「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「史跡探訪」鳥取藩主池田家墓所・

2016-07-31 04:26:12 | 史跡探訪
「史跡探訪」鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所として元禄6年(1693)現在の鳥取市国府町奥谷に池田家の廟所と定め代々の藩主とその関係者の墓所が設置された。この地の墓所は池田家の菩提寺の伯耆国興禅寺からその末寺として「清源寺」として明治の廃藩置県まで墓所の管理をされてきた。

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2016-07-31 04:23:44 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」善福寺(どんどろ大師)・JR玉造駅から西、真田山の上町台地の凹凸の丘陵の坂を下った所の角に善福寺がある。真言宗で本尊は弘法大師であるが本来は薬師如来と不動尊であったが戦災や戦国の戦乱で、この寺も点々としたらしく、狭い境内ではあるが由緒と歴史にその足跡が残っている寺である。創建は聖徳太子である。元和元年の夏の陣でその霊を弔うために「どんどろ大師」善福寺引き続き開創された、当初は鏡如庵大師堂といって、「浪華大師」巡りの道順に当たり、その賑わいは特に二十一日のお大師参りは「摂津名所図」にも記されている。江戸時代徳川四天王と言われた、大老土井利勝の孫の利位が大阪城に拝命を受け、この地の玉造の辺りに屋敷を構え厚く当庵の大師に帰依し、誰言うともなく「どんどろ大師」と云う様に成った。その後大坂夏の陣に廃仏毀釈で一時廃寺になったが、能勢の善福寺をこの地移し現代に至っている。境内には勝軍地蔵尊(青銅製)があり、大師堂に修行大師像があるが、修行大師には笠がないのは戦時中に供出したためと言う。*鏡如庵(どんどろ大師)は大坂夏の陣でこの辺りは真田幸村が真田丸を築き激戦地であった。その戦いで亡くなった戦死者の霊を弔うために「鏡如庵大師堂」と称して二十一日の大師の縁日に多くの参拝者があったという。
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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十一、平忠常の乱

2016-07-31 04:21:53 | 古代史群像の標榜

『古代史群像の標榜』(全58回)
五十一、平忠常の乱

東国で将門(まさかど)の乱から一世紀近く経って、万寿五年(1028)上総権介平忠常が安房守惟(これ)忠の館を襲撃して惟忠を焼き殺し、続いて忠常は上総国の国衙を占拠してしまう。上野介県犬養(あがたいぬかい)爲(ため)政(まさ)の館を占拠して受領を軟禁した。
県犬養爲政の妻子が都に逃れ、これを見て上総国の民は忠常に加担し反乱は房総三国に広まった。
これは上総の「国人」「州民」が受領の妻子の帰京に反発をして起きた事態だった。
この事件は広範な在官人などが参加し凶党の蜂起であった。これを平忠常が住国上総を越えて反受領の指揮をしたのは上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)など数カ国に広まっていた。
坂東諸国は将門の乱以来荒廃し、受領たちの使命は公田の復興、荒廃公田の再開発に反発をしたのは国衙役人や在庁官人・田堵(平安時代の荘園を荘田や公田を経営し年貢・公事を納付する農民)らの反発を吸収し平忠常が蜂起した。
しかし平忠常は朝廷に敵対する意思はなかったと思われる。蜂起をしたものの何らかの妥協案を模索し朝廷の出方を見守っていた。
一方平忠常の蜂起の知らせを聞いた朝廷は驚き、直ちに追補の決断、公卿たちの会議で伊勢前司源頼信を推挙、受領としての実績と、武勇の名声、行動の慎重さが公卿たちの信頼を得ていたのだろう。
所が後で一条天皇の追討の勅定によって検非違使の検非違使平直方であった。追討次官に中原成通に任じられ、多数の公卿を抑え変更されたか、追討には二派の意向が働いた。関白頼通の強い働きかけ、もう一つは政界の長老右大臣実資の意向、二人は一応協調関係であった。
実資が天皇、頼通、が直方を指しそれを同意して勅定となった。
こうして追討に任命された平直方・中原成通は国衙指揮(地方の国の役人)・兵糧米徴収権等九か条に及ぶ権限の付与を求めた。
それに対して実資は申請項目を短く三箇条に短縮することを求めた。こう言った申請には自分も私腹を肥やせる機会とみて好条件を引き出そうとしたからである。それを熟知をしていた実資は権限を抑制したのである。
実資の指示を拒んだ成通と、指示に従った直方は不和となって、成通は母の病状を理由に追討使の返上をした。この間に平忠常の複数の密使が宮廷工作に密書を持って入京した。検非違使の尋問に密使は、忠常は二、三〇騎程の兵力で夷灊山(いしみやま)に立て籠もっている情報を得た。またその密使は忠常が籠る夷灊山の届けて欲しいと言った。
朝廷側は交渉などする気が無く、それに対して『小右記』には追討の成通と直方は二百人の随兵を引き連れて熱狂の中、坂東に向かった。また成功すれ英雄の内に熱狂的に迎えられるはずだった。
朝廷は同時に追討軍の支援の手立てを打った。上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅の孫致方、甲府守に支援されるべく候補の頼信、安房守に維衡(これひら)の子平公雅とそうそうたる陣営である。
二度目の追討に直方軍は房総三カ国で激しく戦ったが、なかなか決着がつかなく直方は更迭が決まった。立て籠もった平忠常は消息が分からなくなって出家をしたとか噂が流れ、人伝に直方に「志」の贈り物送ってくる始末、おまけに坂東の有力武士たちは追討官符にも応じず、その間平忠常は夷灊山に籠って神出鬼没で追討軍をほんろうした。
二年間合戦らしい合戦をせず、坂東の追討の為に公田は荒廃し、兵糧米は底をつき疲弊をして行った。
平忠常の蜂起勃発後、三年にして改めて長元三年(1030)甲斐守源頼信が追討使に任命された。
追討に赴いた頼信は忠常の子息法師を使者を立て粘り強く説得をした。そこで忠常は四則法師ともなって甲斐の頼信の許に来て降伏し、名簿を捧げて従者になる事を誓いった。
忠常は上洛する途中で重病になり、美濃国で死去した。頼信は国衙に検視をさせて、首を切り忠常の従者に持たせて入京させた。
この乱の処理に朝廷は頼信に恩賞を与え、常昌らの追討の赦免を決定された。

