尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

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なまじゃ食えないや

2015-12-09 06:00:00 | 

 「ハラのことば」はこれこれこういうものだよと理屈をいうことは容易です。たとえば、自分の心持ちを表すのにぴったりしたことば。こう言ってもいいわけです。でも、じゃあ、具体的にどんな言葉だよ?と問われて、たとえば・・・と話すことができないのでは、まったくもって「ハラのことば」にもならない。ほんとうに納得するには具体性が大事です。というわけで、前回は長谷川伸の本にあった事例をひとつ紹介しました。その際、柳田国男の紹介した事例が極端に少ないと書きました。ここでは二つだけ紹介します。こんな話です。(難しそうな言葉の読みや意味は、適宜カッコで補っていきます。)

 以前神戸に桜井一久という名弁護士があって、かつて俄雨(にわかあめ)の中をずぶ濡れになって緩歩(かんぽ:ゆっくり歩くこと)していた。どうして走らぬかと人がいったとき、「さきも降っとる」と答えたというのが、逸話になって今も記憶せられている。都会だからこそ我々は珍とするが、田舎では毎日のようにそういう会話が聴かれるのである。(「国語教育への課題」一九三五)

  私たちが心の中で使い続けて日本語は、分量がもっとも多く、またいちばん大切な仕事をしています。無口だと言われるひとほど「ハラのことば」は豊かにもっているのではないでしょうか。心のなかで始終自分と対話しているからです。それが何かの折りに自然に文字になり、ヒョイと口をついて出てきます。反対に、心の中でずっと使ってきた言葉でも、めったに口に出ない場合も少なくないと思われます。自分に聴いてみればよく分かることです。桜井弁護士も、重要な案件かなにか考え中だったのでしょう。こっちの方が重要だと思えばにわか雨などに構ってはいられない。あるいは別様にも解釈できますが、私はユーモアを感じます。村では共同の思惟があり感覚があります。一言二言で、「ああ、あのことか」と気付き、目を合わせずとも腑に落ちます。二つめの話もそこに柳田が気付いたということでしょう。

 相州(今の神奈川県)のある海岸に私の家の松林が少しある。そこへ松葉をかきに入って来て困るので、ある時留守番が出て制止すると、中年の女が出て行く捨てぜりふに、「なまじゃ食えないや」といったと聴いて私は感心した。それで十分に気持はわかるのだが、これを綴方流(見聞きしたことを詳しく書く作文運動)に正確にいうと、今まで私たちはこの辺の松の葉を拾って煮炊きしていた。それを囲い込まれたからと言って燃料を断念するわけには行かぬ。人はなまものを食って生活し得るものでないからということを、理屈はともかくこの短文の中に、明瞭に織り込んだ技能は驚くべき練習と言わなければならぬ。(同前)

 ひとつの言葉を掌にのせて、まるで飴玉でもなめるように、その意味を味わってみたい。これが私の願望です。(ハラの言葉については次回から毎週火曜日に綴っていくことにします。)

 

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2 コメント

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ハラの言葉 (礫川全次)
2015-12-09 10:43:52
ハラの言葉という発想に注目します。これは、ハラを表現すると同時に、相手への批判・攻撃を意図して使われるように思いました。だとすれば、「ことわざ」との類似性ということが思いつきます。
コメント有難うございます。 (尾崎)
2015-12-09 11:16:17
ハラのことばには当然相手への憎悪、愛惜などすべての感情を含みます。ただそれを表すぴったりの言葉がない。ここにことわざが作り出される契機があるのだと思います。ことわざはハラのことばの典型かもしれません。

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