「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『河内史跡巡り』顕証寺・大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し

2017-05-29 04:54:24 | 史跡探訪
『河内史跡巡り』顕証寺・大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺八世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は六男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。文明二年(1470年)、蓮如は河内国渋川郡を訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文十年(1541年)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。





コメント

“日本名僧・高僧伝”54・日頂(にっちょう、建長4年(1252年)- 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。

2017-05-29 04:50:58 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”54・日頂(にっちょう、建長4年(1252年)- 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。俗姓は南条氏。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加している。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめた。1293年(永仁元年)養父常忍と対立し、晩年は故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となった。本門寺の近くの正林寺に墓所がある。
コメント

『戦国時代の群像』113(全192回)尼子勝久」(1553~1578)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尼子誠久の五男

2017-05-29 04:38:10 | 史跡探訪
>『戦国時代の群像』113(全192回)尼子勝久」(1553~1578)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尼子誠久の五男。天文22年(1553)、尼子誠久の五男として生まれる。天文23年(1554)、祖父の尼子国久、父の誠久ら新宮党が尼子晴久によって粛清されたとき、小川重遠によって助けられる。後に晴久が保証人となり、京都に出て東福寺の僧となった。永禄9年(1566)、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡するが、永禄11年(1568)、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。永禄12年(1569年)に隠岐国から出雲国に入ると、尼子氏の旧臣の支援を得て出雲新山城に入城。月山富田城奪還を目論むが、毛利元秋や天野隆重の奮戦により攻略は失敗に終わる。永禄13年(1570)2月、布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。天正2年(1574)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略した際にその守備を命じられた。天正6年(1578)、毛利氏は宇喜多氏と共に総勢3万で上月城に迫った。秀吉は信長の命により別所長治が籠る三木城攻略に専念することとなり(三木合戦)、近侍させていた亀井茲矩を使者として勝久らに上月城からの撤退を要請した。しかし勝久らはこれに従わず籠城、毛利氏の猛攻に遭いついには降伏する憂き目に遭う(上月城の戦い)。勝久は嫡男・豊若丸、兄弟の氏久、重臣の神西元通らと共に自害した。享年26。一方、山中幸盛は捕虜となり移送される途中に斬殺された。これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなる。
コメント

『歴史の時々変遷』(全361回)184“天正伊賀の乱”「天正伊賀の乱」伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である

2017-05-29 04:32:30 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)184“天正伊賀の乱”「天正伊賀の乱」伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578)から天正7年(1579)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。伊乱記によれば、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した。」とある。翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は2,000以上もの兵を討たれ 、信雄は伊勢へ逃げ帰った。信雄軍は重臣の柘植保重(1,500人を率いていた)を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと思われる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。そして再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。 伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ大敗した。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を強攻し、退けられるが滝川一益の援軍を得てようやく陥落させた。続く比自山城は難攻不落の要塞で、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡し、翌日には藻抜けの空であった。その後、内応者が多く出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は片っ端から殺害され、その様は地獄絵図の様であったという(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は徹底的に捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。同年10月9日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。天正10年(1582)、伊賀国は平定され織田氏の支配下にあった。しかし本能寺の変で織田信長が横死したのを知ると、伊賀衆は再び挙兵、柏原城を攻めた。柏原城は落城、滝野吉政は松ヶ島城へ逃走した。その後織田信雄が討伐に向かい、反乱軍は瓦解した。森田浄雲も一之宮城で挙兵し、討ち取られたという。
コメント

「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。

2017-05-29 04:23:30 | 史跡探訪
「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。寺伝によれば、815年(弘仁六年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れないでいるところに白鹿が現れ、大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたという。この時、空海が厄年の四二歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな観音像として信仰されることとなった。当寺は現在浄土宗に属するが、空海開基の伝承をもつことから、創建当初は真言密教系の寺院であったと推定される
コメント

