私は以前より「本」そのものよりも、「本」の“書評”を読むことを好んでいるのだが。😝
朝日新聞2021.06.12付「読書」ページに、“唸る”内容の書評を発見した。
早速、「『多様性』というおめでたさ」と題する 朝井リョウ氏著「正欲」に対する、 ライター 武田砂鉄氏による書評を以下に要約引用させていただこう。
自分のことを良く見せようとする技術が卓越している人が苦手なのだが、書評の冒頭でこう書くことによって、同じような苦手意識を持っている人に共感されたいという欲があるわけで、メッセージを発するという行為には、どうしたって、いくつもの欲がこびりついている。
朝井リョウの作家生活10周年を記念した長編小説は、あらすじの紹介を拒む。(中略)
妻と息子の三人で暮らす検事の寺井、ショッピングモールの寝具売り場で働く桐生、大学の学園祭実行委員の神戸の三人の視点で動いていく物語は、一見何ら関係ないと思いきや、とある秘密をめぐり、やがて、静かに、そして不気味に絡み合っていく… と言ったあらすじは、やはり不要というのか、不毛なのか。
善人を見ると、その人の裏の顔を探りたくなるが、そもそも、人の顔に表や裏などあるのか。 表出しない感情、趣味、そして性欲。 それは裏、なのだろうか。
作品の全体に横たわるのが「多様性」という言葉。
「多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています」
「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど不機嫌を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。 そんな人たちがよく使う言葉たちです」
そういう考えがあってもいいよね、という姿勢は、ありとあらゆる「生」を肯定いているように見える。だが、「生」をコーティングする正しさは、自分を、あるいは誰かを窒息させるのではないか。 傷つけ合わない社会と、傷を見せないようにする社会は大きく異なる。 個人に内在する欲に対して、正誤が測られる時、その基準は誰によるものなのか。 正しさの異常性、異常の正当性、人間が見せたくない部分を抉り出している。
(以上、ライター武田砂鉄氏による 朝井リョウ氏著「正欲」に対する書評の一部を除き、紹介したもの。)
原左都子の、この書評を読んだ感想に入ろう。
冒頭から、私にとっては少し“痛い”のだが。
この私は上京して独り立ちした以降は、おそらく「自分のことを良く見せようとする技術が卓越している人」の部類であろうと自己診断する。
まずは一番目立つであろう“外見を繕うことに精を出す”人間であることには間違いない(現在に至って尚)。
その技術が“卓越している”とまでは決して思っていないが、正直言ってこれになびいてくれる他者が多かったように振り返るし、それにより人生に於いて得をしてきた??とも豪語できそうだ。
そんな人種が“苦手だった”とおっしゃる書評家氏。
そして、その苦手意識に共感されたいという欲はあると認め、メッセージを発するという行為にはいくつもの欲がこびりついていると結論づけられている。
原左都子の私見だが、何だか面倒くさいなあ。
最初っから自分を良く見せることに精進しつつ、自己の欲望を満たしていく道程だって認められてよいはずだ。
「多様性」に関する記述だが、これに関しては武田氏に同意申し上げたい。
私自身もこの「多様性」との言語を都合よく有効利用している立場であると、実感させられる。
上記引用文の繰り返しになるが。
「想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど不機嫌を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。 そんな人たちがよく使う言葉たちです。
そういう考えがあってもいいよね、という姿勢は、ありとあらゆる「生」を肯定いているように見える。 だが、「生」をコーティングする正しさは、自分を、あるいは誰かを窒息させるのではないか。 傷つけ合わない社会と、傷を見せないようにする社会は大きく異なる。 個人に内在する欲に対して、正誤が測られる時、その基準は誰によるものなのか。」
この辺の武田氏の分析力の程は素晴らしい! と拍手申し上げたい。
かと言って、原左都子が今後朝井リョウ氏の著書を読ませていただくか否かは不明だが。
本の書評家とは、面白そうな職業かと一瞬思ったりもさせられる。