★平忠常(?~1031)葛原親王の曾孫村岡五郎平良文を祖父に、陸奥介忠頼を父とする。下総に多くの領地を所有、上総介、武蔵国押領使(おうりょうし)となって勢力を上総・下総・安房に伸ばした。藤原教通の従者に、平頼義の家人(けにん)となるが国衙に敵対し、安房国司を殺害、追討使平直方と三年間戦った。その後頼義の追討に降伏し護送の途中で病死をした。子孫は処罰を受けず千葉氏・上総氏として繁栄をした。
★平直方(生没年月日不詳)惟時の子、摂関家の家人として武力を担う。桓武平氏北条流、上総介、従五位上・検非違使右衛門尉(うえもんじょう)、平忠常の追討使に任じられた、三年に渡る忠常との戦いに激しい抵抗に遭い鎮圧が出来ず更迭された。変わって忠常を鎮圧した源頼信の子、頼義を婿とし、東国経営の拠点の鎌倉を譲る。義家の外孫にあたる。

※平忠常の乱は上総・下総・安房の国々の国衙への不満と将門の乱から荒廃し統制の執れない事態に、国衙役人の妻子が京に逃れようとしたことに端を発した。不満は国人、洲民から農民や荘園に従事する者から官庁官人までの不満を吸収した忠常は遂に蜂起をした。
当初事の次第によっては妥協し事の治まることを模索していたが、この事態に朝廷は忠常の反乱と決めて追討使に平直方を派遣した所が、平直方を派遣しても成果が上がらず、逆に坂東武士の反目に遭い協力が得有られず、更迭をさせられた。
次に派遣されたのは甲斐国源頼信であった。頼信は粘り強く説得した結果、降伏に応じた。忠常は京に護送される途中尾張で病死をした。
奥州経営は土着の民、俘囚の民から豪族の意向を無視しては統治はできないことを思い知らされた。
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滋賀古社寺探訪」延暦寺

2016-07-31 04:17:47 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成六年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁十四年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。最澄は俗名を三津首広野といい、天平神護二年(766年)、近江国滋賀郡に生まれた(生年は767年説もある)。十五歳の宝亀十一年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。二十歳の延暦四年(786年)、奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」を研究した。


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「岡山古社寺探訪」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命

