原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

染色体異常胎児にも輝ける未来が待っている

2012年04月18日 | 時事論評
 正直に話そう。
 この原左都子も過去において、(もしも私が我が子を産んだ時代に既に現在のごとく「出生前診断」が一般的であったならば、その診断を受ける事を欲したかもしれない…)とふとした瞬間に魔が差す時期があった。
 我が子を仮死状態にて出産後母として過酷な育児の日々を余儀なくされ、まともな思考が不能だった頃の話である。

 その後我が子の“お抱え家庭教師”として共に歩み続け、娘が想像をはるかに超えて順調に成長してくれている今現在に至っては、決して、決して、そんな馬鹿げた発想が我が脳裏に霞む隙間もない。
 この子なくして私の人格は成り立たない程に娘の存在感は大きく、我が人生に日々夢と希望を与え続けてくれている。


 朝日新聞4月5日付朝刊の一面に 「胎児異常が理由の中絶倍増 10年前との比較」 と題する記事を発見した。
 早速、要約して以下に紹介しよう。

 出生前診断で(ダウン症、水頭症等)胎児の異常が分かったことを理由にした中絶が2005年~09年の5年間で少なくとも6千件と推定され、10年前の同時期より倍増していることが日本産婦人科医会の調査でわかった。 高齢出産の増加や簡易な遺伝子検査法の登場で、十分な説明を受けずに中絶を選ぶ夫婦が増える可能性もあるとして上記医会は遺伝子検査の指針に乗り出した。
 我が国では70年代から胎児の異常を調べる羊水検査やエコー検査、90年代から母体血清マーカー検査が広がった。 35歳以上の高齢出産の増加で出生前診断を受ける人は増えている。妊娠健診で使われるエコーも精度が上がり、染色体異常の可能性を示す胎児の奇形等が分析可能となった。 08年現在全妊婦の2,9%にあたる延べ約3万人が診断を受けている。
 米国では既にもっと高い精度でダウン症か否かを診断できる血液検査も始まっており、日本への商業ベースでの導入も可能性として高い。 このため、日本産婦人科学会は、医師向けに遺伝子検査の指針を作ることを決めた。

 引き続き上記朝日新聞記事より「出生前診断」の定義についての記述を、(元医学関係者である原左都子が一般人にも分かりやすく補足しつつ)引用しよう。
 出生前診断とは胎児の異常を調べる検査であるが、その種類としてエコー診断や染色体異常の確率を示す母体血清マーカー検査、羊水検査等がある。 エコーや血液検査は人体への負担がほとんどない反面、その検査により出た結果とは不正確であるのが特徴だ。 たとえ「陽性」(異常あり)との結果が出たとしても、実際は胎児に異常がない可能性もある。 さらなる確定判断として“羊水検査”が必要となるが、この検査を受ける事により0,5%の確率で母体に流産を招く危険性がある。
 現在母体保護法においては胎児の異常を中絶の理由として認めていないため、母体の健康維持などの拡大解釈で胎児が中絶により命を絶たれているのが現実だ。
 (以上、朝日新聞記事より引用)


 次に、上記朝日新聞記事を受けて寄せられたと思しき朝日新聞「声」欄の投書を以下にまとめて紹介しよう。 いずれもダウン症児を授かり、立派に育て上げつつある2人のお母様よりの投稿である。

 毎年春に桜を見ると、20年前の今頃ダウン症で生まれてきた我が子のことを思い出す。 病院の庭の満開の桜を見ながら私は涙を落とした。 あれから20年。いろいろ辛い事や大変な事もあったが我が子は愛嬌たっぷりに育った。 何より私自身がいろんな人と出会い成長できた。  胎児に異常があるかもしれないと中絶する人が増えているらしい。 そこにはいろんな考えがあるだろうが、障害児を持つことは悪いことばかりではないと桜を見ながら思える。

