原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

最近、謝罪会見を見なくなった??

2021年09月02日 | 時事論評
 これ、安倍政権時代からだろうか?

 国家のトップを筆頭として、国家の上層部が自身が起こした不祥事等に関して説明責任を果たさず、国民に対して頭を下げなくなっているように感じる。

 菅首相など安倍氏よりもある意味たちが悪い。
 自己の進退の安全確保以外に、元々政策ポリシーが明確でないのだろうが。
 メモを読まずして何らの主張もできないばかりか、記者からの質問を平然とスルーするあの図太さは一体どうしたことなのだろう。

 衆院解散は先送りするが総裁選は予定通り実施するとのニュース報道を見聞していて、そんなことが我が脳裏に浮かんだ。



 ところで、原左都子は本エッセイ集開設当初の2007.12に、「謝罪会見はもう終わりにしよう」と題するエッセイを公開している。

 以下に、要約引用させていただこう。

 (2007.12の)NHKの「ニュースハイライト」を見ていて(正確には聞いていて)思ったのだが、この国はいつから“頭を下げりゃ済む”と勘違いし始めたのであろうか。
 謝罪会見のオンパレードである。年金問題、食品内容物及び消費期限偽造問題、前次官の汚職問題、薬害C型肝炎訴訟問題…。
 そもそもこの国には、つい最近まで“謝らない”国民性がはびこっていたように私は認識している。政治家を筆頭に、どんな悪戯をはたらいても決して自分の非を認めず、秘書や贈賄側等に責任をなすりつけるのが得意技だったと私は記憶しているのだが。
 それが裏を返したように、ご覧のごとく謝罪会見の数々である。あの頭を下げるパフォーマンスにより、事件は一件落着したと国民をはぐらかせるとでもたくらんでいるのであろうか。 あるいは、マスメディアがあの謝罪会見を仕立てているのであろうか。

 謝罪会見で頭を下げるパフォーマンスをしている面々は、“謝罪”の正確な意味をご存じないものと見受けられる。“謝罪”とは、頭を下げりゃいいということでは決してない。自分の不正や非を認めその責任を取ることなのである。
 国がからんでいる事件、不祥事にこの謝罪会見後の問題未解決が多い。お手盛り立法に諸悪の根源があるのではなかろうか。自分達にとって都合の良いような立法しかなされておらず、立法の監視機関も機能していない現状なのであろう。

 自分の非を認めず謝らないで他人に責任をなすりつけるのも困りものだが、謝罪会見のパフォーマンスで事件が終結したかのごとく見せかけて責任逃れをするのは、考えようによってはより悪質であり、私は許し難いのである。
 今後は、真に非を認め自分の行為の責任を取れる国民性の育成に期待したいものである。また国民も謝罪会見ごときに騙されることなく、常に事件、不祥事後の責任の取り方に監視の目を光らせているべきである。

 (以上、本エッセイ集2007.12公開のバックナンバーの一部を引用したもの。)



 話題を現在に移そう。

 ここ1,2年は“コロナ禍”の影響が大きく、大都会に於いても他人と接する機会が激減している。(あくまで原左都子場合は、の話だが。)
 そのため衝突も起こりにくいと言えるのだが。

 私など、普段たとえば街中で他者とすれ違う際に荷物が相手に当たった(都会の歩道は狭いためこの小衝突が意外と発生します。)ならば、真っ先に謝罪する。(と言えば大袈裟だが、とにかく一言謝る派だ。)
 これをしない派が大多数と私は見ている。
 
 おそらくその現象は、コロナ以前・以後共々さほどの変化は無いのであろう。
 ただ時折、相手から先に謝っていただく場面に出くわすと、私など実に申し訳なく思いつつ、「こちらこそ申し訳ありませんでした。」との言葉がすぐに出る人間でもある。



 話題を表題に戻そう。

 近頃、あの頃(2007年頃)に見た大袈裟な謝罪会見をメディアで見ることはなくなっている。
 確かに、あれ程までに大袈裟な謝罪会見は必要ないとも言えそうだ。

 “頭下げりゃ済む問題じゃない!!” 事案もこの世の中、多々発生していることであろう。



 そんな中での私見だが。

 特に市民間では、とりあえずお互いに“謝る“ことが一応の礼儀であるとして。

 国家を担う組織の失策に関しては。
 それを謝罪せんとする個々の人物の“謝り力”の資質が問われる時代へと変遷している時代に移ろいでいることに鑑みて。

 その能力を今一度育成してはどうだろう。