3・11。東日本大震災が起こった日。
それが起こったのは2011年。
それから早くも14年。
テレビ各局では、あちこちで特集を組んで報道していた。
14年か…。
自分の中でも、年月の経過により、「風化」しつつある部分があると気づいた。
2011年3月当時の自分のブログをもう一度見直してみた。
2011-03-12 たくさんの人々の無事を心から祈る
画面に映し出される映像の悲惨さに、福島県いわき市在住のたくさんの親類の安否を気遣った。
報道されるあの広域の津波のすさまじさを見せられると、彼らの家も無事だったとは思えず、無事を祈るばかりだった。
2011-03-13 いわき市の親類と連絡が取れた
近くの高台に避難して、いくつかの親類一家は無事だとのことだったが、中には1階が津波に襲われたという家もあったと聞いた。
テレビで流れるすさまじい津波も悲惨な映像に、心がふさがれた。
家族と暮らし、数多くの人の生の営みが、それぞれの家にあったはずなのに…。
それを、一瞬で消し去ってしまった、天災の脅威。
大自然の前には、人間の力は小さいと改めて知らしめた。
流されてしまった家の跡、瓦礫と化した街…。
2011-03-14 普通の生活ができるだけで、なぜか罪深さを感じた
自分がこうして、ここでなんてことない暮らし、相変わらずの暮らしをしていることが幸運というより、申し訳なくさえ思う。
以前と変わらず、食べて寝てが当たり前にできる。
食事をしながら、自分たちがそのことを当たり前にできることに罪深ささえ感じた。
2011-03-15 計画停電によりバタバタの対応
職場で昼過ぎの13:10ころ、東北電力の計画停電のことが話題に上がった。
16日そして18日、9:00から12:00学校の電気が止まり、暖房が切れる!学校の給食も作れない!?
寒い教室で授業となるから、防寒対策をとらないといけない。
給食の物資だって、普段通り作るつもりで頼んであるのに、今さらキャンセルできない。。
ここは思い切って、授業カット・下校とし、家庭への便りを取り急ぎ作った。
夕方のニュースでは、原発の事故により、県内に福島県からの避難者が次々に来て、国道49号線は県境から約9kmの渋滞になっているという。
2011-03-16 東北電力の計画停電の中止
「本日の当該時間帯の需給バランスを詳細に検討した結果、計画停電を実施する必要がないものと判断し、計画停電を中止することといたしました」という知らせが発表され、東北電力の計画停電は実施が見送られた。
2011-03-17 北西の風が強く寒いのに、燃料不足という
北西の風が強い寒い一日、被災地は、灯油やガソリンなどの燃料が底をつきつつあると次々に報道されていた。
原発への必死の汚染防止対策に対し、効果はなかなか出ていない。
避難している人たちのインタビューの中に、東電社員の妻の方が話しているのがあった。
汚染の拡大が心配だから、夫は命をかけて仕事をしている。
もう帰ってこないかもしれないと思いながら、必死でがんばっている、と。
現場はどれだけ苛酷なのか、現場の人にしかわからないだろう。
地震や津波の被災を受けながら助かった親類たちも、次々と福島県外へ避難している。
何もできない自分がはがゆい。
わが家の近くの避難所も、何百人も訪れ、すでに満杯となっている。
新潟県だけで、今日の5時までにもう8000人近くが避難所に身を寄せているという。
勤務先の近くの自然宿泊施設にも、定員の200人が入って、満杯だ。
ただ、新潟県は、このとおり雪も降り、寒いから、どうか体調を崩す人が増えないでほしいと思う。
ただ、冬型だと、北西の風は、原発から陸に向かっては吹いていないということ。
ただ一つ、そのことだけは救われる。
2011-03-18 当事者の気持ちがわかってない人が多すぎる
①東日本大地震について、石原慎太郎都知事が『津波をうまく利用して我欲をうまく洗い流す必要がある。積年たまった日本人の心の垢を。これは、やはり天罰だと思う』と言った。
