「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『浪速史跡めぐり』法善寺横町と水掛不動・歌に小説に大阪南の名所は「法善寺横町と水掛不動

2016-11-30 04:29:36 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』法善寺横町と水掛不動・歌に小説に大阪南の名所は「法善寺横町と水掛不動」である。夫婦善哉で馴染みの細い路地は法善寺に続気、飲食店街が軒を連ね夜ともなれば人の賑わいは、何処からともなく法善寺「水掛不動」願掛け、願を込めて夜のネオンに消えて行く、浪速の風情である。今も夫婦善哉の店といっても、今では善哉(善哉)を出す店は少ない一人前と注文しても二杯分をお客に出す、それは夫婦で一客で一対のぜんざいを出す、縁起の意味で出していた。横丁の呼び名は元々法善寺の境内で露店をしていた飲食店が定着したもので昭和十五年に長谷川幸延「オール読み物で同名の小説があって、また浪速の小説家織田作之助の小説が法善寺横丁を有名にさせた。また水掛け不動と言えば法善寺の境内の苔生した水掛け不動で苔が覆いつくし実際の不動が見えない。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ
コメント

『歴史の時々変遷』(全361回)26”長岡京遷都“ 「長岡京遷都」山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城

2016-11-30 04:21:47 | 歴史の時々変遷
『歴史の時々変遷』(全361回)26”長岡京遷都“
「長岡京遷都」山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。延暦3年(784)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都して造営され、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。桓武天皇は天武系とは異なる天智系の天皇であった。785年の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、その原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、和気清麻呂の建議もあって遷都僅か10年後の794年に平安京へ遷都することになる。もっとも、789年の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されている事から、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている]。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
コメント

「近畿三十六不動巡り」明王院・滋賀県大津市葛川坊村町にある天台宗の寺院。山は北嶺山(安曇山とも)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番

2016-11-30 04:14:59 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」明王院・滋賀県大津市葛川坊村町にある天台宗の寺院。山は北嶺山(安曇山とも)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番。開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行の創始者とされている。大津市域北端の葛川(かつらがわ)地区にあり、JR堅田駅からバスで45分ほどかかる深い山中である。葛川地区は1,000m級の山々が連なる比良山系の西側、安曇川(あどがわ)に沿った南北に細長い地区であり、安曇川に沿って、京都と北近江・若狭方面を結ぶ若狭街道(鯖街道とも)が通じる。街道沿いに八つの集落が南北に列なり、明王院がある坊村の集落は地区の中ほどに位置する。『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承五年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。



コメント

「二十二社巡り」大和神社・大和盆地は天理市の田園風景に巨大な森に広大な境内地を持つ大和神社は『延喜式』神名

2016-11-30 04:11:17 | 二十二社
「二十二社巡り」大和神社・大和盆地は天理市の田園風景に巨大な森に広大な境内地を持つ大和神社は『延喜式』神名に大和国山辺郡筆頭に「大和坐大国魂神社三社」と記されている。旧上街道から三百メートルはある参道の奥に、拝殿と本殿が建つ。拝殿は三社あって、中央に日本大国魂大神、向かって右に八千戈大神、左に御年大神が祀られている。日本大国魂大神とは大地主大神とも言い、地鎮祭に際には、この神に祈るのが習わしになっている。大和神社は寛平九年(897)に正一位に叙せられ、平安中期には二二社に列し、国家の大事に奉幣祈願を受けた。摂社、末社三十四を数えた。伊勢神宮に次いで重視されていたが、火災や兵乱によって衰退していった。長い時代を経て明治四年(1871)に官幣大社となって、翌年に社殿を新たに造営された。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。
コメント

速史跡めぐり』福沢諭吉誕生の地・ 堂島川に架かる玉江橋の北詰めに

2016-11-29 04:22:35 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』福沢諭吉誕生の地・
堂島川に架かる玉江橋の北詰めに、福沢諭吉の誕生地の碑が建つ、天保5年(1834)中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助急死の後、母と兄姉とも中津に帰ったが,兄の薦めで緒方洪庵の適塾に入門し蘭学を学んだ、後に塾頭になり、江戸幕府の海外使節団に随行し慶応義塾を開設した。明治時代を代表する啓蒙思想家として活躍した。また福澤諭吉の碑と共に豊前国中津藩蔵屋敷跡の碑も建っている。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
コメント

