原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

生徒を被害者・加害者にしない危機管理を

2010年06月17日 | 教育・学校
 学校内で発生する殺人・傷害事件に対し、一般市民は決して“マンネリ化感覚”を抱いてはならない。
 そう言いたくなるほどに、学校内における殺傷事件が多発する近年の痛ましい実態である。

 先だって6月15日に発生した横浜の私立女子高校における授業中の傷害事件を報道で見聞した私は、同じ年頃の女子高生の子どもを持つ親として何ともいたたまれない思いである。
 被害者は意識不明の重体との報道であるが、何とか一命を取りとめ回復して欲しいものだ。

 この傷害事件をご存じない方のためにここで簡単に説明すると、上記私立女子高校の授業時間中に、座席が隣り合う生徒が傍らの生徒を持参したナイフで突然刺したというものである。


 この事件の報道において、元高校教員でもある原左都子が呆れ果て愕然とさせられた事象がある。
 それは、当該女子高校の学校長による事件発生後の記者会見での言及である。 (あくまでも報道を見聞した範囲だが)、女性学校長はこの事件に関して「被害者の生徒はとっても明るく元気で活発な生徒です」と話す一方、加害者である生徒に関して「私は話した事もなく、知らない。」と公言したらしい。 加えて「(担任教諭は加害者に関して)口数が少ないと言っていました」と応えたそうである…。

 ここで私論になるが、学校の最高責任者である学校長たるものが事件発生直後に報道に公開する発言として、これは絶対にあってはならない最悪の発言であった。
 事件当日の午後4時頃記者会見に臨んだ学校長は、この時点では事件の“背景的要因”の詳細を知るすべもない。 この場で学校長として報道の質疑に応え得る内容とは、事件に関する“事実説明”のみで十分だったはずだ。 生徒個々の人格的要因である「人柄」になど、記者会見において教育者たるもの決して触れるべきではない。 しかも、被害者の人格については肯定的見解を述べ、加害者については「私は話した事がなく知らない」とはどうしたことか。(これではまるで、その辺のおばさんが井戸端会議でもしているノリでしかなく、愕然とするしかない。) 加害者生徒を知らないのならば尚更、学校長の立場で被害者、加害者両者の性格的バックグラウンドにまでメディアを通して世間に公開するべきではなかった。

 大変遺憾なことに、この校長の記者会見により、早速加害者の人格に欠陥があるべく歪んだ報道が横行している有り様だ。
 “被害者は明るく元気で活発な生徒である一方、加害者は口数が少なく暗い” この図式に喜んで飛びついたと思われる報道機関が、事件の背景解明に先行してこれを強調して伝えている実態に、心を痛める私である。


 報道によると、この2人はどうやら4月の入学当初より相性が悪い生徒同士であったようだ。にもかかわらず運悪く教室での座席がずっと隣同士を余儀なくされていたようである。 加害者の友人が被害者から「きもい、暗い」となじられるごとくのトラブルもあったようで、被害者側も「座席を変えて欲しい」と担任に訴えたりもしたが、「席替えは皆が決めたことだから」と担任は被害者生徒の要望を認めなかったとのことでもある。

 再び私論に入るが、担任が被害者生徒の訴えをもっと真剣に捉えて早期に座席を離す措置を取っていれば事件は回避できたのかもしれないと、何とも無念な原左都子である。

 ここで私事になるが、我が子が小学生時代に特定の同級生より度重なるいじめに遭ったことがある。 当初は担任の方針により、「まだ年齢が低い子どもである故にいじめを乗り越えてなるべく2人が仲良くして欲しい」との軟弱指導で片付けられてしまった。 再度我が子が同一相手から陰湿ないじめに遭った時、保護者の私は再び担任に訴えた。 「申し訳なかった、本人にも親御さんにも謝らせる」と弁解する担任に対し、私は毅然とこちらの要望を伝えたものである。 「形式だけの謝罪はどっちでもいいので、とにかくいじめの加害者生徒を我が子に近づけないで欲しい。 そのために即刻できる手立てとして教室での座席を離して欲しいのに加えて、来年以降加害者とは別のクラスにして欲しい。」 後半の要望に関しては当然ながら担任に表立っての権限がないのであろうが、座席の変更は即刻実践してもらえ、それ以降2人の接触がなくなり我が子へのいじめは自然消滅した。