2016-07-31 04:11:53 | 岡山古社寺探訪
「岡山古社寺探訪」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命
岡山県岡山市一宮1043・旧国弊小社
主祭神に大吉備津彦命に相殿には孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇の四天皇に天足彦国押入命・吉備武彦の六柱が祀られている。
古代信仰とされる御神体の吉備中山と広大な境内を持ち、神池には鶴島と亀島の二つの島がある。巨大な磐座郡には元宮奥宮で天御中主大神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神が鎮座し、山頂の吉備中山の茶臼山と名付ける所に、祭神の吉備津彦命の祖廟がる。
社殿前には東洋一と言われる大きな石燈篭がある。
社伝に依れば推古朝に創祀されたと言う。歴史的検証から大化改新以後の創建と考えられている。
他の吉備津神社同様に朝廷に崇敬されてきた。
承和七年(840)には一品の神階を授けられた。長保年間、応徳年間。天永年間、勅営による社殿改修が行われた。
やはりこの神社も中世の神仏習合の時勢には正宮・本宮・摂社などと神宮寺・神力寺・常行堂・法華堂も建てられて総括され吉備津宮と称し、一品一宮吉備津大明神として崇敬されている。
ただこの神社に訪れて感じることは、朝鮮の影響を受けた形跡があると言うことである。韓式の鳥居が有り、中国張道陵が開祖した道教が入り磐座神社ある。鳥居も神宮も渡来氏族の影響が窺える。
江戸時代になると岡山藩主池田氏の崇敬も厚く度々改修が行われた。
この付近には古墳群が存在し古代吉備国を象徴する。
★吉備国平定後は崇神天皇六〇年には武淳川別命ともに進んで出雲を征し、当時の出雲タケル、出雲振根を倒した子孫が吉備氏であると言う説もある。
岡山の名物「吉備団子」は西道将軍としての吉備津大明神と桃太郎伝説がる。何らかの古代吉備国に謎を秘めたものではないかと言われている。

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「浪速今昔百景」五智光院・

2016-07-30 04:20:21 | 浪速今昔百景

「浪速今昔百景」五智光院・文治三年(1187)後白河法皇が四天王寺に於いて灌頂を受けた。その際に灌頂堂として建立したのが始まりとされ、元和九年(1623)に徳川秀忠公が再建をした。元は極楽門の南側に、現在は弘法大師像付近に位置し、明治三四年(1901)現在の地に移築した。本尊五智如来・(阿閦如来・阿弥陀如来・宝生如来・大日如来・不空成就如来)

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「史跡探訪」仁風閣

2016-07-30 04:19:14 | 史跡探訪
「史跡探訪」仁風閣・仁風閣は明治40年に鳥取当主14代池田仲博伯爵が宮廷建築外一人者の片山東熊工学博士の設計によって建てられた。明治39年に着工僅か8カ月で完成、翌年の40年に大正天皇の山陰地方行啓の宿舎として使用された。その時に随行をした東郷平八郎が、この仁風閣と命名をした。
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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十、平安文学の清少納言・和泉式部・紫式部

2016-07-30 04:16:45 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)

五十、平安文学の清少納言(せいしょうなごん)・和泉式部(いずみしきぶ)・紫式部(むらさきしきぶ)

平安時代の代表文学の才女は清少納言と和泉式部と紫式部である。三人は女官として、身分は女房、式部省で、特に公家に住持した女性で女房の房は部屋付を表わし、身分の高い出自の宮廷につかえる女官である。女房について何人位いてどの役職に仕えていたのか資料が乏しく解ってはいない。
そんな女房の中に和歌に精通し物語として清少納言の『枕草子』と『和泉式部(いずみしきぶ)日記(にっき)』と紫式部の『源氏物語』が代表的である。
もしこの女流作家が宮廷に在って和歌や散文風の文集を顕さければ平安時代の“つま美やかな”『平安絵巻』を今日で我々は知ることが出来なかった。
そう言った意味で彼女らのこした貴重な、文学は重要な記述なのである。