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 28・天下り説話 タケミカズチ神の国譲りによって、アメノオシホミミ神

2016-11-29 04:20:00 | 古事記が描く説話の憧...
『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)
28・天下り説話
タケミカズチ神の国譲りによって、アメノオシホミミ神「今、葦原中国の平定が終わったと報告が有った。委任をしたようにアメノオシホミミ神に葦原中国を統治をしなさい」と命じられた。
指示を受けたアメノオシホミミ神は「自分が天下りをしょうと用意をしている間に子が生まれました。
名はニニギ神と申します。この子に天下りをさせると良いと思います」アメノオシホミミ神は、すでにタカギ神の娘のヨロズトヨアキツシヒメ神と結婚をしていた。
ニニギ神の兄アメノホアカリ神が生まれていたが、弟のニニギ神が選ばれた。
そこでニニギ神に「豊葦原の水穂国に降り統治をしなさい」と命じられた。
そこでニニギ神が降ろうとされた。天上界から天の道の八つ辻の分岐点に立たれ降ろうとされたその時に、下から明かりを照らす神があった。
そこで不審に思ったアマテラス大神とタカギ神が、アメノウズメ神に「なよやかな女神(色気)である、『天孫が降ろうとする道で何をしょうとしているのか』と問うように」と命じられた。
アメノウズメ神に問われた不審な神が答えて「私は国つ神のサルタヒコ神です。ここでお待ちしている理由は、天つ神の天孫が天下れることを聞き、ならば先導しお仕え致したく、お迎えに参った次第です」と申し上げた。
用意が出来て、天降る時に、天の岩戸に使用した五種の首長分け加えて天下った。
“勾玉と鏡、草薙の剣”とまたお供に思金神・手力男神・天石門別神をお付けに成った。
それぞれの神々には、天下りにお祭りをする鎮座する神々に役割を与えた。地上で役割を与えられた神々は、それぞれの地域の氏族の祖先になられた。
そこで天孫のニニギ神には高天原の玉座を離れ、天の八重にたなびく雲を押し分けて、荘厳(そうごん)な御幸の道を歩み、開き進んで行った。
そこで地上を望める天の浮橋に浮島があるので、そこで悠々しく、立たれ、筑紫の日向の国の高千穂の聖なる峰に舞い降りられた。
天下りには、アメノオホシ神とアマツク神の二人が同行し、天上界の堅固な勒を背負い、柄頭が槌状の太刀を身に付けて、天のはじ弓を手に持ち、天の真(ま)鹿児(かご)矢(や)を脇にはそんで、先頭に立って、お仕え申したのである。
天と地の境界線に立たれたニニギ神は「ここより韓の国に向き合い、探し求めて笠紗の岬を通り行き、日差しの射す国、夕日が照り輝く国こそ、吉の地である」と示され、大地の岩盤に柱を太く立て天高く宮殿に千木を立てられた。
天降れたニニギ神はアメノウズメ神に命じて、この天下りに際して先導役を務めたサルタヒコ神に労われ、アメノウズメ神は猿女君として志摩の地に送って行くように命じられた。

