寒かった信州もようやく、本当の春の風を感じます。
縁側のまどを全開、愛犬とともに、日差しを楽しみました。
今日はまじめに、私の製作姿勢をお話しましょう。
水や空気は、確かにありながらその形となると、定まった姿がない。
これを描き出そうとすると・・・・。
私は20代より波や川を描いていたが、水流という水の姿を描いていたにすぎなかった。「流れ・動き」によって、宗教的・哲学的に、様々な意図はあったとしても。
瀑布・激流・清流など、水の動きは、木石の静止した物体との対比から生まれる。
視点を変えれば、木石等は一種のうつわともいえる。
器に入った水を描いていたにすぎなかったのだ。
と、京都に住む哲学科の先生からの一言。これは、大変なことだった。
50歳代半ばに、土石流のすざましき破壊力をまのあたりにしてより、水流を描くことが、水の本質を表現していることになっていない。
古今の作品が、水の本質の一つ、重量を描いた作品が無い。
ときずいてはいたが・・。
もはや器などいらない(描かない)水の本質にせまるということだ。
さらに、流れや落ちること(瀧・川など)の動きは、一方方向であることに満足できなくなり、エネルギーがプラス-マイナス ゼロになる位置を描きたくなっている現在です。
すなわち、吹き上がり、落ちる水塊を描くことにあります。
縁側のまどを全開、愛犬とともに、日差しを楽しみました。
今日はまじめに、私の製作姿勢をお話しましょう。
水や空気は、確かにありながらその形となると、定まった姿がない。
これを描き出そうとすると・・・・。
私は20代より波や川を描いていたが、水流という水の姿を描いていたにすぎなかった。「流れ・動き」によって、宗教的・哲学的に、様々な意図はあったとしても。
瀑布・激流・清流など、水の動きは、木石の静止した物体との対比から生まれる。
視点を変えれば、木石等は一種のうつわともいえる。
器に入った水を描いていたにすぎなかったのだ。
と、京都に住む哲学科の先生からの一言。これは、大変なことだった。
50歳代半ばに、土石流のすざましき破壊力をまのあたりにしてより、水流を描くことが、水の本質を表現していることになっていない。
古今の作品が、水の本質の一つ、重量を描いた作品が無い。
ときずいてはいたが・・。
もはや器などいらない(描かない)水の本質にせまるということだ。
さらに、流れや落ちること(瀧・川など)の動きは、一方方向であることに満足できなくなり、エネルギーがプラス-マイナス ゼロになる位置を描きたくなっている現在です。
すなわち、吹き上がり、落ちる水塊を描くことにあります。