原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

バレンタインデーお返しの “真っ赤な薔薇の花束とデートのオファー”

2022年02月15日 | 恋愛・男女関係
  昨日はバレンタインデーだったが、そのためか「原左都子エッセイ集」昨日のトップ10内にバレンタインデー関連のエッセイが幾本かランクインしていた。


 その中で、昨年のバレンタインデーに公開した「バレンタインデーの風変わりな思い出」と題するバックナンバーの最終部分のみを、以下に引用させていただこう。

 バックナンバーの引用が長過ぎて、肝心の「バレンタインに義理チョコを配った思い出」に関し記載するのが億劫になってしまった。
 それを要約するならば、職場で30数個の義理チョコを配った1か月後の3月14日に。
 何と、想像をはるかに超える絢爛豪華なホワイトデーのお返しが30数個届いたとの結末だった。
 まさに“海老で鯛を釣った”事件だった。
 そのお返しの“絢爛豪華ぶり”のみを披露するならば。
 ブランド小物の数々、オルゴールに日記帳…  番外編として、4枚の便箋にしたためられた手紙、薔薇の花束にデートのオファー……

 私にとっては色々な意味合いで一生忘れもしない、丸の内旧丸ビルにての4年間に渡るラウンジコンパニオン経験譚だ。
 我が大学院進学後は、この丸ビル仲間とは(一部を除き)交流が無いまま年月が経過しているが…
 それにしても如何なる人生経験とて、自身のその後の生き様に於いて“血となり肉となる”ことには間違いない!
 この経験が出来たからこそ、私は単なる“学問バカ”になることなく、その後の豊かな人生経験を紡げていると感謝している。

 我が過去に経験した、過ぎ去りし時代の一時のバレンタインデーの思い出を振り返らせて頂いた。

 (以上、昨年のバレンタインデーに公開した我がエッセイの一部を引用したもの。)



 上記に列挙した“ホワイトデーのお返しの数々” の最後に、「薔薇の花束にデートのオファー」と記しているが。

 このお返しをプレゼントしてくれたのは、当該丸ビル最上階でバーラウンジを経営(詳細を記すならば、実質経営者は三菱地所だったが元々の経営者が著名老舗レストランだったようだ。)していた老舗レストランのコック見習の男の子(Tくんとしよう)だった。男の子と表現するのは、未だ19歳の若さだったからだが。😋 

 Tくんが私に気があるのは、火を見るよりも明らかだった。
 いつもコンパニオンの帰りの時間がTくんの休憩時間と重なるのだが。 私が返ろうとする姿を見かけては、「さとちゃ~~~~ん!」(参考だが、この時から我が愛称は“さとちゃん”だった。)と叫びつつ追いかけてきて、日々数分話をしたものだ。 
 コンパニオン仲間もTくんが私に気があるのはお見通しで、「あっ、今日も追いかけて来たね」と言いつつ先に帰って行ったものだ。

 このTくん、どうやら裕福な家庭の子のようで、このレストランへはコネで入店したらしい。 お姉ちゃんが2人いる家庭の子でその影響があるのか、私には初対面時から懐いてきて、その後この“追っかけ”の有様だった。

 そうこうしてバレンタインデーには男性どもに“30数個の義理チョコ”を爆配りしたわけだが。 Tくんもその爆配り対象の一人だった。
 ただ、まさかホワイトデーのお返しに「真っ赤なバラの花束」がTくんから届くとは予想もしていなかった! これ実際、他のどのプレゼントよりも感激した。
 加えてTくんが言うには、「さとちゃんとデートしたい」😶 
 これに関しては、当時独身とは言えども既に34歳だった私として真に受ける訳にはいかない。 そこで職場仲間と4人で何処かへ遊びに行く提案をした。
 お台場の「船の科学館」近辺へドライブして、結構楽しく過ごしたなあ。
 帰り路に、皆が「さとちゃんのマンションへ行きたい」と言うのだが、これはお断りして喫茶店で4人でコーヒーを飲んだ。

