ぼちぼちやりま!

悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。
事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。
焦らず慌てず、静かに時の来るのを待つ。

高橋卓志「寺よ、変われ」(岩波新書)

2009-08-14 03:44:05 | 日記
変わるということはなかなか困難だ。特に寺というきわめて保守的な環境にある坊さんたちの意識は、中々変わらない。しかし寺が社会から取り残され、社会的有用感がない、といった機能不全はそのままでいいのだろうか。

若い坊さんたちが、出る杭として打たれ自由に発言できずにいる、長老主義や大寺主義的関係を改善しなくていいのか。門を開けられず、社会的問題が見えず、調整能力を持たず、異分野との協議が出来ない、といった寺と社会とのかかわりは、このままでいいのか。寄付金に依存し、その結果、檀家信徒とのトラブルも頻発するという経済観念でいいのか。寺の魅力を語れず、世襲主義に陥り、檀家信徒のニーズに聞く耳を持たず、人々の棄信感に対処できず、宗教的権威はいつまでも続くと信じ、社会の方向性が読めない体質のままでいいのか。

葬式仏教といわれて何十年、しかもその葬儀においてすら、故人のリビングウイルを無視し、喪主遺族や会葬者が納得できない葬儀を行い、時間給の読経と戒名代で生活してきた。人生の生老病死と向き合わずして、共に生き関わり拘泥せずして、生きる意味を確かめずして、なにが仏教と言えるのか。
長野県神宮寺で数々の改革を実践してきた筆者は多くの実例を語りながら、その方法を模索し、提唱してきている。寺よ、変われ、さすれば日本も変わる、と。

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布施の名目での法外な法事料金や、五戒を守らぬ坊主が戒名を授けるとはどういうことか、葬式一式300万円はないやろう! こちとら田舎の次男坊、今更墓代なんて用意していない、散骨・直葬・永代供養も十分にある選択肢。

葬式のときに始めて故人に対峙してお経を上げ、パソコンで氏名・年齢・職業・趣味・経済状態などを入力して得た戒名を、高額なお布施と引き換えに授けていて本当にいいのか。

梅原猛氏によれば、日本においては生老病死のうち、生については日本古来の神道が譲り受けることにより、神仏が共存するようになった由。たとえば、お宮参りや結婚式は殆ど神式、葬儀は仏式のように。ならばせめて老病死は仏教がその役を担ってもいいのではないか、そこのところが長年の疑問だった。

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日本にコンビに4万軒、小中高あわせて4万校、そしてお寺はその倍以上ある。その寺が変われば日本の仏教が変わる、そして日本人が泰然自若として生を全うすることができ、日本が変わるのだ!

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「わての時間給? 50万円でッけど、それがなにか・・・?」

・・・皆さん、どうすばええんでしゃろ? こんなボーズは!