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三本脚で立つ~思考の経路

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BABYMETAL探究(BABYMETALと『考える身体』②)

2016-11-13 23:22:08 | babymetal
さあ、WEMBLEY映像盤リリースまで、いよいよあと1週間余りになった。
「今回はないのかな・・・」と思っていたトレーラーも、公開。
ライヴアルバム・リリース告知、WOWOWでは元旦の夜の「BLACK NIGHT」ライヴ放映が判明、と、怒濤の情報ラッシュ。

いやあ、高まってきた!

先日の、「Youは何しに日本へ?」もよかった(ですよね?)。
テレビ放映は観られなかったけれど、WEB上の動画、続けて3回観てしまった。

何より、ベッキーさんの感激ぶりがよかった。
ライヴ後の、「We are!」の気合いったら。

もしも、初めてこの番組でBABYMETALなるもの知った方がいたならば、「わ、何か知らんけど、BABYMETALのライヴって、凄そうだな、楽しそうだな!」と思ってもらえたのではないか。
(実際、まったくもってそう!!!、なのだが)。

まがうことなく、BABYMETALは世界最高峰のライヴユニットの一つである。
そして、それは、彼女たちが(楽器と歌だけのバンドではなく)メタルダンスユニットである所為で(も)あるのだ。

そう言えば、去る9月19日、「RED NIGHT」の開演前のドームの前を、だんだん強くなる雨の下、傘をさしながら娘とうろうろしている時に、リーさんも、エマ&ジェスも、見かけたのだった。
その時には、「あ、23年さんだ!やっぱ来たんか」「わお、エマ&ジェスもいるやん!やっぱ揃って来るんやなあ」なんて、有名人に遭遇した昂揚感を感じるだけだったのだが、今回の番組を観ながら改めて、BABYMETALのためだけに(たいへんなお金、時間、手間をかけて)日本を訪れたその熱意・行動力に胸を打たれたし、

「日本でBABYMETALのライヴを観たい」

という切望を、BABYMETALは(例えば公式MV「Road of Resistance」等のライヴ映像によって)世界中のファンに与えているのだなあ、ということに、改めて深い感慨を抱いたのだった。

その切望の内実とは、単にBABYMETALの母国、ホーム、いわば聖地に巡礼したいという思いだけではなく、
”あの”セットでのBABYMETALのライヴを体験したい」、
そして「”あの”観客たちの中で一緒にライヴを体験したい」という思いだろう。

We are BABYMETAL!

ネタ元のX(Japan)のライヴとも、この言葉の意味(機能)は、また別の次元のものになっているのかもしれない。
この言葉は、メタルダンスユニットBABYMETALの、ライヴ会場の熱狂の内実を明かしている。

『考える身体』を引こう。

舞踊は、文学や美術や音楽と決定的に違っている。舞踊は、その日、その場に、踊るものと見るものとがともにあって初めて成立する出来事、ダンサーの生身の身体によって担われる出来事なのである。それは、語の本来的な意味における時間芸術、時々刻々と過ぎ去ってゆく生命の燃焼そのものが作品となる芸術なのだ。つまり、初めから消え去ることを条件づけられている芸術なのである。
上演されないかぎり舞踊は存在しない。そしてその上演は、その日、その場の体験の記憶としてしか残らない。むろんいまではフィルムやビデオがあるが、しかしそれさえも上演そのものではない。上演を思い出させるよすがにすぎないのだ。衣装や美術、写真にしてさえも、そうだ。まさにそれゆえに、バレエ・リュスは、その活動の最中においてさえ、ひとつの最中においてさえ、ひとつの伝説として語られたのである。
(略)
舞踊はつねに現在にかかわる芸術、現在でしかありえない芸術なのだ。逆にいえば、人間にとって現在とは何かを実感させるほとんど唯一の芸術なのである。(略)人間はつねに現在のただなかにあるのであって、舞踊はそのことの確証にほかならないのだ。舞踊は、現在を強め、現在を高める、あたかも太古の儀式がそうであったように。(略)
文学も音楽も絵画も、ほんとうは舞踊と同じように、事件として、出来事として、その日、その場の体験として、享受されるほかないのだ。すなわち身体という場、刻一刻と過ぎ去ってゆく時間のただなかにある身体という場において、享受されるほかないのだ。


MCも、アンコールもない、というBABYMETALの(いつでも必ず、ではないが)ライヴ・スタイル。
これが、「事件」性を高めている、ことは間違いない。
その「事件」を体験・体感しに、僕たちはBABYMETALのライヴ会場へと馳せ参じるのである。

