礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ブログ開設記念のコラムと名言

2012-05-23 22:02:04 | 日記
今日のコラム 2012・5・23

◎華夷秩序と日朝関係
 毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』は、『明治維新政治史序説』(未来社、一九六七)、『大久保利通』(中公新書、一九六九)に続く、氏にとって三冊目の歴史書である。この本は、大阪市立大学法学叢書の一冊として刊行されている。これは、氏のかつての専攻が「国際政治学」であったことと関わるのであろう。同書の末尾には、同叢書の既刊三十五冊が紹介されているが、その中で、日本史関係は最新刊三十五冊目の『明治六年政変の研究』のみ、他はすべて法学・政治学関係の専門書である。「法学」叢書の一冊として刊行された『明治六年政変の研究』ではあったが、同書はその後、日本の「史学」界に対し、「大きな衝撃」を与えることになった。
 同書の巻末には、「補論」として、「幕末・明治初期の対朝鮮外交」という文章が収録されている。幕末から明治九年にいたる日朝外交の変遷について考察した本格的な論文である。その冒頭に近い部分で、毛利氏は、次のように述べていた。

―前近代東アジアの国際社会を律していたのは、華夷秩序の原理である。交隣関係は、この原理の延長上に成立する。華夷秩序は、世界の文化、道徳の中心たることを自負する中華皇帝と皇帝の徳化のもとに朝貢に象徴された臣従を誓う藩属諸国王とが形成したヒエラルキーであった。藩属諸国王は、臣従の反対給付として、自己の王位の正統性を、中華皇帝による形式的任命(冊封)で保障された。皇帝と国王との個人関係は、そのまま宗主国と藩属国との国家間関係に等置され、東アジアの国際秩序を構成したのである。朝鮮国王は、中華皇帝に臣従(事大)するとともに、外臣視した対馬藩主宗家を仲介として、政治的には華夷秩序外の存在であったがやはり華夷秩序的観念を所有する徳川将軍(日本)と交際した。これが交隣関係である。対馬藩主は、朝鮮貿易独占の特権をうる代償として、朝鮮国王にたいして形式的臣礼をとったから、朝鮮国王と対馬藩主との関係には、皇帝と国王との関係のアナロジーが成立する。同時に、対馬藩主は、徳川将軍の臣下であるから、ここに、朝鮮国王と徳川将軍とのあいだには、華夷秩序の原理からみて、対馬藩主を媒介とする名分論上対等の交際(敵礼)関係が成立しうることになる。対馬藩主は、いわば華夷秩序と日本とを結びつけるミッシング・リングであった。この関係を、徳川将軍の側からみれば、朝鮮国王との「通信」となる。それは、同時に、日本国と朝鮮国との関係とみなされた。―

 毛利氏の国際政治学者としての力量を示す一文である。氏は、「華夷秩序」という概念を使って東アジアの国際秩序を概観し、徳川将軍と朝鮮国王との関係(日本国と朝鮮国との関係)について解説している。徳川時代の日朝関係においては、対馬藩主が「ミッシング・リング」であったことも指摘している。
 私は、一九九二年ごろに初めて中公新書『明治六年政変』を読み、その少しあと『明治六年政変の研究』にも目を通したが、こうした指摘に触発されたという記憶がない。「補論」までは読まなかったか、もしくは、読んでも指摘の重要性に気づかなかったのであろう。
 数年前に、姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』(平凡社、一九七七)、沈箕載『幕末維新日朝外交史の研究』(臨川書店、一九九七)、小風秀雅「華夷秩序と日本外交」(明治維新史学会編『明治維新とアジア』吉川弘文館、二〇〇一)、石川寛「明治維新と朝鮮・対馬関係」(同)といった文献を読み、幕末維新期の日朝関係の重要性に気づかされた私は、再び『明治六年政変の研究』を手にしてみた。同書中の「補論」を読み直す必要があると思ったからである。「補論」の中では、特に右に引用した部分に刮目した。毛利氏が、一九七八年という早い段階で(論文としての初出は一九七四年)、東アジアの国際秩序の中に日朝関係を位置づけていたことを知り、今さらではあるが驚いた。
 ただし、こうした毛利氏のそうした東アジア認識が、『明治六年政変の研究』の「本論」(政変論)の部分とうまく噛み合っているのかというと、そうでもない。これは、「朝鮮問題は政変の実質的争点ではなかった」とする毛利氏の立場からすれば、不思議なことではないのだろうが。
 ちなみに、『明治六年政変の研究』の「補論」に対応する記述は、中公新書『明治六年政変』にも見出せる。ただしそれは、きわめて短い説明にとどまっており(八二~八三ページ)、また、対馬藩主が朝鮮国王に「臣礼」をとっていた点などには触れていない。

今日の名言

◎大地の上褥をしかず
 清水精一『大地に生きる』(1934)に出てくる句。褥はシトネと読む。この句は、著者の清水が「紀州」と呼ばれる「乞食」の生き方に触発されて作ったものという。「乞食紀州」は、どんなに寒くても、夜は裸身で大地に寝て「土の温かみ」を味わったという。河出書房新社版『サンカとともに大地に生きる』では、191ページにある。
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