ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(カワイイ(kawaii)考1)

2015-04-27 23:45:03 | babymetal
BABYMETALの読み方が、「ベイビーメタル」ではなく「ベビーメタル」であるのは、「ヘヴィメタル」と掛っているからだ、と説明されるのだが、このへんの定義の、ダーク・ゾーンにも、BABYMETALの「奇跡」のひとつが潜んでいるような気がする。
「奇跡」とは、偶然でありながら運命を決定づける必然的な出来事のこと、であるならば、BABYMETALの道のりには「奇跡」が実に数多く埋まっている。
(数多いのなら、もはや「奇跡」とは言えないのかもしれないが、そうとしか言いようのない物語がいたるところにある、というのがファンの実感だろう。まあ、ファンとは本来そうした思いを抱いてしまう存在なのだろうけれど、それにしても…である)

BABYMETALのBABYとは、「新しいメタルの誕生を意味する」等と言われるが、それは「ベイビー」ではなくて「ベビー」だというこだわりの説明にはならない。「ベイビーメタル」でも、「新しいメタルの誕生」の意味には変わりなく、むしろ、その定義は「ベイビー」の方がより鮮明になるのではないか。
(だいいち、誕生児の「BABY」であれば、正式にはやはり「ベイビー」と発音すべきであって、それを「ベビー」だとは強弁できないはずだろうし。)

とすれば、BABYMETALを「ベビーメタル」と読むのは、それが、<BABY=ヘヴィ/ベビー>という次元の異なる二重性を同時性として感じとる、という、いわば「掛詞(かけことば)」だからだ、ということになるのではないか。
そして、名は体を表す、という言葉のとおり、この<BABY=ヘヴィ/ベビー>という「掛詞」性とは、まさにBABYMETALそのものの存在の本質であり、それこそが、BABYMETAL(とりわけYUI・MOA)が体現している「カワイイ(kawaii)」なのではないか。

もう少し、ときほぐしてみよう。

(前回も触れたが)どちらも衝撃的である、BABYMETALとピンクレディーの「振り」の質の違い。
それは、この<BABY=ヘヴィ/ベビー>の有無ということでもある。
単に演者が幼いか大人かということではなく、ベビーであると同時にヘヴィであるという二重性を持つ、ということ。しかも同時に、そのヘヴィとは、すでに体現されてきた既存のヘヴィメタルのヘヴィではなく、ベビーとの二重性を持つ新たな質のヘヴィであること。
その新たなヘヴィこそが、BABYMETALの体現している、革新的な「カワイイ(kawaii)」なのではないのか。

革新的な「カワイイ(kawaii)」って、何?と問われたら、YUI・MOAを見よ、といえば足りる。あのキレキレの「舞踊」こそが、<BABY=ヘヴィ/ベビー>である「カワイイ(kawaii)」の意味の内実だ。
言葉の意味とは時代とともに変遷する。
「カワイイ(kawaii)」という言葉は、BABYMETALの出現によって、新たな領域へと意味の射程を広げた、とも言えるのではないか。

ただし、新たな領域へ進んだ、といいながら、BABYMETALにおける「カワイイ(kawaii)」は、古語から連なる本来の意義も色濃く保っているように思われる。日本語の「かわいい」とは、本来、表面的な「プリティ」の意味ではなく、見ていて胸がしめつけられる・涙が出てくる、そんな気持ちこそが本義だったのだ。
ちなみに、岩波古語辞典の訳語には「可憐」の語も挙げられている。「可憐」の進化形としての「カワイイ(kawaii)」とは、まさにBABYMETALそのものではないか。

そして、問題はむしろここからである。

ロックの精神とは、本質的に、反抗・反逆、であろう。そして、ヘヴィ・メタルとは、そうしたロックの精神を、音、歌詞、ビジュアル等において、際立った激しさ・重さとして先鋭的に具現化し表現する音楽であるはずだ。

そうした見方において、<BABY=ヘヴィ/ベビー>メタルとは何なのか、を考えると、この「掛詞」性は、ヘヴィメタルの文脈のうえでこそ極めて反抗的・反逆的である、ことがわかる。
つまり、ポップミュージックならばともかく、ヘヴィメタルにおいて<ベビー>であることは、”ありえない(ありえなかった)”過激さ、すなわち際立った<ヘヴィ>ネスを持つ、のだ。
仮に、アイドルという言葉を使うならば(アイドルとは何か、も、考えなければならない最大のテーマのひとつだが)、アイドル界においては当たり前であるアイドルであることが、ヘヴィメタルにおいては、そのヘヴィメタルの既存の存在様態に対する反抗的・反逆的なありようとなる。
多くのメタルヘッズたちが、BABYMETALに遭遇した際に、「なんじゃこりゃ!」感や拒否反応、さらには「メタルをなめるな」という怒りを引き起こされる、ということは、それだけ<BABY=ヘヴィ/ベビー>が、ヘヴィメタルの文脈のうえでは反抗的・反逆的だ、ということの証である。