 大人の人間関係における鉄則とて、相性の悪い相手とはあえてバトルを繰り広げるよりも距離を置き避けて通るのがスマートな人間同士の付き合いというものであろう。
 この意味で、児童生徒が所属する学校という環境は厳しいものがある。 自分自身の意思で人間関係をコントロールしようと試みようが、学校のクラスや教室の座席如何で幸も不幸ももたらされるというものであろう。

 そこで提案であるが、学校は今回のような痛ましい事件を回避するためにもクラス編成や教室の座席をより流動的に運営しては如何なものか。 そういう柔軟な対応こそが、学校の危機管理にも直結するものと私は考察する。
 少なくとも今回の事件のように、事前に生徒がクラス生徒との人間関係の悪化を回避しようと「席替え」を訴えているにもかかわらず、それに耳を貸さなかった担任の責任は重大であると私は捉える。


 それにしても、いくら学校長が事件直後で動揺していようと、教育者たる者、マスメディアからの生徒の人格面での質問に決して軽はずみに応じてはならない。 これは、個人のプライバシー保護にも抵触する言動である。
 今回の私立女子高校の授業中の事件に関しては、被害者も加害者も共に学校教育の危機管理不備による犠牲者であると私は位置づける。
 15歳という未熟な生徒がどんな思いでこのような残虐な事件を起こすに至ったのかに関して、真相が不明の今、とりあえずは加害生徒に関してノーコメントに徹しておくのが教育現場たる学校の役割ではなかったのか??
 被害者の回復を祈ると共に、こんな取るに足りない事で同級生を傷害してしまった我が子と同世代のわずか15歳の加害者生徒の今後の人生を思うと、何ともいたたまれない思いの原左都子である。
                    
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指導者の愚かさを超えて子どもは成長する

2010年06月15日 | 教育・学校
 少し前の朝日新聞「声」欄に、11歳の小学生が学校での出来事を綴った内容の投書が掲載されていた。

 学校なんて過ぎ去ってみれば取るに足りない存在であるのが事実だが、この11歳小学生の投書は、大の大人の私にインパクトをもって自らの“無念”を訴えかけてきたのである。


 早速、6月5日朝日新聞「声」欄の 「顔をふせて手を挙げたのに」 と題する小学生の投書を以下に要約して紹介しよう。
 秋の運動会のこてき隊の曲はいつもは6年生が選ぶのに、今年は先生が決めた。やりたくない曲なので、もう一度賛成と反対を顔をふせて手をあげて先生が多数決をとった。私も反対に手をあげたが、こんなときにそうできるのは勇気ある意志の強い人だと思う。 音楽の先生から、やりたくない人は次の日楽ふを持ってきてと言われ、家でおかあさんとお兄ちゃんも手伝ってくれて10曲くらい紙に書いた。おかあさんは仕事で夜話したので、楽ふは用意できなかった。 次の日、授業の途中で音楽の先生に反対した人が呼ばれ、楽ふを持っていかなかったのできついことを言われた。 教頭先生とも話したが、曲を変える気はないんだと思って帰ってきた。 最後の運動会なのに楽しくないし、(音楽の先生が選んだ)曲が使われているテレビ漫画ももう見たくない気持ちだ。