 そのホワイトデー直後の3月末に、私は大学卒業と同時にラウンジコンパニオンも卒業して職場から去った。

 その後もTくんからはしばらく電話が掛かってきて、いろいろお話したなあ。 
 真面目ないい子だったから、職場の皆に可愛がられつつ立派なコックさんになったことだろう。 
 
 その後旧丸ビルは新しく建て替えられたが、15歳年下だったTくんは引き続きその道を貫きつつ成功を遂げていることであろう。😊 


突然出没した頭頂部の “できもの”、皮膚癌だった…

2022年02月14日 | 医学・医療・介護
 2022.02.09付朝日新聞「患者を生きる」シリーズ 今回のテーマは、「小児がんと私の夢」だった。

 この記事によると、小6の娘さんの頭と左耳の後ろに3㎝ぐらいのポコッとしたできものがあることに母親が気付き。 念のために皮膚科へ行くと、大病院を紹介され。
 その検査の結果、悪性の細胞があることが判明し。 後日自宅まで担当医師より電話が入り「白血病細胞を確認しました」と告げられたとのことだ。


 この原左都子も類似の経験をしている。
 その経験を、この記事を読んで明瞭に思い起した。


 時は32歳、2度目の大学時代の事だ。
 いつものように夜間のアルバイトを終えて自宅へ帰り、シャワーを浴びていた時のことだ。
 シャンプーに入った時に、頭頂部に固めのポコッとしたできものがある事に気付いた。 手で触れると、直径1㎝程の大きさだっただろうか?
 (あれ、昨日までこんなもの無かったのに、一体どうしたのだろう??)

 そう思いつつも、すぐに消えるだろう、と考えるのが通常だろう。
 特徴としては痛くも痒くも何ともないのだが、何分頭頂部のため、そのできもののせいで皮膚が突っ張っている感覚はあった。

 これが消えない。
 気にはなるが、何分昼間は大学にて学業に励み夜間働く生活の日々で、病院へ行く時間がとれない。
 とにかく、痛くも痒くも無いことに助けられつつ何か月が経過して。
 春の大学にての健診時に、やっと健診担当医師に相談した。
 医師(所属大学に医学部があったため、その大学病院の若手医師と思うが)応えて曰く、「おそらく粉瘤か何かだと思いますが。 もしも痛みや痒みが出たり、形が崩れてきたり、何個も増殖する等の変化があった場合、すぐに病院へ行って下さい。)

 それから更に年月が流れ、私もその頭頂部のできものにすっかり慣れ切った頃のことだ。
 超難産で産んだ我が子が1歳になった頃だろうか。
 頭頂部のできものが大きくなっている気がし始めた。 ところが子育てが一番大変な時期で、自分の事で病院へ行っている暇など無い。
 そして、我が子が2歳になった頃に。 確実に大きくなっているできものは、既に3㎝程に達していただろうか? 何分、頭頂部のため自分で直接見ることは叶わない。 合わせ鏡をして苦心して観察すると、そのできものの周囲の髪の毛が剥げてきているのに気付いた。
 子どもが2歳4か月になった頃、私は初めて亭主に頭部のできもののことを話した。 
 「とりあえず、近くの皮膚科へ行ってみる」との我が言葉に同意してくれて。次の日に早速出かけた。
 皮膚科医が診察して曰く、「手術して除去しましょう。我が医院でも手術可能ですが、できものが大きいので大学病院にての手術としましょう。 明日からゴールデンウィークに入りますが、5月1,2は大学病院は通常診察をしていますので、必ずその両日中に診察を受けて下さい。 紹介状を書きます。」

 家へ帰ってその紹介状を透かしてみたら、病名の箇所に「頭部腫瘍」と書かれていた。  私の場合、医学関係者であるため、「腫瘍」と言えども「良性」と「悪性」があるのを当然ながら熟知していて、てっきり「良性」と信じて疑っていなかった。