☆天下りの説話場面は天上界ら地上に降る光景を描写したものである。
さしずめ天孫の御子ニニギ神が筑紫は日向の高千穂の峰に降った折は、感動的光景である。
二人の供を従えて、武具を持たせて悠然と神々しく荘厳に峰々の頂点に立つ光景はまさしく『古事記』最大の憧憬である。
 タケミカヅチ神の国譲りが成立を受けてアマテラス大神とタカキ神は、今、葦津中国の平定の報告が有ったので、以前に委任をしたアメノオシホミミ神に葦原中国に降るように指示が出された。
指示受けたアメノオシホミミ神は「自分が天下りをしようと支度をしている間に子が生まれました。
名は迹々芸神、この子を降す良いかと思います」とアマテラス大神に進言をした。
この御子はアメノオシホミミ神とタカキ神の娘の万幡豊秋津師比売神と結婚をし、兄の天火明神がいる。その次に生まれた御子が迹々(にに)芸(ぎ)神(かみ)である。
そこで再び迹々(にに)芸(ぎ)神(かみ)に葦原中国へ降ることに委任された。
言葉に従って迹々(にに)芸(ぎ)神(かみ)が天下りをしようとする時に、天の八辻の分岐点に差しかかた時に、上は天上を照らし、下が下界を照らす神がいた。
アマテラス大神とタカキ神がアメノウズメ神に向かって、お前はふくよかな女神である。
不審な神に出会ってもお前の眼力はにらみ勝つ神である。
お前ひとり行き問うべきは『我が子孫が天降ろうとする道に居るのは誰か」と問え』と指示された。
アメノウズメ神は支持された通り問うと、相手は自分を国つ神で、名は猿田毗古神です。
ここに来たわけは、天つ神の御子孫が天降るなされと聞き、先導してして、お仕えしたくて参りました。
先導するサルビコ神が案内役をかってきてくれて一同ここ強い思いで天降ることになった。
アメノコヤネ神・フトダマ神・イシコリドメ神・アメノウズメ神・タマノオヤ神の五神がそれぞれに五の職能を持つ首長を分けて加えて天下りをされた。(五つの職能は各氏族の祖先となった。アメノコヤネ神は中臣連・フトダマ神は忌部首の先祖・アメノウズメ神は猿女君の先祖・イシコリドメ神は鏡造り連の先祖・タマオヤ神は玉祖連の先祖)
そして三種の神器となる、勾玉・鏡・草薙の剣をトコヨオモイカネ神、テジカラオトコ神、アメノイワトワケ神に付けて下された。
アマテラス大神はこの鏡は唯一我が御霊として、我を祭ると同様に祝い祭りなさい。
次にオモイカネ神には今言った事を守り取り仕切り祭事執行しなさい。
ニニギ神とオモイカネ神の二神は伊勢の皇太神宮を拝み祭りなさい。
伊勢神宮の外宮として、渡会に鎮座する神、登(と)由宇(ゆう)気(け)神(かみ)を。宮廷の御門の神は天(あま)石戸(いしど)別(わけ)神(かみ)を。
以上の神々をアマテラス大神は任務と指示命令された。
ニニギ神は高天原の玉座を離れ、天の八重にたなびく雲を押分けて、荘厳な御幸の道を開き進んで、天の浮橋の浮島に立って、そこから筑紫の日向に向かって高千穂の聖なる峰に、お下りになった。この天降りに当たって、天忍日神と天津久米神の二人が同行し、天上界の堅固な勒を背負い、柄頭が槌状の太刀を身に付けて、天のはじ弓を手に持ち、天の真鹿児矢を脇にはそんで、先頭に立って、お仕え申したのである。
天と地の境界の地の山頂に天下ったニニギ神は「ここは韓の国に向き合い、探し求めて笠紗の岬に通り過ぎ、朝日の刺す国、夕日の照輝く国である。この土地も吉の場所である」と仰せになり、太地の岩盤に宮殿の柱を太くして、天空高く宮殿に千木を上げてお住まいになった。
☆猿女君になった天宇受売命
天降られた迹迹芸命は天宇受売命に「この度天降りの先導をつとめ仕えた猿田毗古神について、お前が送りなさい。またその神の御名はお前が受け継ぎお祭りしなさい」と仰せられた。
そこで猿田毗古之男神の名前を継いで、女は猿女君と呼ぶ縁起になった。
☆この猿田毗古神の海鼠(なまこ)についての謂れについて書かれている。
仰せに従って猿田毗古神を送って戻って海の大小に生き物を集めて「お前たちは天つ神の御子孫に仕えいたすかと問われた」多くの魚達は申したが海鼠だけは言わないので、天宇受売命は「この口だな、返事をしない口は」と言って小刀で口を裂いた、だから今でも海鼠の口は避けていると言う説話である。
◎猿田毗古神を無事送り届けて、猿女君の天宇受売は天の岩屋戸の時にも踊り舞い天照大御神を気を引き連れ出す時に大活躍、その役割は行事の祭司のような役目、それが霊能者や祈祷師、大嘗祭、鎮魂祭に進化させていたのではと思われる。猿女の元々の居住地は稗田(奈良県は大和郡山市付近)『古事記』を誦習した稗田阿礼の出身地とされている。天宇受売は稗田阿礼の祖先と言われている。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。



コメント

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)116“足利義詮”足利義詮(1330~1367)室町幕府二代将軍。延文三年(1358)九年間在職