 私論に入ろう。

 上記「声」欄の投稿は、現在の学校現場において日常茶飯事とも言える“軽率な教員”と生徒間のトラブルの一幕が綴られた文面に過ぎないのであろう。
 ところが、この投書が何故に私にとってインパクトがあるのかと言うと、この生徒はわずか11歳にして学校内での出来事における自らの無念さを新聞投稿という手段で十分表現している一方で、教員の対処の理不尽さを端的に指摘出来ているからである。


 ここで私事になるが、この小学生の投書を読んで自らの小学6年生時の学芸会の出来事がフラッシュバックした原左都子なのである。
 私は幼少の頃より“世の理不尽さ”を“不快感”として認識する感覚が強かったように思うのだが、第ニ次反抗期の小6時点でそれが爆発するがごとくの行動を担任相手に取ったのだ。
 学校の担任が自分の好みの生徒を“えこひいき”するのは、今となって思えば世の常であろう。 この私も小中高時代において教員からどちらかと言えば“えこひいき”される側の立場にあったのではないかとも認識している。 ところが小学6年頃第ニ次反抗期を向かえた私は、それに“反旗を翻す”行動に出たのである。
 小6の3学期の“卒業記念学芸会”直前の国語の時間に作文課題が課せられたのだが、私は果敢にもそのテーマとして「教員は“えこひいき”をしてはならない」云々と題し、未熟ながらも教員の“えこひいき”に対する批判を展開したのである。  その作文に大いに怒った女性担任が私を吊るし上げ、クラス全員の前で「先生(自分のこと)が誰を“えこひいき”しているか皆の前で言いなさい!!」と迫ったのだ。 わずか12歳の未熟な私は、やめときゃいいのに「○○さんです…」と生徒本人がいる前で直言するしか手立てがなかったものだ…
 その“卒業記念学芸会”に於いて、当初私は主要な配役をもらっていた。 ところが、上記の担任批判作文をきっかけに私はその他大勢の“花役”に回された挙句、主役である“担任えこひいき○○さん”に土から引き抜かれ命を絶つ花の役回りとなったのである。 その措置を担任からの“いじめ”と即座に認識することができた私は一瞬辛い思いを味わったものの、(この役、結構目立つぞ!)と気持ちを入れ替え、卒業生保護者と教職員、在校生一同の前で花の命を絶って倒れこむ演技に集中したものである。
 その後中学生となった私は、通学路で小学校へ通勤途中の上記小6時代の担任と何度かすれ違うのだが、こちらから挨拶しようと試みてもその元担任がいつも私を睨みつけていたのが子ども心に印象的である。 それ程に、わずか12歳の私の“反逆”に元担任は大いなる痛手を受け、出来れば私の命を絶ちたい程に根に持ち続けていたのであろう。


 朝日新聞「声」欄の投稿に話を戻そう。

 投稿者である現在11歳のあなたの今回の“無念”は原左都子にもよく理解できるよ。 「楽譜を持って来い」と音楽教員から言われたって、いくら音楽に精通した家庭であろうと次の日には無理だよね。 かと言って、後日楽譜をその音楽教員に持参したものなら、その教員の力量の程を推測するにもっと嫌みったらしい事態になっただろうしね…。 一方、教頭に関しては、音楽教員を弁護することによりトラブルを回避することにしか脳がないのだろうとも考えられるよね。
 あなたの音楽の先生は自分が決めた楽曲に逆らう生徒が鬱陶しかったのかもしれないし、あるいは秋の運動会まで時間がなくて焦っていたのかもしれない。 後者だったとするならば、生徒の指導者たる教員はもっと早くから例年通り6年生に楽曲を決めさせるべく計画的に行動するべきだよね。

 まあ、学校の教員を含めた大人の世界の実態とは、どこの分野も所詮そのレベルでしかないのだけど…。 (国政も含めてね。

 いずれにしても、今回の学校内での出来事に関して未だ11歳のあなたには何の落ち度もないことは確かだよ。
 今回あなたが学校の教員が取った理不尽な態度に対して抱いた不信感と無念さ、そしてその思いを新聞に投稿できた事実こそが、きっと将来大人になっていくあなたの支えとなり人格形成の一助となるに違いないと原左都子は信じているよ。
               