清少納言は皇后定子に仕えた女房である。その出没についての詳細は分ってはいない。
父は肥後守清原元輔で和歌の道では知られた人物である。天暦の時代に『後撰和歌集』を選集した梨壺(天暦五年梨壺に置かれた和歌所の寄人(よううど)。)元輔(もとすけ)が亡くなった時には清少納言はすでに結婚をしていたがその夫も定かではないが橘則光とも言われている。その結婚が失敗に終わって宮廷勤めに入ったようである。
清少納言の使えていた中宮定子に強く影響され、定子の理解がなければとても『枕草子』を書くこともままならなかっただろう。
また宮廷での高尚な和歌や文学をたしなむに、多分定子から受けた教養が大きく影響されている。
当時中宮定子は十七歳、関白道隆(みちたか)を父として、学者の家として有名な高階氏出身の貴子を母とする定子ついて『枕草子』の中で語っている処によれば、才知優れ、心優しく定子に和歌などの手解きをしたのであろう。
しかし定子が二十五歳でなくなる十年有を宮廷に仕えながら優雅な公家の世界を垣間見た。
清少納言の本には雑纂形態と類纂形態とがあって、宮廷に在った事柄を、外なる事柄、随意生活、四季の情諏、人生などに関する随想・見聞を、歌枕(うたまくら)類聚(るいじゅ)・日記回想などとして記す。鋭い写実と才気煥発の筆政は紫式部の源氏物語と共に平安文学の双璧と言われている。
『枕草子』長短三百からの章段から成り、冒頭の『春あけぼの』の段から、末尾を跋(ばつ)文(ぶん)を置く。内容や形式から、連想された物事を集めた類聚的章段、自然や人事の関する感想を自由に叙実式に、随想的章段、など一条天皇の中宮に仕えた女官の体験を基に記した日記的章段を宮中の有様などを随筆風に書き綴っている

和泉式部は父母は共に高級官職に仕える家柄、長元元年(999)和泉守・橘(たちばな)道(みち)貞(さだ)の妻となり夫と共に和泉国に入り、和泉式部は夫婦二人で合わせた官名である。
生れた娘は母譲りの歌人の才能を発揮している。その後道貞とは離婚し、「和泉式部日記」を地で行く人生を送っているようだ。
宮廷では恋沙汰が多々見られ、冷泉天皇の皇子の為尊親王の熟愛の噂が流れ、身分の差から親から勘当を受け、紫式部を評して、“式部と言う人は書くことは面白く、“生き様はけしからんこと”と評している。
爲尊親王が亡くなると、次に藤原道長の家人の藤原保昌と再婚し丹後に向かった。その後に付いては諸国の伝説にある墓所は岩手・福島・岐阜・堺・岸和田・伊丹・京都太秦・亀岡・山口の小野田市・佐賀、嬉野と職に点在する。
和泉式部伝説は日本諸国に残されている。和泉式部の性格を反映して、行く先々で歌問答歌人と言う立場上、行く先々で歌問答をしたので伝説が生まれたのかも知れない
鎌倉時代には式部が播磨は書写山の性(しょう)空(くう)上人に、その罪を懺悔をし、後に京とは誓願寺に庵を結んで阿弥陀仏を信仰して往生した伝説である。
しかしその詳細は解ってはいない。
何故式部が自分の罪を懺悔したかに付いて、宮廷で浮名を流し、恋愛遍歴が多く「浮かれ女」と処され、その多情の性を悔い改め阿弥陀に信仰の懺悔に繋がったのではないだろうか。
『和泉式部日記』は日記文学、仮名の女流日記。和泉式部の自作と通説。作者が自らを「女」として三人様的の語るからである。歌と散文に濃厚い叙情性、一人称な自照性は日記文学・物語文学と未分化を示すもので、和泉式部が水ら物語した作品する女流日記であると考えられている。
和泉式部と敦道親王(冷泉天皇の皇子)との愛の歴史を二人の贈答歌一四五首を中心にして描く。その前年の夏に爲尊親王を失った女(式部)の元に敦道親王の弟の使者が訪れて始まった二人の関係は夏から秋へ、更に冬に季節の移り変わる中、二人の愛情が急に破局を迎える。