2016-11-29 04:16:55 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)116“足利義詮”
足利義詮(1330~1367)室町幕府二代将軍。延文三年(1358)九年間在職。初代鎌倉公方。足利尊氏の三男。母は赤崎登子。新田義貞の鎌倉攻めに合流、建武政権崩壊後、関東を統治した。貞和五年(一三四九)の足利直義と高師直の対立の際に末弟基氏と交替して上洛、幕府の政務を見る。観応の擾乱後、尊氏の鎌倉下向中に西国の政務を代行、正平一統で北朝の光厳上皇ら南朝に拉致されたが、後光厳天皇を擁立して北朝の断絶を回避。尊氏の死後征夷大将軍となって、将軍の政務独裁の基本を作りあげたが、執事の権限範囲が確定せず、執事の細川清氏また斯波義将と佐々木高氏らと抗争が繰り返した。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
コメント

「西国四十九薬師巡り」久米寺・奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山

2016-11-29 04:13:23 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」久米寺・奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊は薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。仏塔古寺十八尊第九番。大和三山の一つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える。一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けている。久米仙人の伝説(後述)がフィクションであることは言うまでもなく、創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の一つである『大日経』を感得(発見)したとされている。空海が撰文した「益田池碑銘并序」には、「来眼精舎」(くめしょうじゃ)として言及されており、空海とも関係があったと思われる。なお、橿原市の隣の明日香村奥山に「奥山久米寺跡」があり、この寺についても来目皇子創建とする伝承がある。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
コメント

「二十二社巡り」北野天満宮・京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社。

2016-11-29 04:10:00 | 二十二社
「二十二社巡り」北野天満宮・京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社。通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。祭神・主祭神菅原道真公・相殿神・中将殿・吉祥女を祀る。延喜三年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後二十年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶五年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、五年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。その後室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する。天正十五年(1587年)境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


コメント

『浪速史跡めぐり』四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界

2016-11-28 04:32:22 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界を想定して作られた「極楽浄土の庭」として公開されている。自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m²の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。 造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。
「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたものである。
長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。
★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
コメント

『歴史の時々変遷』(全361回)25“氷上川継の乱” 「氷上川継の乱」奈良時代の反乱未遂事件。天応2年(782)に天武天皇の曾孫

2016-11-28 04:28:06 | 歴史の時々変遷
『歴史の時々変遷』(全361回)25“氷上川継の乱”
「氷上川継の乱」奈良時代の反乱未遂事件。天応2年(782)に天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を計画し、事前に発覚して失敗したというものである。宝亀元年(770)8月に称徳天皇が崩御し、天智天皇の孫の白壁王が践祚した(光仁天皇)。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を世襲してきたが、天武系の皇族の多くは打ち続いた政変に伴って殺害や処罰により政治生命を絶たれたり、あるいは賜姓を受けて臣籍降下していた。称徳天皇の崩御により、それまで維持されてきた「天武-草壁-文武-聖武-称徳」という皇位の天武系嫡流の直系継承は途絶え、天智系の天皇が復活することになった。ただし、光仁天皇の即位については、彼が聖武天皇の皇女の井上内親王を妻として、その間に他戸親王を儲けていたことが大きく与っており、光仁天皇は女系では天武系の天皇といえた。氷上川継は、新田部親王の子・氷上塩焼と、聖武天皇の娘・不破内親王(井上内親王の同母姉妹)の間に生まれた男子で、天武天皇の曾孫にあたる。しかし、父の塩焼が藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、母の不破内親王も称徳天皇を呪詛したとして皇親の身分を奪われており、称徳天皇崩後の皇位継承候補には挙げられていなかった。しかし、父と母の両方を通じて天武天皇に繋がるその血統は、反政府勢力の期待を集めるとともに、朝廷側の警戒をも招いていた。天応元年(781)4月に光仁天皇は皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位した。太上天皇となった光仁天皇は同年12月に崩御する。翌天応2年(782)閏正月10日に川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入したところを、発見されて捕縛される事件が起きた。乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画を自白する。謀反の内容は、同日の夜に川継が一味を集めて北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆するというものであった。翌11日に川継を召喚する勅使が派遣されたが、川継はこれを知って逃亡したため、三関の固関と川継の捕縛が命じられた。14日に至って川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流とされ、川継の妻・藤原法壱も夫に同行した。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。さらに、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥として大宰府に赴任していたが、連座して参議を解任された。浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。この後、京家出身の公卿は、浜成の子・藤原継彦が従三位、孫・冬緒が大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。