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国民が期待するべきは菅内閣の「実行力」

2010年06月11日 | 時事論評
 本日(6月11日)午後、新内閣の総理大臣 菅直人氏による「所信表明演説」が国会に於いて行われテレビ放映された。

 その所信表明によると、新内閣に課せられている最大の責務は 「国民の信頼回復」 であり、そのスローガンに基づいた“責任感”の下に鳩山内閣を引き継いだ政策を実行していくとのことである。
 政策の大きな柱として「政治主導」「国民が未来に希望を持てる社会の構築」等を掲げ、各論として“情報公開法の改正”“地域主権の確立”“住民参加の行政”“強い経済・強い財政・強い社会保障”等々についての方針が語られた。

 「菅首相所信表明」は残念ながら、全般的に鳩山内閣時代と政策において異なる部分や目新しい箇所はなかったような印象である。
 その中で原左都子の記憶に残っているのは、“強い財政”実現のために国債発行に依存する挙句の果てにギリシャのごとく財政破綻するのは何としても回避するため、税制改革を行うとの表明である。ただ税制改革内容に関して例えば消費税の扱い等の具体的言及は一切なかった。
 また沖縄については触れたものの、来る6月23日の戦没者追悼式典に参加し沖縄が長年に渡り担ってきている国際安保の役割に“感謝”申し上げる、との言及に留まり、「普天間問題」に関する新政権としての弁明は一切ないままである。
 表明の最後は、政治的リーダーシップ力の欠如の汚名を挽回するべく「実行力」を持って国民にビジョンを示し、20年来に及ぶ日本の社会の閉塞感を打ち破り“元気な日本”を創り上げていくとのことで、演説は締めくくられた。


 私論に入ろう。

 菅新首相は新内閣に課せられている最大の責務とは「国民の信頼の回復」であると公言した割には、鳩山首相退陣の主たる要因であり鳩山内閣の最大の失策でもある「政治とカネ」問題や「普天間問題」を、意図的に避けて通った所信表明であったとも考察できる。

 「政治とカネ」問題に関しては、菅氏の政治家としての経歴を述べる中で、過去において経団連に政治資金規制を実行させた自らの功績に関する言及はあったものの、新政権が直面している「政治とカネ」問題(具体的には小沢氏と鳩山氏が国民から信頼を失って尚、新政権の議員として安泰の立場である現状)に今後如何に対処していくのかについて、新首相としての対応には一切触れず終いである。 鳩山氏が退陣し小沢氏が表向きは指導的地位から遠のいたことで、菅氏は国民が「政治とカネ」問題を忘れ去ってくれる事に期待でもしているのか??
 また、鳩山前首相退陣の直接の要因である「普天間問題」に対する新首相としての対応策についても、上記のごとく一言も言及のない所信表明であった。

 新政権が菅内閣に移行して以降、各種報道機関による世論調査結果における新内閣「支持率」が急上昇していることを真に受け、それに甘え安心してしまった今回の菅新総理の「所信表明演説」だったと結論付けられるのかもしれない。


 さてそこで、昨日報道された朝日新聞による菅内閣支持率の全国調査結果を分析してみることにしよう。
 鳩山内閣の最終支持率が17%だったのに比し、菅内閣に対する最新支持率の世論調査結果が60%であるとの報道である。

 国民は一体、菅内閣の何を支持しているのだろうか?? 