「RED NIGHT」と「BLACK NIGHT」(武道館公演ではなく、もちろん東京ドームの方)との「2日間でダブりなし」という縛りも、「事件」性をとんでもなく高めていた。

台風接近の最中、娘とともに参加した2016年9月19日の「RED NIGHT」を、僕は死ぬまで忘れないだろう(詳細な記憶はすでに薄れているのだが・・・)。

そうそう、『BURRN!』誌だ。皆さんは、買われただろうか?
僕は、いったん立ち読みし、「わ、これ、間接的なBABYMETALのライヴレポートやん」ということを確認したうえで、翌日購入した。実に、数年ぶりの『BURRN!』誌購入であったのだが、
とりわけ、次の記述が、僕に『BURRN!』を買わせたのだ。これは、買わなきゃ!と思わせたのだ。
(みなさんご承知の箇所だと思うので、核心の箇所のみ引く)

―ライヴ終了後にメンバーと会う時は、ミュージシャンとして会うのですか?それとも半分ファンとして会うのですか?
F:(略)それを持って行ったら、MOAMETALが「チーズ?モッツァレラ?」と言ったんで、「違う。モッツァレラはイタリアだ」「じゃあ、カマンベール?」「カマンベールに似てるけど、まぁ食べてごらんよ」といったやり取りをした。初日は次の日のリハーサルがあったから食べなかったんじゃないかな。でも、2日目にまた会った時に、「チーズは明日食べられるね」と僕が言ったら「ううん、今日よ!」と言っていた。あの後で食べてくれたんだろうな。(略)


・・・これ、鳥肌が立った。

考えてみれば当たり前のことなのだが、「RED NIGHT」の後で(ライヴを堪能した僕が、京都に帰る新幹線の中で娘と談笑しながらほっこりとビールを飲んだりしている時に)、翌日の「BLACK NIGHT」のリハーサルをやっていたのだ!

(もちろん、『PMC』のインタビューでSU-METAL、YUIMETALが答えているように、それまに何度も何度も「リハーサルを重ねて、タイミングを合わせて」「慣れるまで体に染み込むように何度も同じことを」繰り返してはいたのだろうが)

2日間でダブりなし、というのは、そういうことだ。翌日は、まったく新たな段取りの90分なのだから。
・・・しかも、東京ドーム5万5千人、しかも、BABYMETALのライヴの命綱とも言える、モッシュもWODも封印して、という、正真正銘、「道なき道を切り拓く」、過酷な2日間だったのだ。この「事件」性、このチャレンジングな姿勢、これぞBABYMETALである。

その、封印されたモッシュやWODの代わりになったのが、会場全体の合唱、光るコルセット、そして巨大円形ステージ、だ。
つまり、「東京ドーム」という会場全体を、「We are BABYMETAL!」実現のための仕掛けとして有機的に見事に活用しきったのが、東京ドーム2Daysだったのだ。

『考える身体』にこんな記述もある。BABYMETALを考える上で、じつに示唆に富んでいると思うので、長文を引用する。

残念なことに、舞踊と建築は関連して語られることが必ずしも多くはない。けれど、考えてみればすぐに分かることなのだが、この二つはともに人類の歴史と同じほどに古い表現の様式なのだ。人の住みかが意味の濃い空間であったとすれば、その意味の濃さを人は何らかのまじないの所作によって確認しなければならなかった。上棟式など、いまでも執り行われているが、いうまでもなくこれは、その儀式の核心に舞踊を秘めている。というより、舞踊とは本来そういうものだったのである。

むろん、人は、自分たちの住みか以上に、まず神の住みかに関心を持っただろう。そして、神の住みかは何よりもまず舞踊を要求した。狩りの仕草を、刈り入れの仕草を、その立ち居振る舞いの優雅な反復を要求したのである。神殿も、また人家も、人々の、宇宙への、森羅万象への畏敬の念の、その体系の象徴としてあるほかなかったからである。言葉は身振りとともにあり、両者はいま考えられている以上に密接に結びついていた。祈祷師は詩人であり、詩人は舞踊手であり、舞踊教師だった。文字の登場する以前は、言葉と身振りと建築物は、おそらくほとんど同じものと見なされていたと考えていい。いずれも、森羅万象に呼応する意味として同等であったからだ。


BABYMETALが楽器を演奏する「いわゆるバンド」であれば、FOX GOD という”設定”はただのギミックでしかないが、メタルダンスユニットBABYMETALにおいては、単なるギミックではない。

