WOWWOWで「ハチミツとクローバー」やってたんで見てみました。
少女マンガ原作の、五人の美大生の青春を描いた映画ですが、映画の出来としては正直言って今ひとつというところでしょうか?
ただ、この映画を見て、出来とはべつに非常に気になったことがあります。
ひとつはヒロインのはぐちゃんに、コンテストの出展を女教員が勧めることに関してです。
その教員は、はぐちゃんがコンテストに出すにあたって条件を出します。
抽象画をやめること。それがそのコンテストの傾向なのだそうです。
はぐちゃんはおじさん(?)の花本先生に相談すると、「コンテストの傾向としてはそのとおりだけど、好きなように描けばいい」というようなことを言われます。そのアドバイスにしたがっていると、出展を勧めた女教員が文句をいうのです。
「このままではあなたは自分の才能につぶされる。だから、そうならないようにアドバイスを送るのが我々教員の義務だ」みたいなことを。
いったいなにをいってるんだ、このババアは?
南野はそう思ってしまいました。
自分のほんとうに表現したい物を描いて、落選すればつぶれるとでもいいたいのでしょうか?
ほんとうに才能と情熱があれば、そんなことではつぶれません。
逆に傾向と対策で、人にいわれたとおりに描いた物が評価された方が、変に迷いが生じてスランプに陥るような気がします。
もちろん、自分の才能の器を自覚して、妥協することに自分自身が納得していれば別なのでしょうが。
どうやら、彼女は天才で、そういうタイプではないようなのです。
しかし教員は、はぐちゃんをかばう花本先生に対して「無責任な」と言い放ちます。
じゃあ、あんたは描きたくない物を描かせて、それで責任を果たしたのか? と言いたくなります。
もうひとつは個展に出品した森田の作品についてです。
彼は途中で失敗したことに気づき、それをはぐちゃんに見透かされてしまうのですが、「これで十分」というスポンサーの意向で、納得できないままに仕上げてしまいます。それには五百万の値が付きました。
森田はこれを商品であるという理由で無理やり納得しようとしますが、これを酷評した評論家をぶん殴ります。
ほんとうは自分が一番わかってるはずなのに。
そしてラストシーンでは、スランプに陥ったはぐちゃんの目の前で、この商品を燃やします。
おいおい、芸術家ってやつは商品を作っちゃいけないのかよ? ちょっとでも妥協したものは、自ら燃やさないと許されないのか?
思わずそうおもってしまいました。
ちょっと矛盾していることをいっているような気もします。
最初には、コンテストに自分のほんとうに描きたい物を出せないのは変だと言い、そのあとで、妥協した作品を燃やすのはやり過ぎだと言う。
いったいどっちなんだ? 自分のやりたいことを妥協せずに貫くべきなのか、妥協してもいいのか?
もし南野がそんなことを聞かれたら、そんなに責めないでくれと言いたくなってしまいます。
これを絵ではなく、小説のことだとしたらどうなるか?
小説家志望の南野としては、新人賞に出す際、傾向と対策を練るか?
まあ、多少はそういうことも考えますが、基本は書きたい物を書きます。書きたい物を受け入れてくれるところに出すとも言えます。
その時点で妥協してると言えばそうですが、もし誰かに「この賞はこういう傾向だから、こういう作品を書いて出せ」とか一方的に言われれば、やはり反発するでしょう。それでも、南野は自分が天才でないことはわかっていますから、案外そのとおりにするかもしれません。
一方で、編集者に認められて、「売るためにここをこう直せ」と言われた場合、そのとおり直すでしょう。
直すことによって、それはもはや商品だから燃やせ、などと言われれば、なにを言ってるんだと、反発するに決まってます。
そんな簡単なことではないのです。
しかしこの映画では、商品に堕落した作品を燃やすことで、はぐちゃんはふたたび描く力を取りもどし、森田はアメリカに旅立ちます。
そう考えると、はぐちゃんがスランプに陥った原因は、森田にいきなりキスされたことなどではなく、教員に自分のやりたいことを否定され、また、想い人である森田が妥協した商品で脚光を浴び、森田もそのことにとりあえず満足していることなのでしょう。
森田にはそのことがわかっていたから、はぐちゃんの目の前で五百万の商品を燃やしたのです。
この結末は、南野にはかなり痛いものです。
まるで、おまえの書いてる物は、ほんとうにおまえが書きたい物なのか? それともただの商品なのか? 商品にすぎないのなら燃やせ。
そう言われているような気がするのです。
そう言われれば、南野は天才でもなければ、芸術家でもないと逃げるしかありません。
え、主人公の竹本ですか? ……ええと、彼はもうすこしがんばった方がいいと思うよ。
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少女マンガ原作の、五人の美大生の青春を描いた映画ですが、映画の出来としては正直言って今ひとつというところでしょうか?