 現在13歳の長男はダウン症。 もし長男を妊娠した当時、障害に対して正しい知識や理解がない私が、生まれて来た子に障害があると言われていたならどうしたであろうか。 今穏やかに年を重ねる長男がそばにいるから「産んでよかった。何者にも代えられない大切な我が子」と言える。 生まれてくる子の人生はその子自身のもの。障害のある子と共に生きる家族は、その子から多くの幸せを与えられると感じている。 簡単な出生前判断で一つの大切な命が摘み取られる事がないよう関係者の慎重な対応を切に願う。


 原左都子の私論に入ろう。
 
 「出生前診断」に関しては、優性学における生命選別上必須との観点も否めないであろう。 人間においては胎児の段階等早期に生命の優性を判断可能な方が、種の存続上この世の発展が望めるとの見解が存在しても不思議ではない。 その意味合いもあって、我が国でも「出生前診断」の検査法において医学的進化(と表現するべきかは疑問が残るが)を遂げている現状と解するべきなのかもしれない。
 
 我が国家財政難の観点から考察するならば、これ程までに我が国の政治経済力が衰退した現状において、「障害児」にかかる国家予算の程は膨大なものがあろう。 
 米国に於いては、上記のごとく「出生前診断」が進化を遂げ既に商業ベースでそれが展開されている様子だ。
 いつの時代も政権政党は「社会福祉政策」を公約として高々と掲げるものだが、その実、歳費を食い潰す弱者の存在を如何に捉えているのかは永遠に大いなる疑問である。
 実際問題、我が国の法的側面においては上記のごとく、現在母体保護法上胎児の異常を中絶の理由として認めていないにもかかわらず、現行においては「経済的理由」を緩やかに解釈・運用して、いわゆる「選択的」人工妊娠中絶が施行されている現実でもあるし、その現状を追認しているのが司法界の多数派意見であるようだ。


 原左都子の娘の場合、出産時のダメージの程が軽微だった事が幸いして(失礼な表現であることは重々承知の上、分かり易く表現するならば)、おそらくダウン症児よりも育てるのがずっと容易だったことであろう。
 それにしても、上記ダウン症児のお母様達が新聞に投稿された文章が我が身に重なり身に滲みる思いである。

 産んで良かった。 本当に良かった。
 強気の原左都子とて今はそれしか言えない立場だ。

 それでも、障害児を持つことを否みせっかく授かった胎児の「出生前診断」を受けようと意図している親達の様々な立場や思いも理解可能な私から、少しアドバイスをしよう。

 その子をどのような考えで産もうと志したのだろうか?
 もしも我が子が欲しいとの意欲が旺盛だったのならば、絶対に生むべきである。

 子どもが欲しい、欲しくないの如何にかかわらず、どの親にとっても産んだ子どもを育てる事は過酷な現実であろう。
 それにしても娘を(ある程度名の通った)4年制大学に今春進学させたばかりの原左都子自身の現在の実感としては、我が子とは今後早かれ遅かれ老化の道筋を歩まざるを得ない親に、生きる希望と夢を与えてくれる対象として存在し続けるであろう事実には間違いない。

ただひたすら「走る」ことの効用

2012年04月15日 | 自己実現
 原左都子が少し前より“ランニング”を趣味の一つとしていることに関しては、当エッセイ集本年2月のバックナンバー 「来年こそ、マラソン大会に出るぞ!!」 において既述した。

 その後ランニングの趣味はまだ続いているどころか、今となっては私の生活には欠かせない一時の貴重な時間と言える程の存在に昇格しているのだ。

 体を動かす分野の趣味として、長年に渡りディスコ、ソウル、ジャズ系ダンスも主たる趣味である私だが、その個人レッスンを実行するために現在は公営体育館のジムに通いつつダンススタジオの束の間の空き時間を利用していた。  残念な事にスタジオプログラムの都合により空き時間が消え去ってしまい、その後の代替活路を体育館の“ランニング走路”に見出したといういきさつである。

