森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

When words leave off music begins.


道の駅はにゅう

2011年01月23日 | 空色の休日 2011 

国道122号を北へ北へと埼玉県と群馬県との県境、利根川に架かる昭和橋手前にある「道の駅はにゅう」で一休み。


農産物直売所の隣は「河川情報展示室」となっているが・・・・、のどかでよい。


利根川より、遠く日光の山々を望む。左に昭和橋。


河川情報展示室の前にあるのは「川俣締切跡」。
県指定旧跡 川俣締切跡
        (昭和三十八年八月二十七日)

 川俣締切跡は、それまで分流していた利根川流路のうち、会の川筋を文禄三年(1594)に締め切った跡である。
 近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南へ流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷事業と呼ばれる近世前期の大規模な流路変更と河川改修によって付け替えられたものである。この東遷事業は、水害から江戸の防備、関東平野の開発、物資輸送のための舟運水路の整備などを目的としたといわれ、徳川氏・江戸幕府によって、半世紀以上にわたって段階的に行われた。羽生領新郷川俣付近における会の川筋の締め切りは、江戸開府前に行われ、その最初の工事であった。
 当時、利根川の流は幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口に向かう会の川筋と、現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年(1592)に忍城主となった松平忠吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。
この工事は困難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている。この締切り工事により、会の川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域の広大な新田開発が進められていった。
(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替となった。)

  平成十六年四月一日
     羽生市教育委員会
     埼玉県教育委員会

真ん中にあるのが「羽生昔がたり」で語られる「〆切神社」の石碑。
:ここです→ ブログ人マップ


昭和橋のすぐ南側には「川俣関所跡」が遺されています。
:ここです→ ブログ人マップ
旧跡 川俣関所跡

 川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治二年(1869)に廃止されるまでの約260年間続いた。
 この関所は江戸城管備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」と言われるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲のはいるのを厳しく取りしまった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
 関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のため今ではその跡は川底になってしまった。
 関所跡は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和三十二年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和三十六年九月一日旧跡と指定変更された。

  昭和三十六年九月一日 羽生市教育委員会

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北海道すいーちゅプリン

2011年01月23日 | いろいろ 

マヨネーズの容器でプリンを作ちゃったという.... (!o!) なスイーツ。チューチュー吸っていただいてもOKだけど、いろんなものにつけて食べてもとってもプリン。

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