原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「強者」と「弱者」の線引き

2011年12月10日 | その他オピニオン
 NHKの連続テレビ小説「カーネーション」が面白い。
 何と言っても主人公 小原糸子 の洋装店店主としての快進撃が痛快である。

 ここ数日は亭主の出征と同時に表沙汰になった“浮気問題”に主人公糸子の心が揺れ動く等、ストーリー展開がやや複雑となり物語の方向性が見定まらない状況だ。
 それにしても今回のNHK連続テレビ小説「カーネーション」は、主人公糸子役の 女優・尾野真千子氏の勢い溢れる演技が大きく視聴率を稼いでいると言えるのではあるまいか。


 そんな「カーネーション」であるが、原左都子が特にお気に入りだった場面が幾つかある。

 その一つは糸子が「パッチ屋」に新入り直後にしごかれた場面であるが、あれなど、新入り(新入社員)の心がけを“正しく”指導するものと絶賛した私だ。 
 (新入社員時代の私も含めての話だが)そもそも新人とは世間知らずで考えが甘いものである。 その甘い考えをまず“叩き直す”ことから新人教育とは始まるべきなのだ。 もちろん新人の個性が多様である以上その“叩き直し方”にも多様性があって当然だが、「パッチ屋」に於いて成された“新人教育”には十分な合理性があったし、それに耐えて成長を遂げた糸子も素晴らしかった。

 次なる糸子の快進撃は “デパート女性店員の洋装制服受注ゲット”事件である。
 当時の糸子にとっての“大規模プロジェクト”であろうこの課題が叶うとするならば実にミラクル世界であろうが、そう簡単には実現不可能である事には間違いない。 さて、糸子がこの難題をどうやってクリアするべくシナリオ展開がなされるのだろうと興味津々の私だった。 下手な描き方をして安易に糸子が成功をゲットすることだけは御免被りたく思ったものだ。
 そうしたところ、糸子なりに紆余曲折しつつも“単なる一時のサクセスストーリー”としてこの場面が終結するのではなく、その後糸子が再び仕事をなくしてしばらくあえいだ姿に現実味があって、常に厳しい視線を投げかけている私にも受け入れられたのである。

 後もう一つ原左都子にとって印象深いのは、岸和田の場末の踊り子に過ぎない“さえ”がたまたま知り合った糸子にイブニングドレスを発注した場面である。 
 この場面においては、既に年老いた母方の富豪の祖父母の描き方にも現実味があった。 体調を崩した祖母から何とかもらってきたイブニングドレスを元に作ったドレスが“さえ”役の 女優・黒谷友香氏 によく似合って実に美しかったのも印象的である。


 年末にさしかかろうとしている現在、連続テレビ小説「カーネーション」は上記のごとく昭和10年代後半の戦争時代へと突入した。

 主人公糸子の幼馴染である勘介(“かんすけ”の漢字が間違っているかもしれない点お詫びします)が早くも出征して、何年か後に既に帰宅しているとの現在のドラマ設定である。
 その勘介が戦争体験を通して受けた痛手により精神的に壊滅状態なのだ。 それを励まそうとした糸子であるが、その励まし方に大いなる“勘違い”があったようで勘介は今まで以上に再起不能状態を彷徨う事と相成った…

 糸子はそれを勘介の母親から痛恨の極みで責められることとなる。
 勘介の母親が糸子に向かって曰く、「あんたのように成功ばかりを繰り返している“強者”には、うちの勘介のごとくの“弱者”の気持ちは到底分からない! 戦争で精神を痛めつけられた勘介を支えるべく家庭内で努力をしてきて少しは明るい兆しも見えたのに、あんたの心無い“勘違いの励まし”によって勘介は再びどん底に突き落とされてしまった。 お願いだから、今後は勘介はじめ我が家には一切近づかないで欲しい」

 この勘介の母親からの切実な訴え(元ミュージシャンでもあられる濱田マリ氏演じるこの場面はド迫力だったものだ)をテレビドラマの中で見聞した原左都子は、一瞬我が身にこの言葉を投げつけられたかの感情を抱いのだ。
 もちろん勘介の母親の思いは十分過ぎるぐらいに理解できるし、戦時中の当時の時代背景を慮ると、私が今生きている現実にこの言葉を照らし合わせることにそもそも大いなる無理があるのかもしれない。


 それでも原左都子の脳裏に浮かんだのは、一般庶民社会おける 「強者」「弱者」の線引きって一体何なのだろう? との感覚である。

 端から見て頑張り続けているように映る人は皆 「強者」 だって???
 反面、上記の勘介のごとく戦争にめげて帰国して塞いでいる男は 「弱者」なのか??
 で、「強者」はいつも「弱者」に“余計な言動をしないよう”配慮しつつ神経を使って生きなきゃいけないんだと!?!

 それにしても、小原糸子さんのその後の対応も素晴らしかったのだ。
 勘介のお兄ちゃんの嫁より、「昨日義母が失礼な事を言って堪忍な。 義母には悪気がないから許してやって」と訴えられて、糸子は以下のごとくに返したのだ。
 「私は私で頑張ってる。 それを責められても困る。 しばらく勘介とその一家には近づかないようには配慮する…」
 ここで原左都子から一言小原糸子を弁護すると、実に「一生懸命頑張っている事を端から責められても」逆の立場として大いに困惑するのである…


 このエッセイの最後に、表題に掲げた “「強者」と「弱者」の線引き” について語らせてもらうことにしよう。
 バックナンバーで幾度も述べているが、現在は「強者」と「弱者」の線引きが実に困難な時代背景である事には間違いないであろう。

 例えば電車の中で“腐った足”を晒して眠りこけている人物は真正弱者ではあるまいか。 役所とはその種の人物を優先して助ける事を本来の任務とするべきだ。 “生活保護”の届出をする能力のある人種をすぐさま弱者として支援するよりも、この種の役所に届出を出せない真正弱者を早期に救って欲しい思いだ。

 あるいは、ネット上で著名有名人の歪んだ論説を叩く庶民の掲示板の“つぶやき”等を殊更取り上げ、これは“煩悩”だと言って少しばかりの知名度を利用して庶民をいたぶって“仕返し”をするがごとく行動に出ることこそが、一体何なのであろうか???

 原左都子は“真の弱者”こそが救われるべきとのポリシーに揺ぎ無い思いがある。

 それに対して後者(ネット上で著名人が叩かれている現状)に関しては、どちらが「強者」でどちらが「弱者」なのかの分別がつなかいでいるのだが、どうであろうか? 
 
 著名人とてネット上で叩かれれば「弱者」に成り下がることを庶民は心得て言動するべきだと??
 それ程までにキャパがない事でよくぞまあ著名人と成り上がったことだと、庶民としてはせせら笑うしか手立てがないのではなかろうか???

 ここは「カーネーション」の小原糸子さんの生き様でも眺めて、もっと自分自身に真の実力を養いつつ今後現世に生き延びることだね~~。