ただ、この映画を見て、出来とはべつに非常に気になったことがあります。
ひとつはヒロインのはぐちゃんに、コンテストの出展を女教員が勧めることに関してです。
その教員は、はぐちゃんがコンテストに出すにあたって条件を出します。
抽象画をやめること。それがそのコンテストの傾向なのだそうです。
はぐちゃんはおじさん(?)の花本先生に相談すると、「コンテストの傾向としてはそのとおりだけど、好きなように描けばいい」というようなことを言われます。そのアドバイスにしたがっていると、出展を勧めた女教員が文句をいうのです。
「このままではあなたは自分の才能につぶされる。だから、そうならないようにアドバイスを送るのが我々教員の義務だ」みたいなことを。
いったいなにをいってるんだ、このババアは?
南野はそう思ってしまいました。
自分のほんとうに表現したい物を描いて、落選すればつぶれるとでもいいたいのでしょうか?
ほんとうに才能と情熱があれば、そんなことではつぶれません。
逆に傾向と対策で、人にいわれたとおりに描いた物が評価された方が、変に迷いが生じてスランプに陥るような気がします。
もちろん、自分の才能の器を自覚して、妥協することに自分自身が納得していれば別なのでしょうが。
どうやら、彼女は天才で、そういうタイプではないようなのです。
しかし教員は、はぐちゃんをかばう花本先生に対して「無責任な」と言い放ちます。
じゃあ、あんたは描きたくない物を描かせて、それで責任を果たしたのか? と言いたくなります。
もうひとつは個展に出品した森田の作品についてです。
彼は途中で失敗したことに気づき、それをはぐちゃんに見透かされてしまうのですが、「これで十分」というスポンサーの意向で、納得できないままに仕上げてしまいます。それには五百万の値が付きました。
森田はこれを商品であるという理由で無理やり納得しようとしますが、これを酷評した評論家をぶん殴ります。
ほんとうは自分が一番わかってるはずなのに。
そしてラストシーンでは、スランプに陥ったはぐちゃんの目の前で、この商品を燃やします。
おいおい、芸術家ってやつは商品を作っちゃいけないのかよ? ちょっとでも妥協したものは、自ら燃やさないと許されないのか?
思わずそうおもってしまいました。
ちょっと矛盾していることをいっているような気もします。
最初には、コンテストに自分のほんとうに描きたい物を出せないのは変だと言い、そのあとで、妥協した作品を燃やすのはやり過ぎだと言う。
いったいどっちなんだ? 自分のやりたいことを妥協せずに貫くべきなのか、妥協してもいいのか?
もし南野がそんなことを聞かれたら、そんなに責めないでくれと言いたくなってしまいます。
これを絵ではなく、小説のことだとしたらどうなるか?
小説家志望の南野としては、新人賞に出す際、傾向と対策を練るか?
まあ、多少はそういうことも考えますが、基本は書きたい物を書きます。書きたい物を受け入れてくれるところに出すとも言えます。
その時点で妥協してると言えばそうですが、もし誰かに「この賞はこういう傾向だから、こういう作品を書いて出せ」とか一方的に言われれば、やはり反発するでしょう。それでも、南野は自分が天才でないことはわかっていますから、案外そのとおりにするかもしれません。
一方で、編集者に認められて、「売るためにここをこう直せ」と言われた場合、そのとおり直すでしょう。
直すことによって、それはもはや商品だから燃やせ、などと言われれば、なにを言ってるんだと、反発するに決まってます。
そんな簡単なことではないのです。
しかしこの映画では、商品に堕落した作品を燃やすことで、はぐちゃんはふたたび描く力を取りもどし、森田はアメリカに旅立ちます。
そう考えると、はぐちゃんがスランプに陥った原因は、森田にいきなりキスされたことなどではなく、教員に自分のやりたいことを否定され、また、想い人である森田が妥協した商品で脚光を浴び、森田もそのことにとりあえず満足していることなのでしょう。
森田にはそのことがわかっていたから、はぐちゃんの目の前で五百万の商品を燃やしたのです。
この結末は、南野にはかなり痛いものです。
まるで、おまえの書いてる物は、ほんとうにおまえが書きたい物なのか? それともただの商品なのか? 商品にすぎないのなら燃やせ。
そう言われているような気がするのです。
そう言われれば、南野は天才でもなければ、芸術家でもないと逃げるしかありません。
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