前回(3/23)は、浅間山大噴火翌年の天明四年以降に八右衛門の周辺に起きたいくつかのエピソードを紹介しました。まず同年の「未曾有の大飢饉と物価騰貴」によって寄宿していた林本家が身上「没落」に遭ったこと、にもかかわらず叔父・七右衛門の計らいによって十八歳の八右衛門は本家の養女になっていた同い年の菊を嫁にもらい、彼を当主とする林分家の再興が叶ったこと、また新生活のスタートが妻や娘が罹った眼病の治療のために奔走する日々の始まりであったことなどでした。まさに禍福はあざなえる縄の如し、というべきでしょう。さて今回は、二十五歳になった八右衛門のその後の境涯に小さくない影響を与えたと思われる契機を読んで見ることにします一つは伊勢参宮です。
≪そういう災難つづきも一つの契機になったのだろうか。寛政三年(一七九一)、二十五際のときに、八右衛門は大峯山を経て、伊勢へ参宮の旅に出た。出立が六月二十八日、帰宅が八月十四日という長旅である。伊勢参宮についての印象を八右衛門は書いていない。だが、一人前の年齢での一ヶ月半に及ぶ独り旅は、その後の八右衛門に小さくない影響を与えたはずである。
伊勢参宮はおそらく一生涯に一度、この時代の農民が経験することのできた、もっとも大きな旅行であったろう。だがこれも、すべての村人が斉しくその機会をもつことができるものだったかどうか。抜け参りの大波が世間をゆさぶるというような時期をのぞけば、次第に参宮者が増していったことは疑いないとはいえ、やはり、家格・貧富・男女を問わずに享受できるものではなかったろう。八右衛門にしても、林家につらなるたしかな家筋のものであることが二十五歳で参宮の旅に出る条件になったと思われる。
今もあちこちの旧家には当時の参宮日記が残されているが、それらを一覧してわかるのは、伊勢参宮が信仰にかかわる経験だけでなく、農民が泊りを重ねながらさまざまな世事の見聞を拡大していく機会としての意味をもっていたということである。農民にとって、伊勢参宮のための長い旅は、自分の居村や周辺の村々を遠くこえた世界をたしかめ、また村の世界だけでなく、町の世界を自分の目と耳で知り、居村を中心にした自分の狭い経験や見解とひきくらべて、驚きをくりかえしながら、新鮮な多量の知見を吸収する時間であった。
このような伊勢参宮の広がりを天皇崇拝の意識と直接に結びつけて考えるのは、かえって無理な理解である。当時の伊勢信仰の普及は、天皇という具体的な人格とはほとんど関係をもっていない。それは、現世利益的な信仰意識と、驚嘆するほどに活発な御師(おし)集団の活動によるものであった。御師手代たちは、全国に散って村に入ると、伊勢講の人々に御蔭(おかげ)話しを聞かせ、正直を中心とする徳目の実践を説くとともに、伊勢暦(ごよみ)と呼ばれる暦を普及させた。この暦は農事暦としても農民によろこばれた。村と家の安穏と農作物の豊穣への願望こそが、伊勢信仰の場合にもその基礎であり、天照大神信仰も、生身の天皇に集中する感情をともなわずになりたつものであったと考えてまちがいない。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二四~五頁)
ここでつけ加えるべきことがあるとすれば、それは「代参」という民俗についてです。代参とは、村あるいは講を代表して伊勢参宮に出かけることを意味します。代参の旅費は、たとえば頼母子講などによって調達されれば、順番がまわってきたから出立できるとはいえ村や講の協同・バックアップの賜物です。また代参には帰村時の義務がありました。今回行かれず見送った人々への御札を持ち帰ることや土産話(世間話)をすることなどの義務があったのです。この二つは、代参の公共的性格をより強く語っているように思えます。言い方を変えれば、伊勢参宮に代参することは何よりも村の一員としての自覚を高める意義がありました。私見ですが、この方面の民俗的心意は結構根強く、明治以降、村で能力がありながら貧窮のために進学出来なかった青少年に対する郷土からの援助というかたちで近代を生きのびることになったと考えます。とすれば、「代参」という体験は八右衛門の公人としての自覚に小さくない影響を与えたといっていい。
≪伊勢参宮から帰ると間もなく、二十五歳の若さで、八右衛門は東善養寺村の名主になっている。林家につながる家筋、寺院生活で身につけた教養や見識などが八右衛門を名主役におしあげたのだろうが、それにしても若い名主の誕生である。伊勢参宮も、八右衛門にしてみれば家内安全、病気平癒の願いをこめたものであったかもしれないが、餞別(センベツ)を与えて送り出した親類・組合の人々にしてみれば、将来は名主役を勤める機会も十分にある若い八右衛門に世間を見聞させて修業させる、という意味をこめていたかもしれない。八右衛門が名主になったさいに、天明三年の打ちこわしのときに名主であった高橋家はどうなったのか。名主後退をめぐるなんらかの出入(でいり)を想定することもできるが、前橋領では江戸後期になると入札による交替名主制をとる村がふえているから、東善養寺村もその一つで、この年の入札で後見の勢力もあって八右衛門を選出した、とみるのが自然であろう。こののち長く八右衛門が名主を勤めているところをみると、世襲名主ではなくなっているが、年ごとにかわる年番名主制でもない。多分、名主退役のときに惣百姓選挙という方法がとられていたのだろう。名主になってから十数年間は、八右衛門は比較的大過ない村役人生活を送ったらしい。林分家は、この間に村のなかで確固とした存在になったであろう。≫(深谷克己前掲書 二六頁)
代参が公人としての自覚を高める意義があると書きましたが、もちろんこれに尽きないことは引用が教えてくれます。代参は世間(外部世界)を見ることの大きなチャンスでした。農業の品種や農作業の仕方からはじまり、上方や上方にやって来る他郷人の情報を得る機会でした。代参は世間を自分の目で知ることで自分等の村や生き方を見直す意義があったのです。
つぎに「惣百姓選挙」とありますが、選ぶ方も選ばれる方もその資格は一人前の百姓であったということです。一軒前(いっけまえ)として年貢の村請けを担い、村の掟を守ることの出来ない者はこの資格から除外されていたことはいうまでもないことです。また、名主の選び方に変遷があったことを初めて知りました。その順序は知りませんが、まず世襲名主、年番名主、入札名主を頭にいれておきたい。