尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

開拓と軍事 永山地区の歩み

2016-07-05 06:00:35 | 旅行

 


さっそく「旧永山戸長や役場」建物に入ってみましょう鍵はかかっておらず、スリッパも取りそろえてあります。玄関から最初に足を踏み入れるのは、薪ストーブのある板の間です。ここに永山村地区の歩みをはじめ、永山に関わりのある著名人、あるいはかつての永山村の様子などが、写真付きの説明パネルが掲示されています。順に紹介してゆきましょう。《 》内がパネルの説明。

 

永山地区の歩み

《 永山地区の開拓の歴史は、明治23年、未開の原野に400戸の屯田兵屋が建設されたことに始まります。同年には永山村が置かれ、翌年には永山私立東・西小学校が開校、25年には郵便局が開局して急速に市街地が整備されていきました。その後、昭和29年には町制が施行、36年には旭川市に編入合併し、現在に至っています。なお「永山」の地名は屯田兵本部長永山武四郎の名をとったものです。(写真は永山神社境内にある永山武四郎像)》

 


 「屯田兵」といって私がイメージする時代は、明治初期。また寒さに強いと言われた「旭川師団」の兵隊さんは日清戦争から活躍したのではないかと思い込んでいました。明治23年入植では、明治27年に始まる日清戦争に参戦したのかどうか。開拓しながらの軍事教練では、たった4年間で実践で戦える戦力になったのかどうか、ちょっと考えさせられます。参戦したとしても、開拓は戦争中も進められたはず。残された年寄りや女性や子供たちの肩にかかっていたのかもしれません。

 

屯田兵の入植

《 樺戸・空知両監獄署囚徒を使役して建設した兵屋には、翌明治24年に屯田兵400戸が入植しました。永山兵村には東旭川・当麻・永山で構成する屯田兵第三大隊のうち、第一、第二中隊が置かれ、大隊本部も設置されました。屯田兵は、兵務の一方、支給された15千坪の未開の開墾に明け暮れました。永山地区の開拓の歴史は、これら屯田兵の血のにじむ努力ぬきに語ることはできません。(写真は永山屯田公園内の「屯田歩兵第三大隊本部跡の碑」)》

 


 屯田兵も大変だったけれど、兵舎だけでなく要所と要所を繋ぐ道路建設では、たくさんの囚人が動員された話を、国道39号を走る車の中で運転するOYさんから聴きました。後にこの国道を拡張する工事では、路肩からたくさんの人骨が見つかったと言います。動員された囚人たちの犠牲なくしては語れない歴史です。

 

本田親美(チカヨシ)と戸長役場

《 明治24年永山村に置かれた永山・神居・旭川3村の初代戸長本田親美は、弘化4年鹿児島に生まれ、北海道屯田兵司令部付から戸長に任ぜられました。親美は、のちに旭川村の初代戸長を経て、明治35年に一級町村制の施行にともない実施された町長選挙により、初代の旭川町長に選出されました。親美は鉄道施設など旭川の発展に尽くし、その遺徳をたたえて常葉公園には彼の顕彰碑が建立されています。(写真は旭川市立中央図書館蔵の初代戸長の本田親美)》

 


 山県有朋が中心になって作られた明治の地方行政組織。町村制は長期間を通じて幾たびか改革されたことを覚えています。この点、学制改革と似ています。西洋文化を自分化・土着化するには時間がかかるのがあたりまえなんですね。

 

発展する市街

《 北限での稲作は、明治20年代の試行錯誤期を経て30年代には現在の市内各地で活発に行われるようになりました。永山地区では、最初神居村に置かれた農事試験場が旭川村を経て明治37年永山村に移ったこともあり、水稲を中心に農業が大きな発展を遂げました。屯田兵村の周辺には本州各地からの団体移民、大農場等の開墾地が展開し、永山地区は一大農業地区として発展、現在の市街地の基礎をつくりあげました。(写真は明治38年島田晴夫氏蔵の「にぎわう永山村のお祭り」)》

 

 

 

 熱帯起原の水稲を寒冷地で育てるには、永い年月を要したことはよく知られています。品種改良は必須だったことでしょう。開拓地には、まず「農事試験場」が必要なことは見えやすい道理です。そしてその成果を教えていく農学校が、次代の後継者作りであったこともまた道理です。


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