紫式部も出自生没の詳細は解っていないが近年徐々に解き明かされつつあって、紫式部は父は学者で詩人藤原為時の娘で、母は藤原爲信の女であり幼少にして母を亡くし同母兄弟に藤原惟規がいて他に姉がいた。
父方には三条右大臣藤原定方、堤中納言藤原兼(かね)輔(すけ)は父方の曽祖父で家柄は悪くなく、何れをとっても文才ぞろいである。
結婚は藤原宣孝に嫁ぎ一女を生んで夫の死後、宮廷に招かね一条天皇の中宮の藤原彰子に仕えている時に『源氏物語』を執筆したようである。彼女の文才の誉れの高さは、父爲時が何故に男に生れてこなかったのかと嘆いたそうである。
長徳二年(996)父爲時の越前守に赴任をしたが、式部も従って同行したらしく『紫式部集』に道中詠が読み込まれている。
やがて帰京し藤原宣孝と結婚し娘の賢子が生まれた。その後夫は死んでしまい、宮廷勤めは夫と死別後で、最初に仕えたのは道長の正妻の彰子の母の倫子の女房になった。
こうして女房として宮廷仕えで知り得た公家と天皇に取り巻く複雑な人間関係を物語として完成させた。『枕草子』は断片的に随筆風書き綴ったのに対して『源氏物語』筋書きが統一されていて五十四帖に優雅な平安絵巻の如く語り綴られている。
また道長と言う最高権力者の土御門邸の中で繰り広げられる様々な出来事を式部がつぶさに見て知って経験を許に祝宴の模様や親王の出産の光景を書き記している。
彰子の出産後土御門邸から内裏一条院に入った彰子に下でも女房達が手分けをし、『源氏物語』の豪華な清書作りに精を出し制作をしていたらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておくと道長が部屋を探し続けて見つけ出し、三条天皇の妃の姸子に贈ってしまったと言う。
一条天皇が人に読ませて、式部の才能を称賛し、宮廷では人気作家として評判の物語で回し読みする者、書き写しては楽しんだのではないだろうか。
あの強権道長が『源氏物語』のよき理解者で後ろ盾としていたことが窺える。
主人公の光源氏が現実味を帯びて共感を呼んだのではないかと思われる。
『源氏物語』紫式部は一条天皇の中宮彰子に仕えた経験から作成されたと思われ全巻に渡って一人の作かは不明、長文の五十四巻からなっていて。
光源氏が主人公、首巻の「桐壷の巻から最終巻の夢浮橋まで巻名が付けられ、物語は光源氏の在世時代から、死後末裔時代まで展開されている。桐壷と帝の間に生まれた光源氏は帝の寵愛の藤壺に在らぬ関係でその間に男子が生まれる。
その後生まれた皇子が即位し、その密通で苦悩する。光源氏は恋の遍歴を繰り返した。
そんな華やかで宮中の男女の性の光源氏を主人公にして不毛な遍歴を重ねて行く源氏の姿を描写したものである。

★清少納言(966~?)随筆作家、歌人、父は清原元(もと)輔(すけ)は梨壺の五人の一人。清少納言と呼ばれていたかは不明、一条天皇の中宮に仕えていたことから通称「清少納言」と呼ばれているなど由来は不明、父、祖父深養も著名な歌人。そんな環境で教養は育まれた。父は受領階級、そんな悲哀を『枕草子』に書き込まれている。元輔と共に周防(すほう)守に赴任し四年後帰京後、橘則光と結婚し、長子を設けた後離婚し、その後は女官として道隆の娘定子の後宮に仕官し、八年間定子に仕え、この間に『枕草子』を完成したのではないかと思われている。定子の死後、摂津守の藤原棟世と結婚し一女を設けている。

★和泉式部(978~?)平安時代の歌人、和泉とも呼ばれ。童女名は御許(おもと)丸(まる)と伝えられ、父は越前守大江雅政、母は越中平保衡女(やすひらじょ)。父母とも宮廷に仕えていた。父は太皇太后宮大進。
母は太皇太后后に仕えていた。父の官職から推測して和泉式部の結婚相手が太皇太后宮権大進であった和泉守橘道貞と結婚し、一女小式武内待を産む、その後受領階級の道貞に飽き足らず、爲尊親王と恋愛関係になる。またその弟の敦道親王とも求愛され、歌の贈答歌がある。
その親王も若くして亡くなって、藤原保昌五十三歳と結婚をする。情愛の遍歴は宮廷内でも有名であったようである。

