原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

そうだ! “音楽の都・ウィーン”へ行こう!!

2019年04月02日 | 旅行・グルメ
 (写真は、今朝ネットにて申し込み、その直後にメールにて送付されてきた“ウィーン個人旅行”のバウチャー類。)


 今の時代、今日思いついて明日海外旅行へ出かけられる“スピード時代”へ移ろいでいる事実をまさに実感させられる。

 いえいえ、この原左都子がまさか明日ウィーンへ旅立とうという訳ではない。
 4、5月の10連休を利用してウィーン旅行をせんとするものでもない。(とにかく混雑を嫌う私だ! 5月の連休中や年末年始に娘を伴い旅に出た経験は皆無だ。)

 娘から今年の夏は7月にまとまった休暇が取れそうだと聞き、それでは何処へ行こうかと話合い始めたのが3月の事だった。
 「私の希望としては、やはり北米か欧州がいいなあ…」 などといつものことながら娘に先立ち“自己中”に走ってしまうのは、いつまでたってもサリバン(私のことだが)の悪い癖なのだが…  

 今年のゴールデンウィークが10連休のせいか、皆様の手元にも旅行関連メールが日々盛沢山届いている事だろう。
 それを眺めつつ、私なりにここもいいがこれも捨てがたい…  などと一人で身勝手に夏旅を想像していたところ。


 決めた! と思えるメールが某旅行会社より届いた。

 それは、欧州の鉄道旅を宣伝した内容だった。 
 鉄道旅もいいなあ、と思いつつも…。
 3年前にイタリア・ローマ~フィレンチェ間を娘と二人で高速鉄道にて移動した旅を思い起こした。
 決してすべての印象が悪かった訳ではないが、特急一等車両にもかかわらず高低差激しい列車3段の階段を重いスーツケースを持って登らねば、列車内へ乗り込めなかった悪印象が根強く残っている。 事前のメール説明文ではポーター氏が親切にスーツケースを運んでくれる、とあったのだが何とこれは大ウソ!  我々の後部で待っていた若きイタリア女性に、さも「早くしてよ!」と叱責されるべく態度をとられ怖い思いをしつつ、娘と二人で全身全霊を込めてそれぞれのスーツケースを持ち上げ、一段30cmほどある階段3段を登って車内へ自力で運んだものだ。 (あの時ほど、日本の新幹線とはバリアフリーが進んでいるとの意味合いで優れていると実感させられたことは今までなかった。)
 いやはや実際に旅に出てみると、主催者提供情報では推し量れない“苦難”に遭遇するものだ。

 鉄道旅は今回は「却下」するとして。


 その旅行会社が提供している旅提案の中に、欧州オーストリア首都「ウィーン」があったのだ!

 これだ!  と娘のサリバンである私がひらめくには時間を要しなかった。
 オーストリアの首都ウィーンは未だ訪れていないものの。 何故ウィーンに私の頭脳がひらめいたのかというと。
 私と娘の共通項が、この“ウィーン”に存在するのだ。

 それは、我が娘が幼少時代から中学2年生まで「クラシックバレエ」を習っていた(習わせていた)事実に理由がある。


 我が家は毎年、年頭にNHKにて放映される「ニューイヤーコンサート」を視聴する趣味がある。

 以下に、本エッセイ集2008.01.02公開の「今年はラデツキーが聴けるか?」と題するバックナンバーの一部を要約引用させていただこう。

 我が家の元旦の夜の恒例行事は、NHKの「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」を聴くことである。 毎年世界的に著名な指揮者が、音楽の都ウィーンの“ウィーン楽友協会大ホール”においてウィーンフィルを指揮するこのニューイヤーコンサートを聴くことなくして、我が家の1年は始まらない。
 個人的には大トリの「ラデツキー行進曲」が大好きである。アンコールのクライマックス「ラデツキー行進曲」で最高に盛り上がり、“ブラボー!!”の歓声が会場中にこだまして幕を閉じるラストシーンを観ては毎年涙を流している。
 ところが、この「ラデツキー行進曲」が演奏されない年があった。2004年12月26日に起きたスマトラ島沖巨大地震による津波のため、30万人にものぼる尊い命が失われた。あの大惨事のあおりを受けて、2005年のニューイヤーコンサートでは「ラデツキー行進曲」が指揮者の判断で犠牲者の冥福を祈るために割愛されてしまったのだ。あの大惨事の直後に、まさか快活な行進曲を演奏して一部の人間が盛り上がる訳にはいかない。それは十分理解しているし不謹慎であることも重々承知ではあるが、「ラデツキー行進曲」を聴けないニューイヤーコンサートほど欲求不満を募られるものはない。
 ニューイヤーコンサート歴代指揮者の中で私の一番のお気に入りは、2001年、2003年のオーストリアのニコラウス・ハノンコート(アーノンクール)氏である。この方、ご年齢にもかかわらずとってもお茶目な指揮者でいらっしゃる。 そしてサービス精神旺盛で客席との一体感がいいのだ。指揮に抑揚があるのが特徴だが、ハノンコート氏の「ラデツキー行進曲」は脳裏に焼きついている。 観客席に向かって観客のために手拍子で指揮をしたのは、未だかつてこの方だけであろう。(途中大幅略。) 
 そして、第二部に入ると毎年バレエも楽しめる。 (大幅略。) 
 毎年恒例の「美しく青きドナウ」では歴代初めての試みとして会場内でダンスが披露された。あの狭い会場のどこで踊るのか興味を持っていたのだが、観客席の通路や階段がダンスの舞台となった。これがまたすばらしく粋な演出であった。
 そしていよいよ大トリの「ラデツキー行進曲」だが、今年のラデツキーはややゆっくり目のテンポであったが無事演奏され、会場のブラボーの歓声の渦の中、今年のニューイヤーコンサートは無事幕を閉じた。 この1年も何とか平和に経緯して、来年のニューイヤーコンサートでも「ラデツキー行進曲」が演奏されることを祈りつつ、本年は第一本目の当記事から「原左都子エッセイ集」を開幕しよう。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 我が娘とサリバン母との「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」に於ける共通項とは。

 これぞ、コンサート大トリのヨハン・シュトラウス1世作曲の「ラデツキー行進曲」である。
 NHKテレビにてニューイヤーコンサートの大トリでこの楽曲が演奏されると、必ずや幼き我が娘がバレエ発表会会場にて踊ったこの楽曲を踊ってくれたものだ。 (まさか20代後半に達している今に至っては自発的に踊ろうとはしないが)、酔っ払ったサリバン母の私が踊ろうとすると一緒に踊ってくれたりもする。

 この夏は是非共そんな娘と共に、毎年新年に「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」が開催されるウィーン楽友協会大ホールを訪れたいと欲しての“ウィーン旅行”申し込みである。


 今回のエッセイ最後に、ウィキペディア情報より「ウィーン」項目の一部を紹介しておこう。

 ウィーン(標準独: Wien〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語: Wean〈ヴェアン〉、仏: Vienne〈ヴィエンヌ〉、英: Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。 2017年1月1日時点の人口は186万7582人。 都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。 位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。 第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。 クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。