そうしたことを反省的に感じることができた(実態としては、BABYMETALの「演」奏に、完膚なきまでに打ちのめされ、ハートを鷲掴みにされた)メタルヘッズが、BABYMETALを(今まで見たことのないとんでもないカタチだからこそ)まぎれもなくヘヴィメタルだ、と認める、というのがBABYMETALのヘヴィメタルの文脈のうえでの受容のされ方ではないだろうか。
逆に言えば、「オーセンティックなヘヴィメタル」という概念にしがみついていた自分自身とは、まるで「由緒正しい不良らしい不良」に憧れる中学生のよう(そこにあるのは真の反抗・反逆ではなく、既存の<らしさ>への耽溺だ)でしかなかったのではないか、と、いわば自家中毒に陥っていた自分に気づく、ということだ。
そんな価値観の変容を、<BABY=ヘヴィ/ベビー>メタルという挑発的な存在は、メタルヘッズに突きつけてくるのだ。
<BABY=ヘヴィ/ベビー>の「掛詞」的二重性の「カワイイ(kawaii)」とは、そうした破壊力を持っている。


そして、さらに、「BABY」を「ベイビー」ではなく「ベビー」と読むのが、<日本語的>読み方であるならば、ここにも、BABYMETALの最大の本質のひとつが露呈しているはずだ。
もちろん、単に、「演」者の国籍とかの話ではない。
こんな<ヘヴィ/ベビー>メタルなんてものは、日本でしか誕生しえなかった、という意味で、だ。

つまり、『メタル・レボリューション』に至る前2作『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』『グローバル・メタル』でも、たびたび触れられていた、ヘヴィメタルの受容の、日本の特殊性に関わるポイントだ。

前述したような、過激な反体制・抵抗というヘヴィ・メタル音楽の性質は、日本においては稀薄である。日本人は、そうしたスタイルも込みで、「音楽」としてヘヴィメタルを楽しんでいる。これは、僕たちにはあまりにも当たり前過ぎて自覚できないのだが、ぜひ機会があれば、特に、『グローバル・メタル』を観ていただきたい。僕たち日本でのヘヴィメタルとは、世界の多くのメタルヘッズたちにとってのヘヴィメタル(マイノリティである自分たちにとっての反抗・反逆的な生き方のシンボルでもある)とは異なるのだな、ということが実感できるはずである。

『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』の特典映像のなかに、インタビューを受けていた二井原実が、「日本では、ミュージックを「音楽」って書くんだ。」と、サム・ダンたちに向けてわざわざ紙に書いて見せる、という、たいへん印象的な場面がある。
日本における、善と悪の対立とは?、邪悪なるものとは?、と質問されてのことである。
もちろん、そうした質問を二井原に向けて発すること自体、それがサム・ダンたちにとっては、ヘヴィメタルの本質に関わっているということだ。
そして、二井原実がいみじくも答えたように、僕たちにとっては、そうした邪悪さも含めたスタイルを持つものとして、ヘヴィメタルという「音楽」を楽しむ。それが日本におけるヘヴィメタルの受容の実態だ。

それは、悪く言えば、高度資本主義化した(古い言葉でいえば「エコノミック・アニマル」的な)消費であろう。宗教的な実感など全くないまま、「ヘヴン・アンド・ヘル」等と声を合わせて歌い、メロイック・サインを掲げる。
ある意味、「軽薄な消費」の対象のひとつとしてヘヴィメタルがある、という側面は今も昔も変わってはいないだろう(端的に言えば、カッコいい音楽、としてヘヴィメタルを受容しているのだ)。

しかし、だからこそ、日本から、BABYMETALという、異形のヘヴィメタルが出現しえたのだ。

「カワイイ(kawaii)」という、既存のヘヴィメタルのまるで対極にあるものを、観るものが納得せざるをえない超絶的な高品質で、激しく・美しく・楽しく「演」奏してみせる。

これほど凶悪なものはない
という意味で「カワイイは正義」なのである。

それが、ヘヴィメタルにおける「正義」なのだ。






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