 1周172mとの短距離しかも距離計算上中途半端な周回コースを何十周も回るという手段でランニングを楽しみつつ、既に4ヶ月が経過した。
 それまでランニング(ジョギングと言うべきペースだった)をトレーニングジムのマシーン上で行っていた私にとって、実際に自分の足で地面を踏み蹴りつつ前進していく行為自体が実に爽快だったのだ!  実際に「走る」動作とは、ランニングマシーンという“機械”の上でバタバタと体を上下させる事とまったく別世界の現象である事に初めて気付き感激した。 
 自分が生まれ持った二本足で地面を踏みつつ体を前に出し進んでいく行為とは、人間としてこの世に生まれ出たから故の快感であることに私はこの年齢にして初めて気付いたのだ。


 冒頭に記したバックナンバー「来年こそ、マラソン大会に出るぞ!!」 に於いても綴ったが、私は幼少の頃より“スポーツ(体育)音痴”のレッテルを貼られ続けて義務教育を過ごしてきた。 
 特に、今から遡る事半世紀近く前の小学校での体育の授業が実にお粗末だった事に関して何度も繰り返すが、とにかく当時の義務教育学校の現状とは一人の担任が(高学年の音楽を除き)全ての授業を受け持っていたのが事実だ。  (失礼ながら)デブおばさん先生が自分自身では何らの模範をも示せない体育の授業に於いて、放っておいても“出来る子”を褒め、“出来ない子”に対しては毎時間「あんたは何で出来ないの!」と叱責し続けたものだ。  こんなお粗末な教育体制の下で”体育が出来ない子”に分類されていた私が、体を動かす事を肯定的に捉えられるはずもなかった。

 時代が変遷し大人になった私は医学関係の専門職に携わった事もあり、自分自身の「心肺機能」が人並み以上に優れている事実を知った。(例えば肺活量が当時4000cc近くあったが、これに関しては中学生時代にブラスバンド部で吹奏楽器を頑張った歴史も貢献している事であろう。)
 そういった背景もあって、私の場合は小学校時代の教員より“スポーツ音痴”のレッテルを貼り付けられたが故に、単に自分がその種の人間であると信じ込まされているに過ぎない事に遅ればせながら気が付いたのだ。
 
 加えて、人間とは人生経験を積み重ねていく中で自然と体力面・技術面の力が向上し、体の各部位の効率的な使い方というものを誰に教わる訳でもなく心得てくるように感じる。 子どもの頃には指導者に「これをやれ!」と強制されるがままに訳が分からずただただやみくもに頑張っていたことが、今では力加減を心得るようになっている。
 それと共に今現在の我がスポーツ能力は、人間としての“成功感”が一番大きくものを言っているように原左都子は感じるのだ。 人生における様々な分野での成功体験を通じて自信が芽生え、チャレンジする対象事象の如何にかかわらず「自分は絶対出来る!」ごとくのエネルギーが内面から湧き出てくるのだ。 このような精神力こそが力強い後ろ盾となって、我が体を突き動かしてくれるように感じる。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用しつつ私論を展開。)


 さて、「走る」事に話題を戻そう。

 上記体育館室内“トレーニング走路”でランニングをしつつ4ヶ月が経過した。 自分で言うのもなんだが、その進化力を自ら感じ取れる現在なのだ!
 プロのランナーとは異なり、私の場合当然ながら自己判断のみに基づくトレーニングである。 それでも少しづつ距離と時間を延ばしながら、今現在7km程の距離を一定のペースで走り切ることが叶っている。
 新聞紙上で見聞するに、ランニングも3ヶ月継続すると変化がおきるからとにかく継続する事が肝心とのプロのアドバイスもある。 それを4ヶ月経った今実感している私だ。

 ところが、元々早期に業績を上げたい性分の私は、最初の頃スピードも距離も同時に伸ばそうとの欲望が強過ぎ、墓穴を掘っている事実を自己分析する過程もあった。 無理な状況を強行し続けると、自らの体の様々な部分がダメージを受けランニングの継続がままならないことにも気付いた。
 その後はとにかく欲張らず無理をせず、“マイペース”を貫く方針に切り替えたのだ。 この“マイペース”トレーニング方式が大いに功を奏しているようで、現在のところ7kmを完走できるまでに我がランニング力は強化されているのだ。