 国民側ももっと冷静に内閣を評価するべきである。
 なぜならば菅内閣はつい先だって発足したばかりであり、その実績を評価できる材料など何一つない現状なのである。
 確かにこの私も「原左都子エッセイ集」の前回及び前々回の記事において、菅新内閣への移行を肯定的に捉えている趣旨の記事を綴っている。 ただし、それはあくまでも菅首相の党幹部「人事」のみに関しての話であり、今後も国民は新内閣を監視し続けて叩き続けよう!との趣旨の2本の記事である。

 まあそもそも、世論調査などというもの自体の存在が疑わしくもある。 今回の「内閣支持率」調査にしても、それは“支持率”ではなく単なる“期待率”と表現するべき程度の取るに足りない内容の調査であろう。
 この種の世論調査結果を“一人歩き”させないために、報道の自主規制が望まれることに関しては本ブログの前記事でも述べているが、報道機関の“売らんかな”精神に基づいた言論統制の原理が横行するのが資本主義社会の宿命でもある。

 情報の受け手側である一般国民の見識改革は容易な事ではないのかもしれない。
 だが少なくとも国政を操っている立場にある政治家たる指導者達は、決してこの種の“バブル世論調査結果”を信用してその調査結果に有頂天に浮かれたり、それにすがって自分の進むべく方向性を見失ってはならない。


 今一度言っておきたいのだが、新政権の菅新内閣はスタートしたばかりであって未だ何の実績も挙げていないのが事実である。
 本日の菅氏の「所信表明演説」における冒頭の“最大の責務は「国民の信頼回復」である”との表明に関してはその通りであろう。 そして、結びの部分の“政治的リーダーシップ力欠如の汚名を挽回するべく「実行力」を持って国民にビジョンを示す”の言及に関しても是非共そのように期待したい思いである。

 何度も言うが、原左都子はあくまでも“無党派層”である。
 新政権が菅新内閣に移行したというそれだけの理由で、いきなり“支持”が出来るほどに私は単細胞人種には成り下がれない。
 政治家の皆さんの「指導力」及び「実行力」を今後共とくと拝見したい思いであるのに加えて、参院選に出馬を予定している野党や新党の動向についても我が厳しい目と耳で十分に判断させていただきたい意向であることには変わりはない。

 民主党は本日新たに、郵政問題で国民新党の亀井氏を辞任に至らせる事態となる窮地に立たされたようでもあるしね… 
 国民新党を菅新内閣がどう扱うかについても、今後十分に監視させてもらいますよ~~  (私論は、もはや連立の必然性は一切ないと見ているのだが…)
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「仕事大好き新内閣」 を国民は監視し続けよう!

2010年06月08日 | 時事論評
 本日(6月8日)昼間のテレビニュース報道によると、今夜発足する菅新内閣のモットーは“クリーン”と「仕事大好き内閣」であるらしい。(官房長官に就任する 仙谷氏による新内閣名簿発表会見より一部を引用)

 
 いきなり話が変わるが、私は週に2度程スポーツジムへ通ってトレーニングに励んでいるのだが、ちょうど私がランニングマシーンに乗っている時間帯にマシーンの前面に設置されている画面で、日テレの「ミヤネ屋」という番組が放映されているのだ。
 この「ミヤネ屋」という番組は昼間のワイドショーにしては珍しく、ここのところいつも前半は政治の話題を取り上げている。 しかも昨日(6月7日)の放送は、前半が新総理の菅直人氏の奥方である菅伸子氏特集であり、後半は何故日本の内閣が短命続きなのかにつき政治評論家が議論をするという全面政治特集であった。
 いつもはイヤホンをしないで画面と字幕テロップだけを見る私も、昨日は(これは聞き捨てならぬ!)とばかりにイヤホンを装着して音声も確認しつつランニングに励んだ。

 何分、ランニング中につきメモを取る事が不能なため記憶のみに頼らざるを得ないのだが、印象に残っている場面を取り上げて昨日の「ミヤネ屋」の政治特集を原左都子なりに論評してみることにしよう。

