礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄「記憶をさかのぼる」その4

2017-11-27 02:03:00 | コラムと名言

◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その4

 昨日に続いて本日も、青木茂雄氏の「自伝」を紹介する。「わたしの幼少期(4)」と題する文章で、「水戸と大洗」という見出しがある。
 
記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(4)

水戸と大洗
 水戸市は高台の上とその下の低地とにかけて東西に広がった市街地になっており、高台の東端に旧水戸城が位置し、そこから西側に細長く広がった市街地が上市(うわいち)であり、旧水戸城の東側の低地に広がった市街地は下市(しもいち)と呼ばれていた。旧武士の居住区はほぼ上市にあった(新屋敷は上市の西の外れに位置していた)。目抜き通りが上市を一本貫いており(国道51号線)、当時は幅10メートルにも満たない道路に、路面電車が走っていた。茨城鉄道所属で水浜(すいひん)電車と呼ばれていた。その水浜電車に乗って、家族で水戸から10数キロ離れた大洗海岸(磯浜海水浴場)へ出かけた時の印象も強いものだった。4歳か5歳くらいだったと思う。初めて出かけたその日のことは、あまりはっきりした記憶はないが、電車の中からはじめて目撃した下市の目抜き通りのことは良く憶えている。ようやく見慣れかけてきた上市とは類似しているがまったく別の世界がある、しかも角を曲がるたびにまた別の街路が登場する、次から次へとまるで回り舞台のようであった…。上市はまだまだ遠い―世界は広いのだ。
 その後、毎年夏には、大てい家族で海水浴に出かけたから、その後の記憶も混ぜて書く。梅小路の新居から歩いて15分ほどで水浜電車の停車場「砂久保町」に着く。水浜電車は単線の軌条を走行し、一駅おきに交換所を兼ねた複線式の停車場があった。そこで上り下りの電車が交換して進行する。このシステムだとポイントの切り替えが自動的に行われ、特別の転轍システムを必要としない(単線運転のため運行本数に限度があったが、きちんと10分間隔で運行された)。そういう仕組みを運転席のすぐ後ろで観察した。私は幼いながらも豆鉄道マニアだった。「砂久保町」の駅は、複線型の停車場で、もうこのあたりは路面を離れて郊外を走る電車へ、と化していた。複線の軌条の両側にプラットホームがあった。レールとそのすぐ脇にそそりたつ(かに見えた)プラットホームの並びは私の鉄道の原風景と言って良い。直線に伸びた軌条がきれいに枝分かれしていく様は本当に美しかった。私の鉄道の原風景は、小さくて鄙びてはいるが私にとっての鉄道としての要件をすべて兼ね備えていた、この「砂久保町」駅にあると思っている。この砂久保町駅から、さらに、谷中、終点の上水戸(かみみと)へと通じていた。路面電車として水戸駅前を出発し、郊外電車として終着する。この変身ぶりは幼い私の胸を踊らせるに十分であった。
 当時の水浜電車は多分どこかの市電のお下がりであろうが、外の側面も内側も木製で、架線からは棒状のポールで電源の供給を受けるという旧式なものであった。もちろん連結車両はなかった。水浜電車はその後、年を経るごとに車両が新しくなり、鋼鉄製の車両となり、やがて昭和30年代も半ば近くに入るとポールが廃止されて都電型を変形したビューゲルとなった(このあたりの年代はきちんと調べたわけではなく、単に私の記憶による)。私たちは新型車両の登場を小躍りして喜んだ。この水浜電車は、その後日本列島を襲ったモータリゼーションの荒波にもまれて、1964年ころに上水戸・水戸駅前間が廃止され、1968年ころに水戸駅前・大洗間が廃止された(これも年代は私の記憶による)。
 さて、私の幼少時の頃に話は戻る。砂久保町から電車は目抜き通りを通り抜け、水戸駅前に到着すると、そこから大洗行きに乗り換える。私は競って最前列に詰め掛けた。それは極上席であったが、それがかなわない時は窓際の席で移り行く車窓の景色に身を乗り出した。単車両で、独特の揺れ方と軽いレールの継ぎ目の音…。電車はまず、旧水戸城のあった丘の中腹まで緩やかに上り、水郡線をまたぎ、それからおもむろに方向を変えて常磐線の水戸駅構内を高架線状態で横断し、やがて降下して下市に入る。このあたりがまず最初のハイライトであった。私が最初にいぶかった下市の町並みをを通り過ぎると、「浜田」(はまだ)の車両基地の間を通り(そこには赤茶けた車輪だけが無造作レール上に並べられていたりする、ある意味で絶景でもあった)、稲穂の香る田園地帯に突入する。「谷田」(やだ)「六反田」(ろくたんだ)という田圃の中の小さな停車場を過ぎ、涸沼川(ひぬまがわ)の鉄橋を渡ると、もう大洗町だ。海岸の丘陵地帯を越えると、一気に潮の匂い。私たちはたいてい終点の大洗駅の手前の「曲松」(まがりまつ)というやや大きめの停車場で降りて、すぐ近くの「磯浜海水浴場」を目指した。砂浜はぎっしり人で埋まり、そして芋の子を洗うという状態だった。磯浜海水浴場は大きな築堤によって外海から区切られており、波が穏やかで結構遠浅だった。砂浜には海草ホンダワラの群れが大量に打ち上げられいた。現在は、この地区は大型のフェリーの発着場となっており、海水浴場は北側の大洗か南側の大貫地区が中心となっているが、私の子供のころ大洗海水浴場と言えば、この磯浜海水浴場をさしていた。
 今と違って、あのころは旅行などはごく例外的で「大きな」出来事だった。私の経験したささやかな海浜行は最初の本格的な旅行の体験であった。 (つづく)

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