「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている

2017-10-31 06:46:24 | 温故知新
「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている。当社の創建については延暦三年(784)長岡京遷都の際に藤原氏出身の桓武天皇の后、藤原乙牟漏が、氏神の春日社への参詣が容易になくなり、この地に春日明神を勧請したことに始まる。平安遷都後に嘉祥三年(850)左大臣藤原冬嗣が社殿を造営して、地名をとって大原野神社と称した。その後藤原順子が行啓、円融天皇が行幸と共に摂関家をはじめとする崇敬が高まり繁栄をした。寛弘二年(1005)一条天皇の中宮彰子の行啓は有名で、父藤原道長を始め、紫式部らが供奉し、華やかな行列に目を見張らせた。境内の長い参道を行くと右手に奈良の猿沢の池に似せた鯉沢池があって両側に深い樹林の奥に赤い本殿が見える。訪れる人もまばらで静寂が辺りを包んでいる。
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「西国観音三十三所巡り」正法寺(岩間寺)西国観音十二番札所・滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗醍醐派の寺院。本尊は千手観音、

2017-10-31 06:05:16 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」正法寺(岩間寺)西国観音十二番札所・滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗醍醐派の寺院。本尊は千手観音、開基は加賀白山を開いた泰澄である。西国三十三所観音霊場第十二番札所の他、ぼけ封じ観音第四番札所となっている。正法寺は、十一番上醍醐の東方約4キロ、十三番石山寺の南西約4キロ、滋賀と京都との府県境の一部をなす岩間山(標高443m)上に位置する。縁起によれば、元正天皇の病気平癒祈願に功のあった泰澄が養老六年(722年)、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏である金銅千手観音像をその胎内に納め祀ったのが当寺の初めとされる。本堂は、天正五年(1577年)に再建されたもので、寛永年間に解体修理された。当寺には山門は現存していない。 本堂脇の不動堂は度々建て替えが行われており、現在は平成五年(1993年)のもの。 本堂前には泰澄が最初の本尊を刻んだ後の切り株から再び芽生えたと言われる桂の樹があり、霊木とされている。
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『江戸泰平の群像』(全385回)78・片桐 貞昌(かたぎり さだまさ)(1605~1673)は、江戸時代前期の大名、茶人。

2017-10-31 06:00:31 | 温故知新
『江戸泰平の群像』(全385回)78・片桐 貞昌(かたぎり さだまさ)(1605~1673)は、江戸時代前期の大名、茶人。大和小泉藩の第2代藩主。茶道石州流の祖として片桐石州(かたぎり せきしゅう)の名で知られる。慶長10年(1605年)、初代藩主・片桐貞隆の長男として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元の甥にあたる。寛永元年(1624年)12月28日に従五位下、石見守に叙任される。寛永4年(1627年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の貞晴に3,000石を分与したため、小泉藩は1万3,000石となった。貞昌は寛永9年(1632年)から寛永20年(1643年)まで知恩院再建の普請奉行を務め、そのほかにも関東の郡奉行などを歴任し、また水害地の視察にしばしば出張するなど土木建築に功績を挙げた。寛永15年(1638年)には大徳寺山内に高林庵を建立している。延宝元年(1673年)11月20日に死去した。享年69。跡を三男の貞房が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺高林庵。

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『歴史の時々変遷』(全361回)342“生野の変” 「生野の変」幕末の文久3年(1863)10月に但馬国生野(兵庫県生野町

2017-10-31 05:56:23 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)342“生野の変”
「生野の変」幕末の文久3年(1863)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件である。生野の乱、生野義挙とも言う。文久3年(1863)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送った。その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になるが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅した。攘夷派公卿7人の一人、公卿澤宣嘉を主将とする一行は但馬に向かう途中、京・四条木屋町の具足屋大高又次郎のところで武器調達の為、京の旅籠花屋に宿泊していた。そこで、大和国から逃れてきた土佐の池内蔵太(後に海援隊士)に出会い、天誅組大和破陣の話を聞き及んだ但馬の進藤俊三郎(原六郎)らは、進藤俊三郎が京から播州へ行き、生野挙兵を目指す一行へ情報をもたらした。平野国臣と北垣晋太郎らは、一旦挙兵を自重し、再度の時期到来を待つべきと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張が勝り挙兵に至る。但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていた。同国の生野銀山が有名だが、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿澤宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入った。生野代官所は彼らの動きを当然察知していたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡した。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されている。平野、北垣らは「当役所」の名で澤宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集した。天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動している。諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がった。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまるが、13日夜に肝心の主将の澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出してしまった。集まった農民たちは動揺する。 澤宣嘉は、田岡俊三郎、高橋甲太郎、森源蔵らと脱出し四国伊予小松藩周辺に潜伏した後、長州に逃れる。脱出した机の上には次の一首が書き残されてあった。山口村妙見山(岩州山)の妙見堂に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとするが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかった。河上ら13人の浪士は妙見山麓(現朝来市山口・山口護国神社)に戻って自刃して果てる。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺された。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られる。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛された。元治元年(1864)7月の禁門の変の際に平野は幕吏によって六角獄舎で殺害された。生野での挙兵はあっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。