 日本は先進国にして次から次へと首相が入れ替わり内閣が短命過ぎるのは何故なのかについて、昨日の「ミヤネ屋」後半のテーマとして取り上げられていた訳であるが、そう言えば、元首相である小泉氏以降サミット(主要先進国首脳会議)に出席する我が国の首相は毎年入れ替わり立ち替わりの実態である。 (先日わずか8ヶ月の短命で退陣した鳩山氏は結局サミットには出席できず終いである。 あの目立ちたがり屋の奥方はさぞかし2人でお手手つないでいる影像が世界に放映されるのを望んでいたであろうに、何とも残念… )
 鳩山氏ご夫妻がサミットに出席できなかった“無念”は二の次でよいとして、我が国の内閣が短命である理由に付き政治評論家や学者や現役官僚が様々な見解を述べていた。


 あくまでも私が憶えている範囲で、原左都子自身の私論を前面に出しつつそれらの見解を以下にまとめてみよう。

 一つは首相に選出される人物の首相としての資質の問題である。
 どうも我が国の首相とはその資質よりも“国民や周囲の受けのよさ”等の表面的な印象で選出される傾向があるとの政治評論家氏の見解は、鳩山氏を典型例として否めない事実であろう。 一国の首相とは平議員と一線を画した卓越したリーダーシップ力が要求されて当然であるのに…。
 上記政治評論家氏の話によると、例えばサミットの真の存在意義とはメディアに報道されない裏舞台においてこそ各国首脳の力量が試される場として機能することであるらしい。 例えば米国のオバマ大統領など、お忍びで側近一人のみを伴って他国の首相に接見しては内密に議論、折衝を進めるバイタリティがあるとのことである。 この辺において、我が国の歴代の首相は大いに遅れをとっているのが明らかな事実のようだ。

 あるいは、我が国特有の「二院制」の問題もあろう。
 確かに「参議院」においては解散総選挙の制度もなく、一旦議員に選出されたなら何ら実力がなくとも次期参院選までの6年間その地位が安泰なのである。 しかも内閣の閣僚としても選出され得るし、政権政党の民主党において今回鳩山退陣劇の引き金を引いたごとくの国政における大いなる影響力も行使できる立場にあるのだ。
 先進国において未だこのような「二院制」を採用しているのは我が国のみであるようだが、今後の議論を呼ぶ課題であろう。

 今回の「ミヤネ屋」においては、マスメディアのあり方や国民の責任に関する見識者の見解も存在した。
 情報発信側のマスメディアとは受信側の多様性を心得えて情報を吟味するべきであるにもかかわらず、単に自己利益の追求のみに溺れ受信側の世論誘導を操るべく存在している観は否めない。 この実情に関して情報発信側のメディアには是非共自主規制等の自助努力を望みたいものである。

 一方で、首相と内閣の短命には“国民側にも責任がある”との見識者の発言には大いなる違和感を抱いた原左都子だ。
 某女性学者の見解によると、政治家にとって今の「国民は恐い」のではないかとのご意見である。 ネット世界が進展を遂げるのに平行して、個人がブログ等のネット媒体でいくらでも公に物申せる時代が訪れている。 たとえ相手が政治家であれ国民個々人が簡単に叩ける時代が到来していることも現在の内閣短命をもたらしている根源である、とこの女性学者はさも国民側に非があるごとくの見解を昨日の「ミヤネ屋」において表明していた。