「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・ 当社の起源について諸説あって定かではない。

2017-05-29 04:18:09 | 史跡探訪
「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・
当社の起源について諸説あって定かではない。一説には仁徳天皇五年の鎮座と伝えらえている。もう一つの説に裸行上人と伝えら、熊野那智大社と向かい合う西国観音一番札所青岸渡寺の創建の裸形上人と同じである。元々隣接している熊野那智大社も青岸渡寺も明治維新の神仏分離令まで神仏習合の霊地と一体であった。従って祭神が少々複雑、第一殿滝宮・大己貴命(千手観音)★この第一殿は133M大滝が御神体の遥拝殿を指し、★第二殿は証誠殿は家都御子大神(国常立尊・阿弥陀)★第三殿・中御前は御子速玉大神(伊奘諾尊・薬師)★第四殿の西御前は熊野夫須美大神(伊奘冉尊・千手観音)を祀る。この第一殿から第四殿までが主祭神で★第五殿の若宮に天照大神(十一面観音)★第六殿には禅師宮には忍穂耳(地蔵)聖宮には瓊瓊杵尊(竜樹)児宮には彦火火出見尊(如意輪観音)子守宮には草葺不合尊(聖観音)一万宮には国狭槌尊(文殊)十万には豊斟渟尊(普賢)勧請十五カ所には諸神・諸仏を一対づつ祀る。これら神仏習合の本地垂迹思想は平安から鎌倉に掛けて形成され、本来の境地の神道に迹から垂れる意味で法身上、神が仏の形を取って借りに現れることである。化身として表れることである。要するに神仏の融和の象徴で共栄共存の日本人の知恵だったろう。那智大社は熊野三山に二山と違って那智山中の一の滝、二の滝、三の滝の中でも三滝の大滝を信仰の対称としている。また早くから役子角は当地を第一の霊場と定めて修行をした。また花山法王が熊野御幸した時には滝籠りをされた。平安時代には蟻の熊野詣と云われ京都から公家、上皇、天皇まで列をなして熊野詣がなされた。
コメント

『河内史跡巡り』富田林寺内町は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。富田林寺内町は

2017-05-28 05:25:00 | 史跡探訪
『河内史跡巡り』富田林寺内町は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄三年(1560年)、西本願寺派興正寺第14世・証秀が、石川西側の河岸段丘の荒芝地を百貫文で購入し、周辺四ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、富田林と改めたことに始まるという(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜)。 由緒書には上記のように記載されているが、由緒書は江戸時代の編纂物であることから確固たる信憑性を得ることは叶わない。八人衆は、この功により年寄役となり、寺内町の自治を行った。織田信長と石山本願寺による石山合戦時には、本願寺・御坊側につかなかったことから、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得ることにより、平穏を保った。しかし、近年では寺内町内部に御坊派と穏健派がいたことも示唆されている。 そして石山合戦終戦後において、織田信長から再度書状を得たがそこには「河州石川郡之内富田林」と記載されていることから寺内町を否定した。 正確な否定は豊臣秀吉が1584年に蔵入地化してからという指摘もあることを留意しなければならない。江戸時代は公儀御料となり、酒造業で栄えた。また、幕末期には、19名の大組衆(杉山家、仲村家、奥谷家などの有力町人衆)により自治が行われていた。現在も多くの町屋が残り、大阪府で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、1986年(昭和六十一年)八月に、中心部を南北に縦断する城之門筋が建設省の日本の道100選(道の日制定記念)に選定されている
コメント

“日本名僧・高僧伝”53・一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))

2017-05-28 05:20:18 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”53・一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。姓は胡氏。幼くして出家し、律、天台宗を学んだ後、臨済宗に転じ、天童山や浄慈寺などで修行を積み、阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだ。その後、環渓惟一らに参禅を続け、諸所を遊方した。二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた。弘安5年(元の至元19年、1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(至元21年、1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。永仁2年(至元31年、1294年)、世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓に三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。正安元年(元の大徳3年、1299年)、一寧は門人一同のほかに西澗子曇を伴って日本に渡った。西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉した。それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。
修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(1293年)の地震による倒壊炎上によって衰退していた建長寺を再建して住職に迎え、自ら帰依した。円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。この他に帰一寺(静岡県賀茂郡松崎町)、慈雲寺(長野県諏訪郡下諏訪町)、信州中野の太清寺などの開山となり、正統の臨済禅の興隆に尽力した。学識人物に傑出し身分を問わず広い層に尊崇され、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。朱子の新註を伝え日本朱子学の祖ともされる。文保元年(1317年)10月、南禅寺で病没。花園天皇より一山国師と諡号された。語録として『一山国師語録』がある。
コメント