②巨人の渡辺恒雄球団会長(読売新聞グループ本社会長)は、「開幕を延期するとか、プロ野球をしばらくやめるとか俗説があったが、戦争に負けた後、3カ月で選手や監督から試合をやりたいという声があがって、プロ野球を始めた歴史がある。明るい活力を大衆に示すことができるのはプロ野球選手。選手が命がけでいいプレーをすれば元気が出るし、生産性も上がる。」と言った。
③被災し、放射能汚染の恐怖から逃げて新潟県に避難して来た人々に、弁当が配られているのを知った人は言った。「この弁当は、本当に食べられない人に渡したい。ここに来た人たちは、車も逃げる余裕もあった人たちだから。」
…どれもこれも、被災した人たちの気持ちがまったくわかっていない発言だと思う。
本当に困っている人たちのことがわかっているならそのような表現にならないはずだからだ。
自分の職場では、年度末の送別会が見送られることになったが、今までお世話になった人たちへの感謝と慰労の気持を表すことができなくなった。
苦労を共にした人に、ささやかに感謝と慰労の気持を表すこともいけないのかな、と思ったが、この自分の考えも、①~③の人々と同じで、当事者の気持ちがわからない人の一人なのかもしれないと思った。
2011-03-19 「できること」を少しだけ
当市長名で支援物資の提供を願うお知らせを見て、我が家では、ボックスティッシュ10箱、タオル・バスタオル50本以上、歯ブラシ(旅行先でもらってきたもの)20本くらいを、避難所の受付場所に運んできた。
受付場所には、ひっきりなしに、支援物資を搬入する人々の車が出入りしていた。
受付には毛布、紙オムツ、ティッシュなどが次々に運び込まれ、担当の何人かの係の人々が懸命に選り分けていた。
余っている物が、困っている人の役に立つのであれば、これほどうれしいことはない。
余っているわけではないけど、寄贈する人も多いだろう。
現在の窮状を、みんなで助け合って、乗り越えていきたいと改めて思った。
2011-03-20 風評被害に加担しない
茨城県内でホウレンソウから、福島県内で牛乳から、食品衛生法上の暫定規制値を超える放射性物質が新たに検出されたとの発表があったが、風評被害が広がりが怖い。
2つの県とも、ただでさえ地震で被害を受けているのに、重要な産業の生産物が危険だと言われては大切な収入源が断たれることになる。
本当にそうなのか、考えずに風評被害を生み出すことは避けたい。
…大地震が起こってから約10日間、このブログでは、おおむねこのような内容のことを書いていた。
14年前の日々の思いがよみがえってきた。
よみがえってきたということは、忘れていたということ。
記憶に残っていることもあれば、記憶から飛んでいることもあったことに、自分の中の風化を感じ、これではいけないと改めて思った。
あの当時は、原発はやめる、という意思が確認されたはずだったのに、政府は今、新潟県の柏崎原発も再稼働を急ごうとしている。
まだ事故があったときの避難についての不安等も解消されていないし、最近でも小さな火災事故が起こったりしているというのに…と思ってしまう。
今でも新潟で避難生活を送っている福島県人の人も多くいるのだけどね…。
あれから14年。
自分も周囲も「風化」させず、自分ごととして考え続けなくてはいけないと思うのだが…。
震度5強でぐちゃぐちゃになるものなのか、コンサート開催中でなくて本当に良かった…って思ったものでした。
事故を巡る裁判で、横浜地裁は所有者である川崎市の請求を棄却する判決を下したみたいですけど、判決には「えっ〜」って感じでした。ミューザ川崎は好きなホールなんですけど…。
これからもよろしくお願いします。
さすが、コンサートが大好きなりゅーとさんですね。ミューザ川崎シンフォニーホールの崩落なんて、たしかにコンサートホールの天井が崩落したという「ニュースはあった気がしますが、コンサートホール名はおろか、よく覚えていません。自分や親類のことだけで頭がいっぱいで、首都圏のことは気にする余裕がありませんでした。
あれから、もう14年。本当に月日の流れは早いものです。そして、覚えているようで忘れるのも…。
ありがとうございました。