 ただ、私が市民マラソン大会に出場するに当たっての課題はまだまだある。
 現在は気候の影響を受けない室内走路でのランニングであるが、そのうち屋外のランニングコースで気候等の外部影響に耐える訓練も必要であろう。
 それにしても、 市民マラソンに出場するためには高い競争率を超えねばならないようでもあるのが現状だ。


 最後に、何故原左都子が現在これ程までに「走る」趣味にはまっているかに関して自己分析してみよう。
 人間が2本足で走るという行為自体が素晴らしい現象である事に気付かされたのが、その第一歩であった。
 私はいつも耳にウォークマンを携えて走っているのだが、それは私が未だ“ランニング”に関して素人である故であろう。  それにしても音楽に合わせてダンスを踊る前提として、人間の原点とはその体と両手両足で前進を続ける事こそが基本だったと気付かされるのだ。

 7km走るのに今現在まだ45分程度の時間を要する。
 ただ、我が長年の趣味であるダンスでは得られない “一人で孤独と苦しみに耐え抜く自己鍛錬の時間” をランニングが叶えてくれる事実こそが美学であり、何とも魅力的な現象と捉える私である。 

PTAが“任意参加団体”である事を保護者は知ってた??

2012年04月12日 | 教育・学校
 表題のごとく本来学校のPTA組織とは、法的には全員強制加入ではなく“任意加入”団体の位置付けにある。

 それしきの事を、元々法学履修経験がある原左都子としては当然の事として心得ておくべきだったと今さらながら悔やまれる。 うかつにもその事実を認識したのは、我が娘が高校卒業直前の1ヶ月程前に見た朝日新聞記事に於いてであった。


 娘が幼稚園に入園以降、小中そして高校を卒業するまで、我が子の育児教育に関して一番苦手な対象だったのが「PTA」の存在だった。
 学校が主催する(特にクラス単位の)「保護者会」の出席も苦手で、高学年になるにつれ出席回数を減らしつつ中学高校においては数える程しか出席していない。

 要するに原左都子の場合、自分の意思に寄らない保護者との中途半端な付き合いを他者から強制されることに大いなる抵抗感があるのだ。 同様に近隣や地域等、単に住む距離が近いとの理由のみで“仲良くしろ!”と外圧により強要される事態にも嫌悪感を抱いてしまう。(人道上の常識として、挨拶はしますよ。) 
 もちろん、保護者の方の中には気の合う相手もいた。特に子どもが小さい頃程親子の距離が近いため、子どもを通じて知り合った保護者の方と意気投合して一時仲良くする時代は私にもあった。
 子どもの成長につれて親子の距離感が自然と遠ざかっていくものだが、それにもかかわらず見知らぬ親同士を学校に集めて「懇談会」へ出席させられたり、「謝恩会」パーティ等の学校行事に強制参加させられるのには辟易とした。

 原左都子が何故その種の会合が苦手かと言うと、それは現在の人間関係の希薄化現象、及び個人情報保護の観点が大きく影響を及ぼしているものと考察する。
 他者より強制された場に同席した不特定の相手と会話する場合、どうしても上記の“障壁”により会話内容が限定されざるを得ない。 差し障りのない会話内容を吟味しつつ挨拶程度の会話を交わすしか方策がない。 それでもバランスが取れているとの感覚が持てる相手とは希薄な会話も時間内において続行可能であるが、今の時代、その種の無難な会話を一切受け付けない保護者が存在するのも現実である。 あるいは(特に子どもが幼少時代は)初対面であるにもかかわらず自分の事を一方的にしゃべくりまくるバランスが取れない保護者も存在して、これに応じ聞き役を全うしつつも閉口させられたものだ。
 学校PTAのごとく不特定多数人種の集合体である集団内に於ける人間関係の構築とは実に困難であることを、我が子の教育上実感させられ続けたのが事実だ。


 さて、PTAは本来「任意加入団体」であるとの記事を呈示した朝日新聞が、3月25日朝刊に於いて、その続編の形で「(PTA)非会員の行事参加に課題」と題する話題を再び展開した。