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『歴史豆知識』1・縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期

2017-10-31 05:47:51 | 温故知新
『歴史豆知識』1・縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。また東北北部から北海道では縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、当初は石器時代という概念で先史時代を捉えており、その中で縄文式土器を使用した時期と弥生式土器を使用した時期が存在したという叙述が行われていた。また19世紀中は、日本列島の先史時代の住民をアイヌやコロボックルと考える説も有力であり、これらの説が退けられたのは1920年代である。だがこの時期には記紀神話を日本列島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、考古学の知見に基づく日本列島の先史時代像が学界を超えて形成され始めたのは第二次世界大戦後となる。戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生式文化と縄文式文化の二つの文化の存在を示していたが、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している。縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。岡村道雄の区分、考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少数で小規模になり分散する。関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。後期後半には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を導入後、弥生時代早期へと移ってゆく。
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『浪速史跡めぐり』北畠顕家卿の墓・阿倍野筋を南に阿倍野王子神社

2017-10-31 05:44:10 | 温故知新
『浪速史跡めぐり』北畠顕家卿の墓・阿倍野筋を南に阿倍野王子神社を南に「北畠顕家卿の墓」がある。この近くの阿倍野神社の祭神と同じである。顕家は父親房と共に後醍醐天皇に仕え、南北朝時代に活躍し「太平記」には阿倍野のちにて討ち死にしたという。この時顕家20余騎の手勢で足利尊氏は配下の高師直率いるⅠ万8000騎の大群を迎え撃ち二十一歳で戦死をしたと言う。
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「二十二社巡り」廣田神社・兵庫県西宮市にある神社。式内社、二十二社(下八社)の一社。

2017-10-30 06:00:20 | 温故知新
「二十二社巡り」廣田神社・兵庫県西宮市にある神社。式内社、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神天照大神荒魂 (撞賢木厳之御魂天疎向津媛命) 伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と御同体脇殿神・住吉大神・八幡大神・武御名方大神・高皇産霊神・日本神話に当社の創建のことが書かれている。
神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。
皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。
戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。
そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。
広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。
このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。
すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。
平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。
当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため、享保九年(1724年)に現在の西山の地に遷座し、戦争の空襲による全焼までは西側の廣田山に鎮座していた。戦後、その東側の現在地に移転した。




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「西国観音三十三所巡り」西国観音七番札所・岡寺(龍蓋寺)創建は天智2年(663)草壁の御子が住まわれていた岡宮を仏教道場

2017-10-30 05:57:00 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」西国観音七番札所・岡寺(龍蓋寺)創建は天智2年(663)草壁の御子が住まわれていた岡宮を仏教道場として義淵僧正に下賜された。義淵僧正は天智天皇から聖武天皇に仕えた当時随一の高僧で門下生からは行基、良弁、道鏡、玄昉などの高僧を輩出している。本尊は如意輪観音菩薩(重要文化財)我が国最大の塑像でインド・中国・日本の三国の土で弘法大師が作られた。如意輪観音像は仏事を意のままに悉くかなえてくれる観音さんで、西国観音霊場として千年の歴史がある。寺院の正式名は龍蓋寺で義淵僧正が優れた法力の持ち主で、その頃にこの寺の近くで荒らす悪龍がいて、義淵は法刀によって小池に封じ込めて退治し、大石を蓋にした所から、龍に蓋をする池、龍蓋池と呼び、寺名も「龍蓋寺」と言ういい伝説がある
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『江戸泰平の群像』(全385回)77・黒田 忠之(くろだ ただゆき)(1602~1654)は、江戸時代前期の大名。筑前福岡藩の第2代藩主。

