原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

染色体異常胎児にも輝ける未来が待っている

2012年04月18日 | 時事論評
 正直に話そう。
 この原左都子も過去において、(もしも私が我が子を産んだ時代に既に現在のごとく「出生前診断」が一般的であったならば、その診断を受ける事を欲したかもしれない…)とふとした瞬間に魔が差す時期があった。
 我が子を仮死状態にて出産後母として過酷な育児の日々を余儀なくされ、まともな思考が不能だった頃の話である。

 その後我が子の“お抱え家庭教師”として共に歩み続け、娘が想像をはるかに超えて順調に成長してくれている今現在に至っては、決して、決して、そんな馬鹿げた発想が我が脳裏に霞む隙間もない。
 この子なくして私の人格は成り立たない程に娘の存在感は大きく、我が人生に日々夢と希望を与え続けてくれている。


 朝日新聞4月5日付朝刊の一面に 「胎児異常が理由の中絶倍増 10年前との比較」 と題する記事を発見した。
 早速、要約して以下に紹介しよう。

 出生前診断で(ダウン症、水頭症等)胎児の異常が分かったことを理由にした中絶が2005年~09年の5年間で少なくとも6千件と推定され、10年前の同時期より倍増していることが日本産婦人科医会の調査でわかった。 高齢出産の増加や簡易な遺伝子検査法の登場で、十分な説明を受けずに中絶を選ぶ夫婦が増える可能性もあるとして上記医会は遺伝子検査の指針に乗り出した。
 我が国では70年代から胎児の異常を調べる羊水検査やエコー検査、90年代から母体血清マーカー検査が広がった。 35歳以上の高齢出産の増加で出生前診断を受ける人は増えている。妊娠健診で使われるエコーも精度が上がり、染色体異常の可能性を示す胎児の奇形等が分析可能となった。 08年現在全妊婦の2,9%にあたる延べ約3万人が診断を受けている。
 米国では既にもっと高い精度でダウン症か否かを診断できる血液検査も始まっており、日本への商業ベースでの導入も可能性として高い。 このため、日本産婦人科学会は、医師向けに遺伝子検査の指針を作ることを決めた。

 引き続き上記朝日新聞記事より「出生前診断」の定義についての記述を、(元医学関係者である原左都子が一般人にも分かりやすく補足しつつ)引用しよう。
 出生前診断とは胎児の異常を調べる検査であるが、その種類としてエコー診断や染色体異常の確率を示す母体血清マーカー検査、羊水検査等がある。 エコーや血液検査は人体への負担がほとんどない反面、その検査により出た結果とは不正確であるのが特徴だ。 たとえ「陽性」(異常あり)との結果が出たとしても、実際は胎児に異常がない可能性もある。 さらなる確定判断として“羊水検査”が必要となるが、この検査を受ける事により0,5%の確率で母体に流産を招く危険性がある。
 現在母体保護法においては胎児の異常を中絶の理由として認めていないため、母体の健康維持などの拡大解釈で胎児が中絶により命を絶たれているのが現実だ。
 (以上、朝日新聞記事より引用)


 次に、上記朝日新聞記事を受けて寄せられたと思しき朝日新聞「声」欄の投書を以下にまとめて紹介しよう。 いずれもダウン症児を授かり、立派に育て上げつつある2人のお母様よりの投稿である。

 毎年春に桜を見ると、20年前の今頃ダウン症で生まれてきた我が子のことを思い出す。 病院の庭の満開の桜を見ながら私は涙を落とした。 あれから20年。いろいろ辛い事や大変な事もあったが我が子は愛嬌たっぷりに育った。 何より私自身がいろんな人と出会い成長できた。  胎児に異常があるかもしれないと中絶する人が増えているらしい。 そこにはいろんな考えがあるだろうが、障害児を持つことは悪いことばかりではないと桜を見ながら思える。

 現在13歳の長男はダウン症。 もし長男を妊娠した当時、障害に対して正しい知識や理解がない私が、生まれて来た子に障害があると言われていたならどうしたであろうか。 今穏やかに年を重ねる長男がそばにいるから「産んでよかった。何者にも代えられない大切な我が子」と言える。 生まれてくる子の人生はその子自身のもの。障害のある子と共に生きる家族は、その子から多くの幸せを与えられると感じている。 簡単な出生前判断で一つの大切な命が摘み取られる事がないよう関係者の慎重な対応を切に願う。


 原左都子の私論に入ろう。
 
 「出生前診断」に関しては、優性学における生命選別上必須との観点も否めないであろう。 人間においては胎児の段階等早期に生命の優性を判断可能な方が、種の存続上この世の発展が望めるとの見解が存在しても不思議ではない。 その意味合いもあって、我が国でも「出生前診断」の検査法において医学的進化(と表現するべきかは疑問が残るが)を遂げている現状と解するべきなのかもしれない。
 
 我が国家財政難の観点から考察するならば、これ程までに我が国の政治経済力が衰退した現状において、「障害児」にかかる国家予算の程は膨大なものがあろう。 
 米国に於いては、上記のごとく「出生前診断」が進化を遂げ既に商業ベースでそれが展開されている様子だ。
 いつの時代も政権政党は「社会福祉政策」を公約として高々と掲げるものだが、その実、歳費を食い潰す弱者の存在を如何に捉えているのかは永遠に大いなる疑問である。
 実際問題、我が国の法的側面においては上記のごとく、現在母体保護法上胎児の異常を中絶の理由として認めていないにもかかわらず、現行においては「経済的理由」を緩やかに解釈・運用して、いわゆる「選択的」人工妊娠中絶が施行されている現実でもあるし、その現状を追認しているのが司法界の多数派意見であるようだ。


 原左都子の娘の場合、出産時のダメージの程が軽微だった事が幸いして(失礼な表現であることは重々承知の上、分かり易く表現するならば)、おそらくダウン症児よりも育てるのがずっと容易だったことであろう。
 それにしても、上記ダウン症児のお母様達が新聞に投稿された文章が我が身に重なり身に滲みる思いである。

 産んで良かった。 本当に良かった。
 強気の原左都子とて今はそれしか言えない立場だ。

 それでも、障害児を持つことを否みせっかく授かった胎児の「出生前診断」を受けようと意図している親達の様々な立場や思いも理解可能な私から、少しアドバイスをしよう。

 その子をどのような考えで産もうと志したのだろうか?
 もしも我が子が欲しいとの意欲が旺盛だったのならば、絶対に生むべきである。

 子どもが欲しい、欲しくないの如何にかかわらず、どの親にとっても産んだ子どもを育てる事は過酷な現実であろう。
 それにしても娘を(ある程度名の通った)4年制大学に今春進学させたばかりの原左都子自身の現在の実感としては、我が子とは今後早かれ遅かれ老化の道筋を歩まざるを得ない親に、生きる希望と夢を与えてくれる対象として存在し続けるであろう事実には間違いない。