 その題名のみ見た原左都子の感想とは、学校PTA側が法的に“PTAとは任意加入”である事に基づきもっと昔から「非会員制度」を積極的に導入してくれていたならば、私は絶対「非会員」を貫いたのに……、と残念無念な思いである。 それは上記のごとく学校行事に参加したくないからこその理由である。
 
 ところが、現在“PTA非会員”を希望している保護者の大勢は、何故か学校行事には親子共々参加したいとの意向のようだ。
 その辺の保護者の論理が原左都子には理解不能なため、早速上記3月25日付朝日新聞記事を以下に要約して紹介しよう。
 “PTAは任意加入”の原則に沿って昨春から入退会を自由にした岡山市に位置する公立小学校の事例を紹介する。 PTA会費を年2回に分けて集めたところ、前期は94%、後期は87%の家庭が納めた。 ところが、非会員希望者の中に「PTA行事に参加できるか?」との質問を呈示する保護者も存在したようだ。 
 それに対するPTAからの回答も賛否両論分かれたようだが、要するにこの議論の根源とは「PTA会費」にあることに原左都子は気付かされたのである。

 いやはや、PTA任意加入の記事の趣旨とは現在のこの国の市民の生活難を反映するがごとくの「お金」にまつわる話題だったことに、今回の朝日新聞記事で初めて認識した私である。
 そうであるとすれば少なくとも公立学校義務教育課程においては、PTA行事に参加したい児童生徒には参加できる機会を与えてあげるべきに決まっているではないか。
 原左都子のように、保護者側の我がまま思想で「PTA活動」は任意とするべきだと訴えている訳ではなかったのね…


 まあそれにしても、私学のPTA会費とは半端な額ではないことも確かだ。
 我が子が中高時代に通っていた私学の例を挙げると、年間にして数万円の会費負担であった。(原左都子の試算によれば学内PTA総額は年間数千万円に及ぼう!!)  その会費の家庭へのフィードバックの一例を示すと、「こどもの日」の柏餅、夏の頃の「ほおずきの鉢植え」、節分の「豆菓子」、3月のひな祭りの「節句菓子」、そして桜の季節には「桜餅」、卒業式には「紅白饅頭」等々……
 娘の話によると、私立中学1年生の頃よりこれらを学校から配られると「これは親のお金で成り立ってるよ!」と教師に訴える生徒もいたらしい。 私は「そう言った子の親はしっかりしてるよ」と娘に返答しつつ、「まさにその通り!」と応じたものである。 その後これらの“ご褒美”が学校から配布される度に、それは親の経済力で成り立っていることを我が娘に教育してきている。

 話題を変えるが、我が姉が数十年来米国に居住している。
 その姉の話を見聞するに、米国の義務教育課程におけるPTA活動とは至って合理化されているらしい。 例えば、姉が居住する米国某州の場合、十何歳か以下の子どもを外で一人で歩かせる事は法的に禁止されているとの厳しい現実のようだ。 それに対応するため親は我が子を学校に送り迎えする義務があるのだが、その親の義務に関して米国某州の学校PTAでは「時間制」との合理的方策が採られていると見聞している。 すなわち、仕事で多忙な親同士で日替わりで助け合って子どもを学校に送り迎えする等により個々の親が時間点数を積み上げて、子どもの卒業までに保護者個々に課せられている「時間」総数最低限をクリアするのが条件とのことだ。


 我が娘が既に大学に入学してくれている現在に於いて学校PTAの存在など二の次でよいのだが、朝日新聞記事を読んで尚、学校PTAとは様々な意味で鬱陶しい存在であることを実感させられる。
 上記朝日新聞2度目の記事のまとめに、「PTA活動とは保護者がボランティアでするもの」との記述があった。
 この見解を読んだ原左都子は大いなる反発心を抱かせられた。 その思想の背景とは、(子どもが学校にお世話になっているんだから、親はそのお礼として奉仕活動をするべき)との論理なのだろう。  学校教育が義務化されている現状においては、好む好まざるにかかわらず保護者は子どもを義務教育課程に入学させねばならない。 学校に子どもの世話を任せたい保護者もいれば、原左都子のように自分自身での教育指導を主眼としつつ、義務であるから仕方なく弊害も大きい学校現場へ心を鬼にして子どもを通わせた保護者もいるのだ。 

 それにしても学校PTAの存在がそもそも“任意加入団体”であるのならば、これ程国民の多様化が進展した現在において、その法的事実を(その会費が払えない市民には国や自治体が別枠で対応しつつ)全国民にもっと徹底し、PTA参加を各家庭の自由裁量とするべきではないのか!?? 