2017-10-30 05:53:44 | 温故知新
『江戸泰平の群像』(全385回)77・黒田 忠之(くろだ ただゆき)(1602~1654)は、江戸時代前期の大名。筑前福岡藩の第2代藩主。江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る。慶長7年(1602年)11月9日、福岡藩初代藩主・黒田長政と正室・栄姫(大涼院・徳川家康養女)の嫡男として筑前福岡、福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられた為、代わりに出陣している。この際、長政は忠之に、関ケ原の合戦の折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え、1万の軍を率いさせている。元和9年(1623年)、徳川家光将軍宣下の先役を仰せつかった長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。当初、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から偏諱を授かり忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく。また、父の遺言で弟の長興に5万石(秋月藩)、高政に4万石(東蓮寺藩)を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。忠之は生まれながらの大藩御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も我侭であったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶、鳳凰丸などを建造したり、自らの側近集団を組織し、倉八正俊、郡慶成らを重用した。一方で「筑前六端城(領内主要6拠点の支城)」城主を始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。ところが寛永9年(1632年)、六端城の一つ・麻底良城主・栗山利章(大膳)によって幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、黒田家は改易の危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である。3代将軍・徳川家光は自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山、栗山は盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、旧領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府老中の安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の重臣を中心とした合議制色が強くなった。寛永14年(1637年)、島原の乱に出陣し、武功を挙げる。寛永18年(1641年)、江戸幕府の鎖国令により長崎が幕府直轄地(長崎奉行地)となり、肥前佐賀藩と交代で長崎警備の幕命を受ける。この事により福岡藩は参勤交代に於ける参勤回数、当主の江戸滞在短縮など幕府から優遇を受ける。承応3年(1654年)2月12日、福岡城にて死去した。享年53。跡を長男・光之が継いだ。忠之は高野山真言宗を信仰していた為に、菩提寺を父の禅宗寺院の崇福寺ではなく、博多の空海が開いた東長寺にする様に遺言を残した。東長寺墓所の石塔は国内で2番目に巨大なものである。また江戸に於いては麻布に瑠璃山正光院を開基、また中屋敷には父長政の菩提を弔い興雲院(現在の祥雲寺)を開基している。糸島市に、黒田家祀社「桜井神社」を創建。忠之は島岡大明神として祀られる。細川家文書によれば、当初は藤堂高虎の娘を正室に迎える予定だったというが、後に徳川秀忠の養女を正室に迎えた。
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『歴史の時々変遷』(全361回)337“ロシア軍艦対馬占領事件” 「ロシア軍艦対馬占領事件」幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し

2017-10-30 05:50:56 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)337“ロシア軍艦対馬占領事件”
「ロシア軍艦対馬占領事件」幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。文久元年2月3日(1861)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名は舌を噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切った。5月20日には小栗は対馬を離れ江戸に向かった。江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
★7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた。また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたとされる。
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『歴史の時々変遷』(全361回)337“ロシア軍艦対馬占領事件” 「ロシア軍艦対馬占領事件」幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し

2017-10-30 05:49:55 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)337“ロシア軍艦対馬占領事件”
「ロシア軍艦対馬占領事件」幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。文久元年2月3日(1861)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名は舌を噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切った。5月20日には小栗は対馬を離れ江戸に向かった。江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
★7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた。また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたとされる。
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『歴史古代豆知識』1・「古墳時代」 古墳時代(こふんじだい)は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代

2017-10-30 05:46:19 | 温故知新
『歴史古代豆知識』1・「古墳時代」
古墳時代(こふんじだい)は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。一般に、縄文時代、弥生時代と対比して用いられる場合が多い。
古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。
西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。なお、ほぼ同時代を表している「大和時代」の呼称は、研究の進展によって一般的でなくなってきている。
この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。続く5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権の確立後、中央・地方の統治組織が出来上がり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられる。大王の墓は特別に八角墳として築造された。
対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる。(高句麗と倭の戦争)5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。大陸から、文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であると尊び、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。
弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、この時代の水田は東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山市中溝遺跡などがあり、水田の一筆の広さが150~200平方メートルで、弥生時代後期の水田の2~3倍の規模である。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定にはこうした新水田造成技術を導入して行われたと考えられる。
古墳時代になると、王族や貴族の大型古墳、地方豪族の古墳、横穴墓などの集合墓、あるいは円筒埴輪棺など死者を埋葬する墓における階層化が目を見張るようになり、それに伴い被葬者の間で身体特徴の違いが見られるようになる。一番わかりやすい身長で比較すると、大型古墳の被葬者は一般に高身長でときに170センチ近くにも及ぶ被葬者がいた。各地豪族墓の男性被葬者の平均は160センチぐらいであり、横穴墓に埋葬された者はそれを下回り、158センチほどである。古墳時代の人骨の一番の特徴は縄文人や弥生人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。顔立ちについては縄文人で一般的であった鉗子状咬合は全体の70%ほどで見られるが、大型古墳の被葬者では、のちの日本人で一般的な鋏状咬合が多くなる。また、下顎のエラの部分の前ほどにある凹み(角前切痕)が多くみられるようになる。さらに、顎の先が細く尖り気味の下顎骨を持つ者や第3臼歯が萌出しない者の割合が多くなる。これらの下顎骨の骨細化や退縮減少に伴う顔面骨の変化は、生活様式の変化、特に食物の硬さが減じたことに起因する。また階層により生活レベルの違いが大きくなり、階層性が目立つようになったと考えられる。
3世紀半ば過ぎに、前方後円墳が出現したと考えられている。3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。
3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。前方部が撥形に開いているもので、濠が認められていないものがある。中には、自然の山を利用しているものもあり、最古級の古墳に多いと言われている。埴輪が確認されていないのが特徴である。葺石なども造り方が定まっていないようにも思われる。
この時期の主な古墳・福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(邪馬台国九州説の一説では、女王卑弥呼の墓と目され、最古級の前方後円墳。造営当初は130メートル以上か。築造時に墳丘に複合口縁壺が樹立されていたと推定されている。)大分県宇佐市、川部・高森古墳群の赤塚古墳(57.5メートル、周囲には幅8.5m~11mの空濠が巡る。)奈良県桜井市太田字石塚、纒向石塚古墳(96メートル、後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない。)京都府木津川市山城町、椿井大塚山古墳(推定175メートル、自然の山を利用している。)奈良県天理市柳本町、黒塚古墳(130メートル、撥形であることが分かる。周濠を持っている。)3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。また、福岡県の沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が始まった時期とされる。