 最後に私論で締めくくろう。

 国政を真に変える原動力となるのは、まさに有権者である国民でしかあり得ない。 国政が成り立つ源とは「国民が存在する」が故であることを、政治家も見識者も決して忘れてはならない事実なのだ。 
 それは、株式会社における出資者である株主の存在と類似したものがあると私は捉える。(国政においても「株主総会」に相当するべく出資者(納税者)が経営者である政治家を評価し人事に物申せる「国民総会」でも開催する権限が委譲されるとよいのにと提唱したくもなる。)
 国民が政治家を公に叩けるようになった現状とは決して「弊害」ではなく、これはまさしく「進化」なのである。  政治が“お上任せ”で国民が我関せずだった古き時代は既に過ぎ去り、有権者参加の国政を実現しようとしているのが昨夏の政権交代だったのではないのか。 この肝心な要点を見識者たる者が勘違いしてはならない。  昨夏の民主党による政権交代の最大の功績は “有権者全員参加の国政”の一歩手前の段階の“国民の政治に対する目が肥えた”ことにあると私は捉えている。
 経済高度成長期頃より、国際的観点から 「経済一流、政治三流」と蔑まれてきたこの国において、遅ればせながらも初めて国政に対する有権者の目を覚まさせた民主党の功績は、その意味において大きいものがあると私は考察するのだ。
 (決して「経済三流、政治も相変わらず三流」の国に今後成り下がらない政策をお願いしたいものだが。)


 今夜もうすぐ「菅新内閣」が発足するが、有権者である“もの言える”国民が政治を監視していることを常に恐れず意識しつつ、昼間仙谷氏が公言した「仕事大好き新内閣」が真にスタートすることに少しは期待する一国民の原左都子である。 

菅さん、仙谷氏・枝野氏人事はベストチョイス!

2010年06月05日 | 時事論評
 昨日(6月4日)、民主党の菅直人氏が衆参両院本会議において第94代首相に指名された。

 これに先立って民主党代表選挙が党所属議員の投票により行われた訳であるが、この党代表選は事実上“小沢派”と“その他のグループ”の闘いであったとも捉えられる。

 実は私は樽床伸二氏という人物の存在を今回の民主党代表選において初めて知った。 小沢派若手グループの中では人望が厚いという報道であったようだが、さて、如何なる政治的ポリシーの下に代表選に臨もうとしているのか興味を持っていた。 (参考のため、原左都子は元々民主党支持派でもなければ、さらには民主党内の事実上の“小沢氏独裁体制”に対して昨夏以来嫌悪感を抱き続けている部類の人間である。)
 その樽床氏の代表立候補演説であるが、これにはとことん幻滅させられた。 「今は民主党は一丸となるべきである」趣旨の表明を述べたのみで、ご自身の政治家としてのポリシーは元より、政権を担っている民主党が現在直面している危機的状況を如何に乗り越えるのかの党首候補者としての見解にはまったく話が及ばず終いである。
 代表選は党内で行われるとは言え、全国的に生中継で報道されることは候補者本人も周知のはずである。 元々菅氏の圧勝結果になることは本人も予想していたであろうとしても、国民に名を売る滅多にないチャンスを樽床氏は何故に活かさなかったのか??
 結局、小沢氏支持派議員とは小沢氏独裁に抱き込まれその“手厚い加護”の下に日々安穏としているだけの存在なのではないのか?  すなわち言い換えれば、親分である小沢氏とは自らの親分としての利権のみを狙うが故に、自分が寄せ集めた子分達の教育には手薄にならざるを得ないのか?、との疑念を再度抱かされた思いの私である。


 私は決して、今回の民主党代表選に菅氏が選出され首相に指名されたことを喜んでいる訳ではない。
 「原左都子エッセイ集」の前記事に於いても記述済みであるが、政権の失策により国民の支持率を大幅に失っている政権政党が“党首をすげ替える”という手段で政権の座を死守しようとするのは、過去における自民党の失態の繰り返しでしかなく一国民感情としても失望の思いだ。
 ただ、現時点において党首をすげ替える手立てしか打てなくなっている民主党に国政を委ねる以外に今の我が国の政治が進むべき道がないのであれば、せめて民主党には“よりよい政党”に生まれ変わるべく精進して欲しいものである。


 上記のごとく相変わらず危機的状況下にある民主党ではあるが、今回首相に指名された菅氏が「小沢氏にはしばらく静かにしていて欲しい」と公言して、小沢氏の影響力を極力排除する方向性を打ち出しているところのみは大変心強い。