「酒」の作法と言われても…

2012年04月09日 | 
 (写真は、都心部にある我が家の川沿いに於いて現在満開の桜並木を撮影したもの)


 今年の桜は私が住む東京に於いても例年に比し遅い開花であったが、先週末にやっと満開の時期を迎えた。

 原左都子が現在居住している地は、東京23区内に於いて有数の桜の名所に挙げられている恰好の場所にある。
 上記写真のごとくの桜並木が延々数キロに渡り続き、川面に揺らぐその薄ピンク色の色彩と共に実に美しい木々の影像を醸し出す風景を一目見ようと、毎春桜満開のこの時期になるとどこからともなく大勢の人が押し寄せて来る。
 カメラ片手にこの桜並木を闊歩したり、川沿いに位置している大規模都営公園の芝生上で宴会を開いたりしつつ、それぞれに一時のお花見を楽しんでいる様子だ。


 “お花見”と言えばつきものなのが「酒」ではなかろうか。

 この私も先週末の桜満開時にたまたまジムへ行くため川沿いを歩いていて、上記桜並木の大規模公園内で早くも“お花見宴会”を催している数多くのグループを見かけた。
 日中の時間帯であるため、小さい子ども連れの親子グループに関してはさすがに「酒」で盛り上がっている様子ではなさそうだ。  一方、職場仲間かあるいは大学生かと思しき若手グループは、白昼にして既に「酒」の力で高揚している様子である。
 当日は“お花見”をするには最高気温15℃位の寒風が吹く肌寒い日和であったため、(皆さん、風邪でもひきそうなこの気候環境下でよくお花見宴会を実行したものだなあ~~)などと他人事のように感じつつその場を通り抜けたものだ。


 さて、“やっぱりなあ…、だがどうしたものか??”と飲兵衛の原左都子が呆れざるを得ないような記事が、朝日新聞4月7日夕刊一面トップの「花見お行儀チェック」と題する記事に於いて展開されていた。
 
 “お花見”につきものの“酒”の「持ち込み禁止」を発令する都心の桜名所処が急増しているとの朝日新聞の話題である。
 例えば新宿御苑の入場門にお花見客が近づくと「持ち物検査」の関門を通過する事となる様子だ。 その場においてお花見客は、鞄の中に缶ビール等の酒類が入っていない事を厳重にチェックされた後に入園可能との話である。  確かに新宿御苑に限っては明治時代には皇室の庭園だったことを慮るならば、その種の対応もやむを得ないのかもしれない。
 片や、花見の季節に毎日のように酔客が喧嘩をしたり、急性アルコール中毒で救急車で搬送される事実も後を絶たないようだ。 この種のトラブルが多発している中で、桜の名所がアルコールの持込を制限するのもやむを得ないのかとも判断する。

 上記朝日新聞記事においてコメントを述べておられるのは、“飲兵衛”として名高いシンガーソングライターの なぎら健壱氏であられた。 「酒の作法 普段から教えて」と題するなぎら氏のコメントを以下に要約して紹介しよう。
 最近の人は普段から酒の飲み方や後片付けの仕方を教わっていないから、花見の場にしわ寄せが出てしまうのだろう。 (中略) 花見の場であろうが当たり前に酒を飲んで楽しむことが出来るように、ただ厳しくだけでなく教えていかねばならない。


 すみません。 原左都子としても同じ飲兵衛であられる なぎら健壱氏 に同調申し上げたい思いは重々である。 ところが、今回のなぎら氏のコメントは朝日新聞に迎合するが余り(私に言わせてもらうと本人らしくもなく)酒に関して下手に優等生を装っているかのごとく“無理が大きく気持ち悪い感覚”を抱いてしまうのだ。