 さて、その連休中に大学病院皮膚科へ出掛けた。
 とりあえずその腫瘍部の一部を切り取って細胞診検査をするとのことで、簡単な手術をした。 簡単と言えども、1~2時間を要しただろうか? 
 何分頭頂部のためうつむいての姿勢での局部麻酔後の手術であり、大いに身体が痛く疲れた。
 その細胞診結果を3週間後に自宅へ電話して、知らせてくれると言う。
 その間はいつものごとく、娘の育児と家事に励んだ。

 さて3週間後がやってきて、病院から電話があったのが夜の10時過ぎだった。 この電話の遅さで私は直感が働いた。「悪性」だったのだと。
 担当医師曰く、「明日の午前中に必ず受診して下さい。」 私が応えて、「悪性でしたか?」 医師曰く、「詳細は明日話しますので、とにかく病院へ来て下さい。」 
 亭主にはすぐに伝えた。「これは癌に間違いないから、癌保険をもらう準備をしておいて。」

 そして入院後すぐさま悪性腫瘍摘出手術と相成り、抗がん剤治療も含めて私は3週間入院後、抗がん剤にやられて弱り切った身体で退院と相成った。

 続きに関しては、「原左都子エッセイ集」初期頃のバックナンバー「癌は突然やってくる」にて記載済みのため、そちらを参照してください。


 この我が「頭頂部皮膚癌」の原因だが。
 我が推測では、どのように考察しても過去の医学業務経験しか考えられない。 おそらく「無菌操作」時に頭頂部に滅菌用の紫外線を通常では考えられない量浴びた故と考察する。 当時は未だ「滅菌用紫外線」の管理がずさんな時代背景だった。

 
 それにしても、世は良き時代へと移り変わっている。
 我が頭頂部皮膚癌摘出後のカバーをどう対処しているのかと言えば。
 私の場合は、手術後20数年来ずっとウィッグに依存している。
 今現在ウィッグはごく普通に販売されていて、自身の目的に合わせて好きな商品を購入可能だ。

 お蔭で何らの不都合も無い自己実現人生を、私は精力的に歩み続けることが叶っている。
 

日本の予防接種における意味不明な「努力義務」

2022年02月13日 | 医学・医療・介護
 65歳以上の高齢年齢層に現在送付されている「3度目のコロナワクチン接種券」が、私の手元にも届いた。


 私の場合、予防接種に関してはあくまでも“慎重派”であり、決して積極的に摂取しようとは考えていない人間である。
 1,2回目のコロナワクチン接種の際にも大いに悩んだ。
 結果としては接種したのだが、2度目の接種後に38度の発熱があり丸1日寝て過ごす羽目になった。

 3度目もやはり同じく慎重に考えたのだが。 副反応が出ても発熱程度で済むだろうか?との安直な考えの下、大規模接種会場へ予約を入れた。(接種券が届いた当日に個別接種会場は既に満杯だった。)


 さて、本日付朝日新聞「社説(余滴)」のテーマは 朝日新聞社 科学・医療社説担当者・行方史郎氏による「あいまいな日本の努力義務」だった。

 早速、以下に一部を要約引用しよう。
 
 5~11歳を対象にしたコロナワクチン接種が3月にも始まる見通しだ。 社説では「接種率の向上を目的とするような運用にしてはならない」と書いた。
 焦点になっていた大人と同じく接種の「努力義務」を適用するかについて、厚労省は当初、見送ることを決めた。 ただ、この規定のわかりづらさに未だ釈然としない思いでいる。
 予防接種法9条には「接種を受ける努力義務」とあり、対象者は「接種を受けるよう努めなければならない」と定められている。 コロナワクチンは臨時接種に該当する。
 何が義務で何を努力すればよいのかがあいまいだ。(中略)
 先の条文を素直に読めば「義務」は「接種を受ける努力」を受ける。 さらに子どもの場合、努力義務が課せられるのは保護者の方だ。 条文には「必要な措置を講じるよう努めなければならない」とあるが、それが何なのかは定かではない。
 10日にあった会議の終了後、厚労省の担当者からは、法律制定時の精神からできた「あくまでも訓示規定」との説明があった。
 戦後まもなく日本の予防接種制度は「罰則付き義務」で始まった。 それが94年には「義務」が廃止され、「努力義務」となった。 とくに94年の法改正後は決定的な転換点とも言われ、副反応をめぐる集団訴訟で国が敗訴してことが背景にある。
 個人の意思を尊重していると理解するが、義務という言葉の響きは重い。 このようなややこしい規定が果たしてどこまで必要なのか、いっそ根本から問い直した方がよいのではないか。