『戦国時代の群像』112(全192回)毛利 輝元(1553~1625)もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけ

2017-05-28 05:14:44 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』112(全192回)毛利 輝元(1553~1625)もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。永禄6年(1563年)、11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り[注 1]、実質的な当主となるが、元就が死没するまで当主権限を元就が掌握する二頭政治体制が続くことになる[1]。同年の月山富田城の戦いで初陣を飾る。元亀2年(1571年)、元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。天正2年(1574年)には15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。その後、輝元は中国地方の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、九州や中国地方に勢力を拡大した。ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座してきたため、鞆に御所を提供して保護する(この時期を鞆幕府とも呼称)。このとき義昭は、かつて織田信長に与えた桐紋(足利氏の家紋)を輝元にも与えた。また、義昭は、兄・義輝と同じく、輝元を中国地方各地の守護に任じたとされている。織田家とは義昭の処遇について折衝を重ねる等、友好関係を保っていたがさらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。足利義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を糾合し、越後国の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対する。そうした外交的背景もあり、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。しかし3月に上杉謙信が死去、更に11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫する。淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が織田信長に通じて、毛利氏から離反した。天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。翌天正9年(1581年)には因幡国の鳥取城も兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていく。天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する。攻防戦の最中の同年6月2日、京都にて本能寺の変が発生。いち早く情報を得た秀吉は、明智光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けていると知らされた毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[3]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになった。信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。戦いの最中に吉川元春・元長親子を病で失った。天正16年(1588年)7月、主な家臣を連れて上洛し、従四位下参議に任官。豊臣姓と羽柴の名字を下賜され羽柴安芸宰相と称された。天正19年(1591年)3月、秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位権中納言となり安芸中納言と称された。慶長2年(1597年)には残された両川となっていた小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。同年、秀吉より五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。7月17日、家康が居を置き政務を摂っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した[注 7]。 その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の秀元と吉川広家を出陣させる。九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田九州残留軍や細川九州残留軍と戦闘を行う。また、西軍方毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父蜂須賀家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波国徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。しかし三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。四国・九州の毛利勢も順次撤退させる。家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石に大減封となった。関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、論功どおり形式的に嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩のトップの座に君臨し続けていた。慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門国に萩城の築城を開始し、居城とした。翌慶長10年(1605年)には家中統制の必要もあり、五郎太石事件に絡んで熊谷元直と天野元信らを粛清した。 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9411石[7]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩時も変わることはなかった。慶長19年(1614年)からの大坂の役においては、冬の陣で密かに重臣で母方の従兄弟の内藤元盛を「佐野道可」と称させて大坂城に送り込む一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して出陣するが、さしたる戦闘を毛利勢はほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。戦後、佐野道可を大坂城に送り込んだ疑惑が幕府に伝わり、佐野道可こと内藤元盛が自害した後、口封じのためにその子内藤元珍と粟屋元豊を自害に追い込み、元珍との約束を反故にして元珍の子・内藤元宣を幽閉して、自家を守った(佐野道可事件)。この大坂の役の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。元和4年(1618年)には、輝元毒殺の謀反の企て有りとの讒言を受け、以前より不仲であった吉見広長を追討し殺害した。元和9年(1623年)、正式に隠居した。寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。このとき、長井元房という武将(元房はかつて出奔したが、輝元に帰参を許された)が殉死している(元房の墓所は輝元夫婦と同じ)。

コメント

『歴史の時々変遷』(全361回)183“三瀬の変”「三瀬の変」天正4年11月25日(1576)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれ

