黄昏人生徒然日暮らし

人生黄昏時になり今を大切に、趣味の仏像彫刻・歌声・写真・散策・読書・日記・フォトチャンネルを徒然なるままに掲載します。

読書「ふいに吹く風」より心に残った言葉

2018-06-03 | 読書
 
南木圭士著 文藝春秋
 
 
医師であり作家でもある南木佳士氏は一番好きな作家で、心が疲れたときに読み返す作品が多いのですが、この中でも読むたびに目頭が熱くなる文章を引用(太字)掲載しコメントしました。


医者になってから思わず泣いてしまったことが、二回だけある。肺癌の末期のお爺さんがいて、お婆さんが付き添っていた。息子達はみな東京にでており、お爺さんが亡くなれば、お婆さんは長男に引き取られて東京に行くことになっていた。生まれ、育ち、嫁いで子供達を成人させたこの町を離れるのは、お婆さんにとってはなにより辛いことだった。お爺さんさえ生きていれば町を離れなくてもすむ。お婆さんは必死に看病した。

初秋の朝、東京から駆けつけた息子達に看取られて、お爺さんは静かに呼吸をとめた。七階の病室の窓から下をみるとお爺さんの今日の着替えを家に取りに行っていたお婆さんが、風呂敷包みを背にしょって裏道を走っていた。腰を曲げ、おぼつかない足取りで裏口に急ぐその姿に、それまで涙を見せなかった息子達が声を上げて泣き出した。
 
死は生きるものたちにとってのみ意味を持つ。私は自然に湧いてくる涙を眼鏡の下に隠しながら、とても大きな、そして悲しい発見をしたような気がした。

おじいさんの死によって住み慣れた町を離れねばならなくなる。それ以上に、二人が夫婦になってからの長い間に培われた共有の思い出を語り合い、確認しあう者を亡くした時点から急に色あせたものになってしまう。
それは、お婆さんにとってこの上なく悲しいことである。息子達よりもお婆さんの悲しみのほうが深いとしたら、それは共有した思い出の量と質の差なのだ。

私は、この日から末期癌の患者の家族に予後を説明する時に、患者と最も多くの思い出を共有している人を選ぶようになった。それが、必ずしも夫が患者であるときの妻であったり、息子が患者であるときの父親だったりしない場合があることを知った。
 

(コメント)患者とお婆さんや家族のことまで細かく観察しており優しさにあふれておりお婆さんと家族の目線で淡々と描かれていますが、何回読んでもお婆さんの描写には涙腺が緩んでしまい文章が霞んでしまいます。
作者は医師兼小説家ですが、多くの死に立ち会ったことで本人はパニック障害などで長年苦しんだので患者や家族目線で考え行動するようになったので、お婆さんへの心情や優しさが溢れ出ています。

「患者と最も多くの思い出を共有している人は必ずしも夫でも妻でも父親でもない場合があるある」とのくだりは納得できます、現実は形だけの家族もあり、親の財産目当てで世間体のみを気にし人前のみ良い家族を演じている偽善者も多いのが現実です。

我が家では娘たちは嫁に出したので老夫婦だけの高齢世帯ですので、頼りになるのは配偶者だけなので、お婆さんを自分や妻に置き換えて考えてしまい、あと何年後の事なのかなと切実に感じますので他人事ではありません、まさに諸行無常ですね、残された時間を今この瞬間大切に生きる他ないですね、「今生」。

体のあっちこっちに痛みや異常が増えて診察をうけても年のせいと言われる現状ですが、趣味を楽しむ・運動・笑いを忘れずに健康第一に気持ちだけは若くありたいものです。