 (以上、朝日新聞「社説・余滴」より要約引用したもの。)



 以前にも記載したが、私め原左都子は(予防接種も含めて)すべての医療行為に対して慎重派の立場を一貫している。

 1993年生まれの娘に関しては、予防接種を受けるか否かに関してずっと母親の私が判断してきている。
 
 我が娘が小学校2年生時に「ツベルクリン判定」があった。
 その判定の日に娘が当時持病の不明熱を出してしまい、学校での判定が叶わない、との事件があった。
 親の私が見たところ「陽性反応」と判断して、それを学校へ訴えたのだが。
 悲しいことに学校側の措置は「今一度専門機関へ行って、判定を受け直す必要があります。」
 これに激怒した私は、元医学関係者であることを告げて担任ととことん議論を重ねたものの。 どうしても「判定やり直し」との結論が学校側から出され、やむなく(学校は出席扱いで)その専門機関へ娘を連れて行かされた。 その後の判定はやはり「陽性」で一件落着したものの。
 今尚忘れ得ぬ事件である。 
 そもそも、未だ幼き娘の体内に2度もツベルクリン反応液を注入されたことが許し難かった。 幸い、娘はその後何事も無く経過したのだが。
 (参考だが、娘の持病だった「不明熱」は、その後も中学2年生頃まで定期的に続いた。 それに関しては、ツベルクリンとは無関係と判断しているが。)


 話題を、現在我が国で実施されている「コロナワクチン」に対する“努力義務”に戻そう。

 実際分かりにくい言葉だ。
 特に幼き子どもがいる家庭にとって、この”努力義務”との文言を如何に解釈するべきか、頭が痛いことであろう。

 ただそれを真面目に考え、自分は接種をするか否かを判断している方々はおそらく救われるような気もする。

 などと無責任な発言を元医学関係者がするべきでもないが。

 とにもかくにも、この「努力義務」の解釈を個人個人が慎重に行って後に、コロナワクチン接種に挑んで欲しい思いだ。


「良母」と「毒母」の線引き

2022年02月12日 | 人間関係
 本日のテーマは、本日付朝日新聞 “悩みのるつぼ”より取り上げよう。


 早速、40代女性による「愛する娘から毒母と呼ばれて」と題する相談内容を、以下に要約引用しよう。

 40代女性だが、幼少期から自己肯定感なく生きてきた。 両親が8歳の時に離婚、2人とも子供はいらないと家に残され、日が暮れたころに帰ってきた父が仕方なく引き取る形になった。 毎日殴られて、下着も体操服も1着しか買ってもらえなかった。
 早く結婚して娘ができた。 母親がどういうものか分からない。頼る人もおらず精神的に何度も倒れ掛かった。 でも、こんなかわいい子を独占できる! 幸せだった。 
 娘は学校ではなかなか友達となじめなかったが、私が友達になってあげればいいと、いろんなところへ遊びにいった。 ところが、娘が大学に進んで一人暮らしを始めると「お母さんは毒母だ」と言われ、ラインをブロックしたり私が買って上げたものをメルカリに売りに出された。 話し合うと、私の欲を押し付けられて娘は悩み苦しんだと言う。
 娘は今、何ごとも無かったように電話してきたりする。 表面上私も普通に接するが、プレゼントは買えない。 面倒くさがりの亭主に言っても、「そうやなあ」で終わる。
 すごく苦しんでいる。 もう好きに生きていいだろうか? 妻でなく母でもなく。 恋もしたいです。