2017-05-28 05:10:08 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)183“三瀬の変”「三瀬の変」天正4年11月25日(1576)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件である。永禄12年(1569年)、織田信長は伊勢国に兵を進めて、伊勢国司9代目北畠具房と戦い、大河内城の戦いで北畠家を追い詰めた。和睦の条件として信長は次男茶筅丸(後の織田信雄)と具房の妹の雪姫を婚姻させ、茶筅丸を北畠氏の養継嗣とさせる事に成功。元亀元年(1570)に具房の父具教は出家して不智斎と号し三瀬御所(現三重県多気郡大台町)に隠居した。元亀3年(1572)に茶筅丸は元服し北畠具豊と改名、同時に雪姫と正式に婚姻の上大河内城を廃して田丸城を新たに本拠とした。天正3年(1575)には信長の圧力によって具房も隠居に追い込まれ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となる。これで名実共に北畠家を掌握したかに思われた織田氏であったが、具教と立場を失ったその側近達は心服しておらず、元亀4年(1572)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。この事は天正4年(1576)には信長も知るところとなっており、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたという。同年夏には信意が紀伊国熊野攻略を狙ったものの堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司の家臣であった者もいたためさらに対立は深まった。天正4年(1576)11月、ついに信長・信意親子は北畠一族の抹殺を画策。信長は藤方朝成・長野左京進・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加を避けたものの結局は家臣の加留左京進を参加させた。11月25日、滝川雄利・柘植保重・加留左京進の3名の軍勢が三瀬御所を密かに包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男徳松丸、五男亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は大混乱となった。三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。一方で信意も同日11月25日に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。まず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)・坂内具義(具教娘婿)の3名を招き入れて、やがて信意が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが一斉に組み付いて長野具藤・北畠親成・坂内具義を刺し殺すと、そのまま城内にいた坂内千松丸(具義長男)や波瀬具祐・岩内光安らも殺された。更に病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良(教通)も標的となり、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって具良を殺害した。翌日11月26日には天野雄光・池尻平九衛門尉の2人が坂内具房(具義父)らが寄る坂内御所に到着したが、既に城内では坂内の家臣たちが謀反を起こして具房を殺しており、坂内御所は具房の首を天野・池尻に差し出して降伏した。これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は変後滝川一益預かりとなって長島城に幽閉された。
コメント

「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。

2017-05-28 05:05:05 | 史跡探訪
「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇九年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。
コメント

「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を

2017-05-28 04:59:57 | 史跡探訪
「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治二十三年)官幣大社として創建された。1940年(昭和十五年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭および奉祝行事「春の神武祭」が行われる4月3日にも多くの参拝者が訪れる。畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。県道を隔てた東側は奈良県立橿原公苑として整備されており、橿原公苑野球場や橿原公苑陸上競技場があり、スポーツ競技の奈良県予選決勝の舞台として頻繁に利用されている。公苑に隣接する施設として奈良県立橿原考古学研究所および付属博物館がある。また、付近は多数の陵墓が存在する。社務所に当たる組織は橿原神宮庁と呼ぶ。内拝殿が描かれた紀元二千六百年記念切手なっている
コメント

『河内史跡巡り』神宮寺小太郎伝説・お恩智には昔より、神宮寺小太郎伝説が残っている

2017-05-27 05:22:02 | 史跡探訪
『河内史跡巡り』神宮寺小太郎伝説・お恩智には昔より、神宮寺小太郎伝説が残っている。親より子供の頃より,神宮寺小太郎と言う豪族が恩智左近と共に南朝方の楠正成に属した「八臣の一人」である。活躍ぶりは地元に言い伝えられ、正成の湊川の合戦の討ち死に後、子正行とともに四条畷に出陣に討ち死にし、神宮寺城も落城した。城跡は南東の馬乗山の字垣内山にあって、東西五町、南北三町の武器を蓄えた城であった。遺跡は発掘され破壊されたという
コメント

