辞せられたるなるべし。
 予は近日宴会の席に行くことを好まず、日本国は外は権利を減じ、内は進歩税を徴収し、前途暗黒哀痛の境界に沈淪【ちんりん】するの時に当り、東京の都府は建築土木と宴会とをもつて太平を楽しめり。予は今日贅沢の時にあらずと信ずるをもつて各大臣の宴会はすべてこれを謝絶するなり。予は再会を期して握手別れを告げたり。
 別れに臨んで外迄送り来り、ボアソナード氏はまたいふ。もし伊藤伯において、予〔ボアソナード〕に面会の機会を与へらるゝ幸を得ば通弁は栗塚省吾氏を用ひられたし。外務省の人を用ひらるゝことを望まず。且ついふ、もしなほ尽力の機会あらば等閑にすることなかれ、予〔井上毅〕は通弁杉田氏に向つて秘密の約束を懇示して立去れり。
     右明治二十年五月十日朝   井 上  毅

 最後まで読んでみて、あらためて、この史料の重要性に気づいた。
 この史料によれば、井上毅(1843~1895)は、条約改正交渉の経過を把握しておらず、改正草案の問題点にも気づいていなかったもようである。おそらくこれは、憲法草案の起草に没頭していたためではなかったか。
 日本政府顧問のボアソナード(1825~1910)は、1885年(明治18)5月10日朝、井上毅を訪ねて、改正草案の問題性を指摘し、さらに、「本国の為めに古今未曽有の危急に際し、何らの尽力もなさゞるか」と、感情もあらわに、井上を叱咤した。――そういう歴史の一コマを、リアルに描き出している貴重な史料である。
 文中、『フアンシーホール』は、原文のまま。これは、仮面舞踏会(fancy ball)を指す。なお、最後のほう、「予は近日宴会の席に行くことを好まず」のパラグラフにおける「予」は、井上毅を指していると思われる。

※うっかり、三回目に相当する部分を飛ばして、四回目に相当する部分を載せてしまいました。三回目に相当する部分は、昨日の記事のあとに挿入し、本日の記事を三回目とします。よろしく、ご判読ください。

※※付記 〝「予は近日宴会の席に行くことを好まず」のパラグラフにおける「予」は、井上毅を指していると思われる。〟と書いたが、これは撤回する必要がある。9日付のコラムを書いていて、そのように考え直しました。2023・7・8付記

*このブログの人気記事 2023・7・5(9位に極めて珍しいものが入っています)

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