 あれだけの得票数を得た昨夏の衆院選にもかかわらず、鳩山政権がわずか8ヶ月で終焉したその敗因に関しては、この8ヶ月間に渡って「原左都子エッセイ集」の時事論評バックナンバーにおいて分析しつつ既述しているのでそれを参照いただきたい。
 ここで端的に鳩山政権の短期間にしての敗因を結論付けるならば、それは民主党内の“小沢独裁体制”に尽きるのではないかと原左都子は分析している。
 小沢氏崇拝者がこの国において今尚多く存在する所以とは、まさに自民党が過去において展開してきた旧態依然とした政治を、現政界における実質的最高権力者である小沢氏が自己利益追求のために内面に引きずりつつそれを再現しようとしているノスタルジーを支持する一部国民の懐古趣味に他ならないのではないのか?
 この国の「縁故」文化の下で育った弱輩者の中には、周囲に有無を言わさない権力者の傘下でその恩恵に授かることにより、何でもいいから我が身を立てたつもりになりたい輩も存在するのであろう。 それが証拠に、昨夏の衆院選では素人若手議員が小沢氏の縁故のみに頼って大量当選しているし、来る参院選に“人寄せパンダ”として立候補させられている“ヤワラちゃん”とてその大いなる犠牲者と言えるであろう。

 前首相の鳩山由紀夫氏に関しては、その失態故にこの8ヶ月間国民に迷惑をかけ続けたことは重々反省して欲しいものだが、氏の今後の動向に関しては私はさほど懸念していない。
 何故ならば鳩山氏は元々政治家としての資質が疑われるのに加えて、周囲への“影響力”が乏しい人材であると捉えているからだ。 大変失礼な言及ではあるが、この方はもしかしたら世襲故に“レールが敷かれていた”のみの理由で政治家の道を歩んだのではなかろうか? そしてこの方、一般人として生きていたならば至って“いい人”なのではないかと私は想像するのだ。 次期衆院選には立候補しないとも表明しているらしいが、どうか今後は“不倫婚”のあの目立ちたがり屋の奥方と共に一般人としてのセレブ人生を幸せに歩まれますように。
 (余談だが、菅氏の奥方は“硬派”であるらしく、鳩山夫人のようにチャラチャラと表舞台には一切出ないと今から公言しているらしい。 やっぱり、一国の首相とて“内助の功”は重要であろう。 鳩山さんも政治に精通した適切な助言が可能な奥方を選択しておけばもっと長期間首相の座をキープできたであろうに…。 だから貴方はセレブの域を超えられていないと原左都子に分析されているのだ。)


 一方で侮れないのが、やはり小沢氏である。
 もういっそこの際、小沢氏は“小沢フリーク議員”を伴って民主党から離脱して“小沢独裁新党”でも立ち上げたらどうか、とも言いたくなる。 きっと小沢氏の影響力なくしては議員として自立できない輩が沢山くっついて来ると思うよ~。
 小沢グループが民主党から消え去れば、新民主党党首の菅氏も動き易いであろうにねえ。
 そのための人事として、非小沢派の最たる存在である仙谷氏と枝野氏の党要のポジションへの抜粋人事を何としても遂行して欲しい思いの原左都子である。 歯に衣着せず発言できる党内では貴重な存在の長老仙谷氏と、小沢氏の金権問題で真っ先に辞任すべきと堂々と発言した若手枝野氏の民主党内における存在は貴重である。

 菅さん、この際まさに「世襲」も「縁故」もぶった斬って、選挙の票取り対策もやめて、本気で新しい国政を打ち建てましょうよ!   
 この期に及んでまたうだうだしてると直ぐに国民や野党や新党から叩かれるし、単なる参院選の票取り対策では鳩山政権の“二の舞”に終わることは間違いない。 何度も言うけど、貴方達が昨夏新政権を立ち上げて以来失策続きの醜態を晒してくれたお蔭で、国民の国政を見る目や耳が十分に肥えてしまってるのだから。 
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