桜の季節に開催される「東松山夢灯路」でお馴染みの東松山市「上沼公園」の西、旧松山宿の総鎮守「松山神社」に参拝。
康平6年(1063年)「氷川神社」として創建、明治16年(1883年)に社号を「松山神社」と改めたとあります。
では参拝。 御祭神は「須佐之男命」と「伊邪那美命」
中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったため明らかではないが、寛永元年(1624)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
(中略)
神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の新道総裁有栖川宮幟仁親王殿下から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
境内末社「大鳥神社」と「浅間神社」の合殿。大鳥神社は12月14・15日の例大祭「お酉さま」、浅間神社は7月14・15日の例大祭「初山」で賑わいます。
大鳥神社 御祭神 建比奈鳥命
享和元年九月社殿を再建し、家内安全商売繁昌の御神徳特に高いと称せられ、近郷は素より特に花柳界方面の信仰厚く毎年十二月十五日の祭典酉の市には神社授与の福引と共に、福達摩大熊手福桝等の露店商境内参道を埋め、人出約参万殊に早暁一時二時の参拝者の多いことで有名である。
浅間神社 御祭神 木花咲耶比女命
毎年七月十四日初山と称して例大祭が行われ、その年生れの幼児は新調の衣裳をこらして早朝より参拝し、無事の成長を祈り神社では御守袋初山うちわを授与するを例とする。
「空蝉の 身を変へてける 木の元に なほ人柄の 懐かしきかな」 源氏物語:空蝉
:ここです→ Google マップ
ちょっと「上沼公園」で一休み。
上沼を隔てた飛び地境内社「八雲神社」の例大祭は、東松山の夏祭り「天王さま」として有名ですね。
その社殿は市の文化財にも指定されています。
八 雲 神 社 市指定文化財>森の中の恍惚:東松山夏祭り
社殿は、間口二・六m、奥行三・六m単層切妻で正面軒は唐破風となり、その下に千鳥破風がおいてあります。社殿は切妻の面もすべて彫刻で飾られています。正面は花鳥及竜と唐獅子・左側は神功皇后新羅征伐凱旋の場、右側は須佐之男命大蛇退治の場、背面は天照大神の天岩戸の場が刻まれています。
他の神社の彫刻と異なり、伝統的なものに取材し、豊かな民族的色彩を有する特色をもっています。
昭和三十三年一月 境内より左記の銘文が発見されました。
惟時安政六年四月奉再勧進請者也
法主祈願現住権律師亮覚敬白
祇園牛頭天王
この彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助が三人の弟子に技を競わせたものといわれています
昭和五十八年三月 東松山市教育委員会
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