僕たちがステージ上の3人の舞踊に、表情に、聖なるもの・崇高なものを感じ、胸を打たれ、涙を流す。
それは、楽器を弾くバンドではなくメタルダンスユニットだから、でもあるのだ。
舞踊(ダンス)とは、それほどに凄まじい意味を持った「演」奏なのである。

僕は、もはや、<メタルを司る神FOX GODによって選ばれた3人がメタルで世界を一つにするという使命を背負って道なき道を切り開きながら進んでいる>というストーリーを、単なる「設定」だとは感じていない。
まさにそのストーリーの中に自分がいることを認め、楽しみ、出来る範囲で献身しようとしているのだ。
そしてそのことに(大げさな文言だが、しかし、本音として)「生きる喜び」を感じているのである。

ダンス恐るべし。

だから、あの2日間(僕は初日のみの参加だったが)は、単に、東京ドームという大きな会場で多くの観客を集めてライヴを行った、というのではなく、「東京ドーム(という建築物、空間)だからこそ可能な、メタルダンスユニットBABYMETALの1度限りのパフォーマンス(いわば「儀式」)」それを、僕たちはあの夜体験した、ということなのだ。

絵画は視覚に、音楽は聴覚にもっぱらかかわるが、舞踊と建築はともに触角(原文ママ)にかかわることによって、いまなお密接な関係にある。触角という言葉が奇異に響くならば、五感といってもいい。建築は、そこに入るもの、居住するものの全身を、全感覚を支配する。舞踊もそうだ。舞踊は見るものの呼吸を支配し、そのうえで感情を支配する。

そうそう、運よく花道最前列に位置した僕は、「RED NIGHT」での「パイロの熱さ」を体感しながら、BABYMETALの3人の動きに息を呑みながら、声を張り上げ、腕を振り上げていたのである。
あの「わ、熱っ。ホンマに熱いんだ、パイロって」という東京ドームでの、体感・印象は、棺桶にまで持っていける、リアルな記憶だ。

BABYMETALという「事件」を「伝説」を、リアルタイムで、(運よくチケットが取れれば)現場で体感できる幸せ・至福。
本当に、我が人生の後半に、こんな楽しみを味わえる喜び。
ただただありがたい。

舞踊(ダンス)というのは、それほどラディカル(根源的・過激)な表現様式であり、そして、(BABYMETALが出現した後になって考えることだが)あらゆる音楽の中でもヘヴィメタルという音楽ほどそうしたラディカルな表現を必要としていたものはなかったのだ、ということに、改めて思い至り、感慨を深くしているのだ。

最後に、WEMBLEYライヴ映像について、一つだけ。

「ヤバ!」のはじまり、超ヤバい!
って気づいていましたか?

初披露の幕張メッセでは真っ暗で見えなくて、横アリの映像では引きなので印象に残らなかったのだけれど、WOWOW放映のWEMBLEYの映像でははっきり確認できます。
「ヤバ!」の最初、3人とも「立位体前屈」の姿勢、膝は伸ばしたまま両足首あるいは両爪先を両手で押さえる姿勢をとっていて、そこからゆっくり起き上がり、「古畑任三郎」あるいは「考える人」のポーズをとって、そこから、シャカシャカシャカと頭のところで両手を振って、と、あの爆発的な舞踊が始まるのだ。

って、最初のあの「立位体前屈」の姿勢、あの過酷な姿勢は何なんだ?
気づいて、鳥肌とともに涙が出てきた。

普通に、「古畑任三郎」あるいは「考える人」のポーズから始まっても、その後のダンスの超絶ぶりでもう十分のはずなのに、時にはライティングの関係で見えない冒頭で、3人は、とんでもないキレをためたポージングをきちんと決めている、のだ。

正規リリース版でも、”あれ”はよく見えるアングル・カット割りのままであることを強く望んでいる。

・・・やっぱりとんでもなく凄いよ、BABYMETALは。


追記:以下、どうでもいいプチ自慢です。
先日、カラオケ(ライブダムstadiumの精密採点DX)で、
『Amore~蒼星』、『META!メタ太郎』の2曲、90点超えを出しました!
Amoreは、もちろん、1オクターブ下ですが、メタ太郎はそのままで高いところは絶叫ですが、この点数!
特筆すべきなのが、「音程」の再現率で、他の歌手の楽曲レパートリーに比べて、BABYMETALの楽曲だけ「音程」の数値が高いのです。一つはもちろん、毎日毎日繰り返し聴いている所為なのでしょうが、もう一つは、SU-METALのピッチの安定感のために、聴いているこちらも歌メロを正確に覚えてしまっている、ということなのでしょうね。



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