 いや~~。 飲兵衛の私としては花見の酒席でそんなに“お利口さん”でいよ”と言われたとて、それは絶対に無理!無理!!無理!!! と反論するしかないねえ…… (いえいえ、酔っ払っても片付けはしますよ。)


 医学的観点から考察すると礼儀以前の問題として、若年層はまず自身のDNAに関して生来的に与えられている我が身の“アルコール許容力”を知ることから始めるべきである。
 そのためには、決して大学の新入生歓迎コンパや入学当初の「お花見宴会」において、周囲が新入生全員に“一気飲み”など絶対に煽ってはならないことは鉄則中の鉄則である!
 それが言われて久しいのに、今尚急性アルコール中毒で死亡に至る大学新入生が後を絶たない。 大学現場の指導者達は一体何を学生の危機管理力と心得ているのか!!と反発したくもなる。

 と言う訳で原左都子の私論としては、まずは個々人が自分が生まれ持った遺伝子的体質を何らかの形で心得る事から始めるべきとの結論となる。
 その教育や経験が成り立つことを前提として、二の次に「酒の作法」との議論が初めて出てきて欲しいものと私は希望的に認識する。
 
 
 なぎら健壱さん、失礼とは存じつつ繰り返させていただくが、人間が「酒」の世界を正当に全うするためには、「作法」以前の問題として、DNA的医学適性力こそを把握することが第一義であると主張申し上げたい思いである。

 飲兵衛の原左都子の場合、やはり「酒」とは気の置けない相手と共に出来れば「作法」抜きで楽しみたいものだ。

定年退職の日は駆け足でやって来る

2012年04月07日 | 自己実現
 (写真は、先だって我が身内が定年退職した日に職場よりプレゼントいただいた花束。 本物はもっと美しく可憐で豪華な花束なのだが、何分原左都子が写真撮影のノウハウを心得ていないため、色合いが悪く貧弱に見える点が残念である。)


 怒涛のごとく、次から次へと原左都子の身にビックイベントが押し寄せる今年の春である。

 娘の大学入学式の2日後に、我が身内が35歳時に中途入社した一部上場民間企業研究所の定年退職を迎えた。
 そもそも私が身内と知り合ったのは身内が当該企業に就職した数年後の事であり、入社当時の様子に関しては本人等人づてに聞く話に於いてしか心得ていない。 しかも婚姻後まだ十数年の年月しか経過していない晩婚夫婦という事情もあるが、例えば40年も連れ添われたご夫婦のごとくご亭主の定年退職までの長き年月を“内助の功”の役割を果しつつ支えた、などとの美談には程遠いものも我々夫婦にはある。

 そんな私にとっては、身内の定年退職の日は実に“駆け足”でやって来たと表現するしかない。
 ついこの前婚姻し、娘の“お抱え家庭教師”として君臨する日々を重ねた挙句、いよいよ娘が大学生となった暁に早くも身内が定年退職である。


 身内の定年退職に先立ち、その「定年退職祝い会」の幹事を担当しているとの職場の若手同僚より突然自宅にお電話をいただいた。
 電話でのお話によると、身内には内緒で“ご家族からのメッセージ”を頂戴し、職場のお祝いの会で本人に手渡したいとの事だ。  おそらく定年退職を迎える社員の皆さんに、定例的に職場においてこのような手厚い配慮をしているのであろう。  その意向は尊重しつつも、私は冗談と本音を交錯しながら電話で次のように応じた。 「ご配慮はありがたいが、我々夫婦の場合晩婚とのこともありその種のメッセージに身内が好意的に反応する関係には程遠い。 もしかしたら身内も娘からのお祝いは喜んで受け入れると想像するので、娘にメッセージを書かせて郵送する。云々…」
 「それで十分です!」との担当者のご返答に対し、まさかいい大人が娘のメッセージのみを郵送できるはずもないため、家内である原左都子として職場の皆様への御礼状もしたためて同封した。   
 (ここで原左都子の弱音を吐かせていただくと、3月末の私は息もつけない程多忙な時期だった。 友人の死去に伴うそのご遺族へのお悔やみ状の郵送、知人から招待を受けたアートフェアへの出席、我が子の大学入学に伴う諸手続きの援助、義母の介護にかかわる対応、等々… )
 ただやはり定年退職を迎える身内を抱えている配偶者としては、そんな弱音を吐いている場合ではないことを心得て、その返答を全うした私である。


