尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「時代・キャリア・体系化」による学び直し

2017-09-30 06:00:00 | 

 これまで、庄司和晃のコトワザ研究における「始まりのかたち」を求めて、一九六五年七~十二月のおよそ半年間に限定して私なりにリサーチしてきました。解読の対象になった主な資料を、今一度挙げてみると、

資料①「科学の論理形成にさおさすもの──科学の有効性・実践的課題をめぐる問題を理論化するための一資料」(一九六五、八月十二日)

資料②「言語教育と科学教育の周辺──小学生における私的言語教育試論(1)」(一九六五、九・二二)

資料③「言語教育と科学教育についてのMemo──小学生における私的言語教育試論(2)」(一九六五、九・二九)

資料④「テキスト:試案」(一九六五、九)

資料⑤「言語教育の体系化への試み」(一九六五、九・二九)

資料⑥「表象としてのコトワザのもつ論理」(一九六五、十一・一)

資料⑦「認識理論の創造への出発」(一九六五、十一月一七日)

 リサーチの順序は、資料⑦を読んでコトワザ研究の「始まり」のプロセスのすじみちを押さえることから始めました。そのうえで、資料①~⑦の時間系列による解読を試みました。最初にやっておくべき書誌研究が不足していたために、資料間のくいちがいに戸惑い二回ほど認識を訂正するハメになり、四苦八苦したことはブログに露呈されている通りです。また、なぜ研究の「始まり方」に注目するかは既に述べましたが、研究の始まり過程をどう定義するかはまだだったので、ここで触れておきます。研究とは際限のないものです。その完成をどう規定しようと、人間ひとりが一生にやれることは限られており研究とは未完成をその本質とします。なぜならば、研究におけるナゾ解きはつぎつぎと異なるナゾを呼び、別様の展開の必要性を生みだすからです。これは人間の認識実践の有限性にもとづいていることは明らかです。もしある研究を「完成した」ということがあるとすれば、研究途上に一つの段階を築いたに過ぎないこともまたあきらかです。

 だとするならば、研究の「始まり方」に注目することは、当該研究の原型を確かめその変遷を見定めるために重要な方法だと考えます。しかし、「始まり方」にも終りがあることを忘れては延々と研究を追跡しなくてはなりません。では、どこを「終り」とするか。一つの大きな段階に過ぎない研究の一通りの完成を、「素朴的」-「過渡的」-「本格的」の各小段階に三分してみれば、研究の始まり方の「終り」は、「過渡的」研究の始まる直前になります。「直前」といっても境界は二重性をもっていますから、素朴的と過渡的の重なるところだと考えることができます。今回の庄司のコトワザ研究でいえば、時代の課題に応えて問題解決学習における「諺・金言」の重要性に気づいてから、自前の言語教育構想の編集をもって三浦つとむの助言を受けとめコトワザ本質観を改めたこと、次いで体系化によって「言語教育構想」と「大衆の論理学」構想の二つの路線を敷いた(視角を得た)ところまで、となります。ここでは、「体系化」の視角を獲得したことがその「終り」を意味しています。

 ところで、私は氏のコトワザ研究にける「始まりのかたち」を三つの指標によって明らかにしてきました。これらを短くまとめて「時代・キャリア・体系化」と言い換えてみれば、これと似た「入門期」と呼ばれる認識現象にもこの三つを適用することができるはずです。私の場合は、コトワザ研究の「入門」ではなく、再入門になりますが、事情はさほど変わりません。変わるのは、「時代」の特殊性であり、何を「キャリア」に選ぶかであり、体系化すなわちどのような「系」によって何を縫い合わせて「体」とするか、これらのちがいがあるだけです。この三点を具体的に考えながら、「庄司和晃のコトワザ研究」の次の段階をリサーチしてみることが課題になります。「時代・キャリア・体系化」もよく考えてみれば、どの指標にも、体系が込められていたことに気づきます。

 「時代」には過去を生きた自分という自然な体系が成立しています。ひとは成長するにつれて自意識という「系」によって自分のありかたが縫い合わせられ「体」をなしています。「キャリア」もあとから見れば過渡的な体系よって秩序立てられていることがわかります。そして最後の「体系化」は体系を生みだすことですが、ゼロからの体系化はありないとすれば、学び直しとは、より本格的な段階への「体系の更新」にほかなりません。「再編集」や「組み替え」といってもいいでしょう。こう考えてくると、学び直しは一見世の中に順応するための自分の組織換えというような印象をもたれるかもしれません。しかし、人間が生きるということが、自分という体系の組み替えであることはおそらくどこでも変わりません。ですから、肝腎なのはどのような体系に更新すべきかという倫理あるいは思想の問題なのです。