 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”本日の相談を要約引用したもの。)


 ここで一旦、原左都子の私見、というよりも“驚き!”だが。

 どうしたというんだ!?!
 この相談の最後の展開は!
 いきなり、「もう好きに生きていいだろうか? 妻でなく母でもなく。 恋もしたいです。」
 いくらなんでも飛躍し過ぎだろ! 
 結局本音はそういう相談なんだろうなあ。 娘も家族も本心はどうでもよくて、それがしたい!と訴えているとしか伝わらないなあ。


 相談の本筋に戻るならば。

 今回の回答者であられる政治学者の姜尚中氏も書かれている。
 「その愛情は利己本位だったのでは」と。
 まさに姜尚中氏がおっしゃる通りの感覚を私も抱く。

 相談文中にある「こんなかわいい子を独占できる!幸せだった。」この文言が大いに気になる。
 母親にとって子供とは愛情込めて育てる義務はあるが、決して自分が独占する対象ではない。 
 娘さんから「毒母」と後ろ指をさされ、ラインをブロックされたりした背景には、母親からのその“独占欲”の鬱陶しさがあったことだろう。

 それでも娘さんが更に成長した現在に至っては、何事も無かったように電話をくれたりしているとこと。
 それで十分であるはずなのに。
 相談者の心が急展開して、好きに生きたい、妻でも母でもなく、恋をしたい。  
 まったくもって論理破綻の相談だ。

 ご亭主に関しては私はそんなものだと感じるし、それ以上の何を望むのだろとしか思えない。 大抵の家庭のご亭主は“面倒くさがり”ではなかろうか??
 姜尚中氏は、このご亭主が「あなたをひとりの『女』として遇することを怠ってきたように思えてならない」と記されているが。
 私など、亭主が私に対する自由度を認めてくれている事実こそが、日々の我が生き甲斐実行に繋がっているとの感があり、感謝すらしている。(半端ではない“面倒くさがり”のため、手間がかかる亭主だが…😵


 表題の「『良母』と『毒母』の線引き」に話題を戻そう。

 この相談女性の場合「毒母」と表現するよりも、大変失礼ながら「幼稚母」と表現した方が適切かもしれない。
 娘さんの方は既にすっかり大人になって、過去に何事も無かったかのように電話をくれたりしている様子だ。 
 それで充分であるはずなのに、この「幼稚母」は娘にプレゼントは買えないなどと駄々をこねている始末。 
 プレゼントはどうでもいいとして、電話をかけてきてくれる娘さんが可愛いと思えないものだろうか??
 私の印象ではこの娘さん、実際“いい子”との印象しか抱けないのだけど…


 相談者の “恋をしたい”との「内心の自由」は法的にも認められるとして。

 その「内心の自由」と同時進行で。
 今後は大人になった娘さんの存在を、母親として肯定してあげられるように少しは努力しては如何だろうか。
  

区内普通郵便の到着に、何故3日間も要する!??

2022年02月11日 | 自己実現
 税務確定申告のシーズンだが。


 我が家の場合は義母の「不動産貸付業」青色申告、そして亭主の「確定申告(企業年金過払いの「還付申告」)を、毎年「税理士試験税法3科目免除申請」を国税庁へ申請後通貨している私が全面的に担当している。

 故に、この時期は例年その作業に追われる身なのだが。

 今年の場合、義母の青色申告に関しては我が下書き申告がパーフェクトだった故に、短時間で難なく終了した。


 さて、お次は亭主の「還付申告」だが。
 2月3日に早速その作業をパソコンにて実施しようとしたところ、何故かパスワードに誤りがあるとのメッセージが出る。

 これに関して、国税庁の“e-Tax.作成コーナー・ヘルプデスク”へ電話を入れたところ、担当者が親切に回答して下さった。
 その回答に従って、税務署へ出向き新たなパスワードの届け出が完了した。
 