 さて、その我が身内が定年退職の日に手に持ちきれない程のお祝い品の数々を携えて、夜遅く帰宅した。
 その中で一番大きい荷物だったのが上記写真の「花束」である。 それと共に自身の研究実績が綴られた業績集ファイルや、数多くの関連会社からの記念品や職場の皆様より賜った贈り物等々を自宅に持ち帰った我が身内である。 
 そんな荷物と共に、中途採用で入社した民間企業に於ける勤務の日々がまんざらでなかった様子で、いつもは口数が少ない身内が我々親子に25年間の懐古と共に在籍中の自慢話を繰り広げるではないか。 
 この日この話を聞いてやるのが本日定年退職した家族の役割と心がけつつも、大学に入学したばかりの娘の明日のスケジュールを思いやり、娘を自室に行かせる私だ。 その後も長引きそうな身内の在籍中の話を聞き流しながら、“なんでこの多忙な時期に定年退職を向かえたの!”とイラつきつつ一時を過ごした私である。


 そんな身内の定年退職に際して、原左都子として思う事がある。

 この私は「定年退職」を経験していない。
 公民各種職場を退職した経験はあるが、そのすべてが中途退職であった。
 我が人生に於いて一番最初に就職した民間企業は30歳にして新たな“大学進学”を志すという、いとも身勝手な事由により中途退職した。 退職のお祝いをしてもらえるどころか、その我が身の勝手さをバッシングされつつ大いなる痛手を背負っての引き際だったものだ…
 その後も「出産退職」等、職場に迷惑を及ぼす自己都合による退職を繰り返してきている…
 ただしそのすべてが(今思うに)当時の原左都子が未だ若き世代であったからこそ、その後の我が更なる未来に繋がったとの自負はある。


 それに比して今の時代、還暦にして定年退職を迎える者の現実は厳しいものがあろう。
 「原左都子エッセイ集」バックナンバーで綴った通り、今現在の定年退職者にとっての再就職先とは職場周囲の若者に迎合してやっと成り立つ、だのとの見解がメディアに横行している現状だ。
 あるいは、65歳の高齢者には清掃や守衛等の単純作業しか待ち構えていない現実社会において、それでも労働を欲したい退職者にとってはその世界も有意義であることだろうか??

 一方で、定年後の生活資金を「年金」にのみ頼って済む少々リッチな高齢者達の未来が芳しいとも到底思えない。
 多くの方々は趣味に生きようとでも欲しておられることであろう。 ところが、趣味とはあくまでも「趣味」なのである。 これは“3日”で飽きよう。
 では奥方と共に定年後の人生を楽しく過ごそうかとの甘い考えをしても、奥方は皆多忙で亭主の相手などしてられない。 ならば年寄り連中で仲良くしようと志そうが、今時の年寄りはその個性が多様性を帯びているため直ぐに喧嘩別れとなる存在同士であろう。 
 元々自由業を営んでいる人種はそれをさらに開拓可能であろうが、経済不況の今時、そんな自営力に恵まれた部類とはごく一部の層に限られていることも私は常々実感している。

 それでは定年退職後の人物とは、今後何を頼りに生きていけばよいのだろうか?
 40年現役で勤め上げようが、十数年で退職を迎えようが、すべての皆さんにとって定年退職後の厳しい現実は共通との結論に達するのかもしれない。

 少なくとも誰かに依存するのではなく、自分自身の能力と実力で我が身の老後を開拓していくしかその先はないのではあるまいか? 
 そういう意味では老若男女を問わず、現役時代から「自立」した日々を歩むよう心がけているべきであろう。