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「浪速史跡巡り」釣り鐘屋敷跡・大阪市中央区に釣鐘町という町があるが、この町の名前の由来となった釣鐘が現存している

2017-10-30 05:43:34 | 温故知新
「浪速史跡巡り」釣り鐘屋敷跡・大阪市中央区に釣鐘町という町があるが、この町の名前の由来となった釣鐘が現存している。1634年(寛永11年)、3代将軍徳川家光が上洛の折、二条城から淀に至り、船で大坂城へ入った。この時、三郷惣年寄などが相率いて将軍を今市(現旭区今市町)に迎え、酒樽・鰹節を献じ、祝賀の意を表したところ、悉く城中に召され、各々紋服三領を賜り、加えて大坂町中の地子銀(現在で言うところの固定資産税)の永代赦免が達せられた。 当時三郷の地子銀数は1ヶ年178貫934匁で、この巨額の地子銀を永代に免除された郷民はその恩恵に感謝したことは言うまででもない。後世子孫までこの恩恵を忘れないためにて、惣年寄達が協議した結果、釣鐘をつくり町中に時を知らせることとした。 鐘は同年9月に完成。その銘文は谷町筋寺町西側(現谷町9丁目)の大仙寺の龍巌和尚が書き、開眼供養は一心寺の在牟上人が導師となって執り行われた。 この釣鐘屋敷の鐘は2時間おきの1日12回撞かれたが、その鐘の音は近松門左衛門の『曽根崎心中』の最後の道行の場面でも書かれている。 鐘楼は江戸時代を通じて、4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に見舞われたが、これをくぐり抜けたが、1870年(明治3年)に撤去され、釣鐘はその後、幾度か場所を移動し、1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていた。1985年(昭和60年)地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、現在に至っ(大阪再発見より)

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京都古社寺探訪」“月読神社“(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、京都府京都市西京区松室山添町にある神社。

2017-10-29 07:38:50 | 温故知新
「京都古社寺探訪」“月読神社“(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、京都府京都市西京区松室山添町にある神社。式内社(名神大社)で、現在は松尾大社摂社。「松尾七社」の一社。松尾大社の南400メートルの地に鎮座する。現在の祭神は次の1柱。月読尊(つきよみのみこと)一般にツクヨミ(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の兄弟神として知られるが、月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている。『日本書紀』顕宗天皇3年2月条における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある。また『先代旧事本紀』では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える。これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される。また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある。関連して、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条では対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる。同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている。『日本書紀』よれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して山背国(山城国)葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。このほか『山城国風土記』逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。
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「西国観音三十三所巡り」西国観音6番札所「壺坂寺」(南法華寺)南大和は高取町にある真言宗系の寺院である。通称「壺坂寺」

2017-10-29 07:36:17 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」西国観音6番札所「壺坂寺」(南法華寺)南大和は高取町にある真言宗系の寺院である。通称「壺坂寺」は大宝3年(703)創建と伝えられる。元興寺の弁基上人が開いたと伝えられる。本尊は「十一面千手千眼観音」は眼病で霊験あらたかと言われて、浄瑠璃の「壺坂霊験記」のお里沢市に出てくる歌舞伎・浄瑠璃などで有名である。平安時代の中期より朝野の信仰を集め清少納言に「枕草子」に出てくる。壺坂寺はインドとの関わりが深く先代住職のインドでの救ライ事業への尽力の返礼に贈られた「天竺渡来大観音像」の大理石が高さ二十メーター・重さ千二百トンの壮大な石仏が山門をくぐると見える。現在は真言宗であるが、元は法相宗で京都は清水寺の北法相寺に対して南法相寺として格式も高かった。
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