“日本名僧・高僧伝”52・忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗

2017-05-27 05:15:33 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”52・忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った?)。大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのだろう。師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。『性公大徳譜』によると忍性が生涯で草創した伽藍83ヶ所(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)、供養した堂154ヶ所、結界した寺院79ヶ所、建立した塔婆20基、供養した塔婆25基、書写させた一切経14蔵、図絵した地蔵菩薩1355図、中国から取り寄せた律三大部186組、僧尼に与えた戒本3360巻、非人(ハンセン氏病患者など)に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所、築造した浴室・病屋・非人所5所にのぼるとされている。
◎略歴・安貞元年(1227年)信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を唱える(文殊菩薩信仰)。・貞永元年(1232年)死の床にあった母の懇願により、大和国額安寺に入って出家し官僧となる(官度)。三大文殊の一つ安倍寺(安倍文殊院)に参詣する。・天福元年(1233年)東大寺戒壇院にて受戒する。以後、文殊菩薩の化身と信じられていた行基ゆかりの竹林寺などで修行を重ねる。・嘉禎2年(1236年)7日間の断食を3度おこない文殊の五字呪を50万回唱える。・延応元年(1239年)叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となる。生駒に参籠し文殊を祈願する。・仁治元年(1240年)改めて額安寺で出家の儀式をやり直し、西大寺に入寺し叡尊教団に身を投じている。この頃、額安寺周辺の非人宿で文殊図像の供養をおこなう。・元元年(1243年)奈良の般若寺近辺に北山十八間戸創設。初めて関東に赴いて仏教事情を調査する。・寛元2年(1244年)文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう(亡母13回忌追善供養)。般若寺に丈六文殊像を安置。・寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。・宝治元年(1247年)同門の定舜が宋から持ち帰った律書(律三大部十八具)を受け取るために九州に下る。・建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固める。・正元元年(1259年)北条重時の招聘に応じ、鎌倉に隣接する極楽寺の寺地を相す。・弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出。北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。・弘長2年(1262年)北条時頼の要請により東下してきた叡尊に謁する。病気がちの叡尊に代わり授戒をおこなう。鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となる。弘長4年・文永元年(1264年)鎌倉雪ノ下で非人3000人を救済する。文永2年(1265年)灌頂を受けて阿闍梨となり、戒密兼修をすすめる。・文永11年(1274年)飢饉がおき飢えた人々に大仏谷で粥を施す。・建治元年(1275年)極楽寺炎上、堂塔灰燼に帰する。摂津多田院(現・多田神社)別当に就任し復興に努める。
• 弘安4年(1281年)弘安の役に際し幕府から御教書が下されて異国退散祈祷を行う。多田院本堂供養に際し周辺の山河を殺生禁断とする。・弘安6年(1283年)病者に療養を施す。・弘安7年(1284年)永福寺]・五大堂(明王院)]・大仏(高徳院の別当(責任者)に任命される。祈雨の法をおこなう。・弘安9年(1286年)幕府から御教書が下されて祈雨の法をおこなう。・弘安10年(1287年)極楽寺金堂落慶供養がおこなわれる。幕府の後援を受け鎌倉桑ヶ谷の病屋に病人を集める。以後20年間に46800人を治療したという。・正応元年(1288年)西大寺で叡尊に謁する。叡尊から改めて灌頂を受ける。・永仁元年(1293年)院宣により異国調伏を祈願する。東大寺大勧進に任命される。・永仁2年(1294年)摂津・四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し石の鳥居を築造する。・正安2年(1300年)極楽寺の一部炎上。・正安3年(1301年)祈雨の法をおこなう。・嘉元元年(1303年)祈雨の法をおこなう。極楽寺において87歳で死去。遺骨は大和国竹林寺・額安寺にも分骨された。嘉暦3年(1328年)後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許された。
コメント

『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期に

2017-05-27 05:07:57 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。諱は三長(みつなが)、数長(かずなが)とも言う。石川数正の長男として生まれ、徳川家康に仕える。天正12年(1584年)、家康の次男秀康が大坂に送られた際に本多成重(仙千代)や弟・康勝(勝千代)と共に扈従し[5]、翌天正13年(1585年)、父が家康の下を出奔して豊臣秀吉に仕えたのに従って、豊臣家に仕える。文禄元年(1592年)、文禄の役では父の代理として[6]肥前名護屋城に詰めて、在陣衆の1つとして500名を率いて駐屯した[7]。父の死去により、家督を継いで第2代藩主となり[8]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分知された。康長は父の代より続く居城の松本城(深志城)の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている。文禄3年(1595年)、伏見城普請を分担。慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。同年10月29日、従五位下式部大輔に叙任される[。慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、そのまま東軍に与する。徳川秀忠の中山道軍に従い、西軍の真田昌幸を攻撃することになり、康長は日根野吉重[11]と共に上田城の支城・冠者ヶ嶽城を攻めて大敗した[13]。このため関ヶ原本戦には参加できなかったが、東軍であったことで、所領は安堵された。慶長18年(1613年)10月19日、大久保長安と縁戚関係にあったことから、大久保長安事件に連座。領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次と共に改易され、康長の身柄は佐伯藩主毛利高政の預とされて、豊後佐伯に流罪に処された。改易の理由は、分限を超えた城普請が原因であったとする説や、幕府の外様大名外しであったとする説などもある。寛永19年(1642年)12月11日に配所で死去した。享年89[1]。
コメント