コメント

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇” 光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)

2016-11-28 04:24:18 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇”
光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)から二年間在位。名は量仁。父は後伏見天皇、母は広義門院寧子。嘉暦元年(1326)立太子。1331年討幕の為に京都を脱出した後醍醐天皇に代わって、鎌倉幕府の要請によって践祚。幕府滅亡後は後醍醐天皇によっては廃された。しかし、建武親政に離反した足利尊氏の求めに応じて、1336年朝敵の名を免れるために院宣を与え、同年足利尊氏は入京すると弟の光明天皇を践祚させて院政を開始した。これが南北朝両朝分立の端緒となった。光厳院政は子の崇光天皇の即位後も継続された。正平一統によって崇光天皇は廃止され、院政は停止。その後、光厳院は光明・崇光院らと共に南朝に拉致され、河内東条。大和賀名生、河内金剛寺を転々とした。この間賀名生で出家。1357年に京に帰り、崇光流の所領の維持を命じたのち、丹波国山国荘し、同所で死去した。★史跡が教える先人の葛藤と情景に学ぶ教訓。
コメント

「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院

2016-11-28 04:21:16 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、同派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つ。本尊は弥勒菩薩。近畿三十六不動尊霊場第三十一番札所。龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れていて、修験者たちから「清めの水」とされ、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として著名である。洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている[1]。洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣講を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。毎年10月に、八大龍王堂大祭が行われる。伝承によれば、 700年頃、大峰山で修行していた役小角が、この地に泉を発見し、「龍の口」と名づけて、その側に小堂を建て、八大龍王を祀ったのが起源とされる。龍泉寺ができてから二百年ほど後、寺から1kmほど上流にある「蟷螂の岩屋」に雌雄の大蛇が住みつき、人々を襲ったため、修験者たちが訪れなくなり、寺も衰退した。そこで、当山派修験道の祖とされる聖宝が、真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したとされる。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
コメント

「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地

2016-11-28 04:17:47 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地、修験道の霊地である。熊野三山は本宮・速玉・那智大社化の形成されている。紀伊半島から西側に南下し、田辺から入る中辺路(筆者も少し歩いた)高野山からの小辺路、大峰山からの行者道、伊勢からの伊勢路を古代の人々は熊野に目指した。祭神は中央本殿(第三殿、証誠殿)には家都美御子大神(素盞鳴尊・本地は阿弥陀如来)相殿の第一殿(西側前)熊野牟須美神(伊奘冉尊・本地は千手観音)事解男神、第二殿(中御前)には、御子速玉之男(本地は薬師)・伊奘諾尊を祀る。第四殿には天照大神(本地は十一面観音)を祀る。以上を上四殿と言う。後第五殿から第十二殿までを中・下に各四社を祀り合わせ熊野十二社権と言う。鎌倉時代には時宗の開祖一遍上人が参篭し阿弥陀仏を感得したという。所が熊野本宮大社は明治二十二年(1889)熊野川の洪水で社は流され、現在の地に移築された。熊野川と支流の合流の中州にあった場所は今は「大斎原(おおゆはら)」として大切に守られている。熊野速玉大社、熊野那智大社に比べ本宮は古式蒼然として鎮座し霊気が漂う気がする。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
コメント

『浪速史跡めぐり』大依おおよさみ羅神社じんじゃ・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。

2016-11-27 04:58:21 | 浪速史跡巡り
『浪速史跡めぐり』大依(おおよさみ)羅神社(じんじゃ)・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。祭神は開化天皇の第四皇子の豊波豆羅和気王を主神に住吉三神を合祀する。主神の依羅吾彦男垂見が、仲哀天皇の熊襲征伐に従ったこともあり、依羅氏は代々神官を勤め、南北朝の動乱で依羅氏が滅亡すると、社殿も焼失したと言う。現在の社殿は昭和四十六年に再建されたもので、本殿西北側にある、古井戸は「雨乞いの井戸」「摂津名所絵図会」にも「庭井に泉」と記されていて庭井の泉の石碑が残っている。この神社の南門を出て参道を進むと、大和川の堤防沿いに行くと、依羅池跡の石碑が立ち「日本書紀」に河内狭山の水が少ないので、勅によって造られた。勿論大和川は江戸時代造られたので古代には池が必要だったのだろう。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
コメント