 翌日そのパスワードにて、早速確定申告作業に入ったところ。
 これまた「パスワードが間違っている」とのメッセージ。
 そんな訳ないだろ! 昨日届け出を完了したばかりだ!!
 急いで税務署へ電話を入れたものの、現在税務署は確定申告時の混乱回避のため電話での対応をし最小限にとどめていて、我が目的の電話は受付していない。
 亭主ともあれこれ話し合った後の結論として、再び亭主が税務署へ出向くしか方策がとれないだろう、と同意していた。

 翌日午後になり、何故か我が地域管轄の税務署から電話があった。
 
 それによると、昨日わざわざ税務署へ出かけて作成した「ID・パスワードの完了」よりも“後で”。
 税務署係員氏曰く、2月6日に私がパソコンをいじくり回して出しておいた「パスワード変更通知」が届いたのだそうだ。
 その我が提出の「パスワード変更通知」に従って係員氏が変更作業を実施してくれたがために、上記の問題が発生している、との回答だった。 

 その通知書が、明日までには届くとの電話だった。 
 改めて税務署からその通知が郵送にて届くのは、明日2月9日のようだ。

 (以上、バックナンバーにて記載済みの当該事件関連事項を我が記憶に頼りつつ引用したもの。)


 さて、その2月9日は亭主と2人で交代に集合住宅1階正面玄関の郵便ボックスまで確認しに行った。
 ところが、夜になっても税務署からの通知は届いていないではないか!😱 

 確定申告を実際に担当する私の都合で、どうしても10日の午前中には申告作業を終えたいのに。

 やむを得ず次の日(10日)の朝、亭主が税務署へ電話をして「未だパスワードが届いていない」旨を告げたところ、税務署の返答は「既に郵送している。遅延している可能性もあるため、郵便局へ問い合わせて欲しい」とのこと。
 気の長さが取り柄の亭主が、電話口で怒るのを私は初めて聞いたが。
 亭主曰く、「それは税務署の仕事じゃないのか!?!」
 それに応じた税務署は、「とにかく明日までお待ち願えないでしょうか」

 そうこうして2人でイライラしつつ昨日、これまた何度も1階正面玄関の郵便受けを見に行ったところ。 夜になってやっと「パスワードの知らせ」が到着していた。


 話をまとめると。
 私が最初にパソコンe-Taxコーナーを開いて確定申告を実施せんと欲した日から、その後実際に2人で税務署へパスポート申請に行ったり、等々足労しつつ日にちが経過し。
 1週間もの日数が経過した後に、やっとこさ確定申告e-Taxのパスワードをゲットできたとの、呆れた話である。😵 


 特に不可思議なのは、税務署がそれを発送したいという日から同じ区内の我が家まで郵送にてパスワード通知文書が届けられるのに、表題のごとく3日間を要しているとの事実だ。
 
 通常政令指定都市では、朝ポストに入れた郵便物はその日の夕方までに届くとも聞く。(Tさん、情報提供をありがとうございます。)

 税務署関係のみが特殊なのか!?? どうかは私が知ったことではないが。

 普通郵便を同区内の住居地に届けるのに3日も要するとは、常識的に考えられない話だ。

 
 まあ、とにもかくにもe-Taxパスワードは、我が手元に届いた。
 
 週末の土日午前中は、亭主の「e-Tax確定申告書」作成を頑張ろう!


 余談だが、今年の亭主の申告は医療費が盛り沢山でその入力に手間取りそうだが。
 「原左都子エッセイ集」3000字入力で日々鍛え上げているキーボード叩き打ち力を活かし、亭主の確定申告書を仕上げ提出して。
 
 今年も還付金を取り戻して、我が小遣い稼ぎをするぜ!! 😁