★紫式部(970~?)平安期の女流作家、歌人、日記作者。『源氏物語』の作家として知られ、本命は不詳。父は藤原爲時良門流、学者・詩人と知られ、冬嗣の六代孫。母は藤原爲信の女、幼少にして母を亡くし、父爲時が詩句の才能を見いだされ道長の計らいで越前守に任じられ、赴任地に下向する。
その時の体験が紫式部の作風に影響されている。二年後帰京し賀茂際の舞人を務め、山城守に任じられた。その後、紫式部は藤原宣孝と結婚した。紫式部は三十歳前後の晩婚、相手の宣孝は再婚であった。  宣孝の間に一女を設ける。長和四年年(1031)に四十五歳で没した。

※平安時代を代表する文学者の清少納言・和泉式部・紫式部は共に宮廷に仕える、女官「女房」である。それだけ宮廷社会は和歌を通じて文学が盛んで見識も高いものと思われる。
彼女たちの歌、詩文、物語が後世に大きな影響を与え、時代は変わっても人情と憎愛と柵の中で平安時代の人間模様と時代の背景と、詳細な情景が窺えるもので実に貴重な史料である。我々は後世の余すことなく語り継ぎ日本文学の原点を探ることが出来るものである。


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2016-07-30 04:14:11 | 三重古社寺探訪
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「滋賀古社寺探訪」立木山寺”新西国20番札所

2016-07-30 04:13:03 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。寺伝によれば、815年(弘仁六年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れないでいるところに白鹿が現れ、大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたという。この時、空海が厄年の四二歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな観音像として信仰されることとなった。当寺は現在浄土宗に属するが、空海開基の伝承をもつことから、創建当初は真言密教系の寺院であったと推定される。
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「三重古社寺探訪」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命・

2016-07-30 04:07:24 | 三重古社寺探訪
「三重古社寺探訪」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命(大毘古命)・配神少彦名命・金山比咩命
三重県伊賀市一ノ宮877・式内社・旧国弊中社・大彦命は孝元天皇の皇子で『日本書紀』では四将軍の一人で北陸を平定後この地に移り、伊賀国の開拓を行なったと言う。大彦命(『古事記』では大毘古命)の御陵とされる御墓山古墳が有って、その子孫は伊賀中に広がったと言う。阿拝群(あへのこおり)を本拠にしたために「阿拝氏」を称した。後に阿閉・阿倍・安倍なども表した。敢国神社の祭神は中世まで少彦名命・金山比咩命とされたが、明治七年(1874)、江戸時代の渡会延経の説により大彦命に変更された。
創建について敢国神社の略紀に依れば斉明四年(658)で、この地の居住者の秦氏が少彦名命を祀り、一方大彦命の子孫の阿拝氏が祖神として大彦命を祀った。また当初神社を南方の山に祀ったが、後に現在の地に移された。その後前社殿の跡地に美濃国の一ノ宮の祭神南宮大社より勧請された金山比咩(かなやまひめ)命(みこと)が祀られたために「南宮山」と呼ばれた。その後、言い伝えによれば金山比咩命の社殿の神木の虫食い後の文字が「敢国神社に一緒に祀れ」の文字が現れたので神意に従って合祀された。この敢国神社も時代の趨勢に翻弄され、伊賀天正の乱では森田浄雲の立て籠もる一ノ宮城と共に織田軍に攻められて炎上・崩壊した。信長がその戦場跡を視察の折には、伊賀忍者に襲撃されあわや落命を免れた説話がある。
その後、伊賀国一ノ宮として崇敬され、江戸時代には上野城鬼門の鎮護として、藤堂氏らの歴代藩主によって加護された。明治になって旧国弊中社に列せられた。★『古事記』では大彦命については、孝元天皇の第一皇子に大毗(おおび)古(こ)命(みこと)が生まれ、次に少名(しょうな)日子(ひこ)建(け)猪(い)心命(こころみこと)。次に若(わか)倭(やまと)根子(ねこ)日子大毘々(ひこおおほびび)命(みこと)(開化天皇)。次に他の妃から比古布都押之信命。次に建波邇夜須毘古命。五人の御子が生まれた。大毘古命の子、建(たけ)沼(ぬ)河(かわ)別命(わけみこと)は阿倍の臣等の祖である。また金山毗古・比咩命は鉱山を司り、神生みの際、嘔吐物から産まれた。鍛冶・鉱業の守護する神として岐阜の南山大社、島根の金屋子神社で祀られている。

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「浪速今昔百景」「青蓮寺」

2016-07-29 04:28:13 | 大阪古社寺探訪
「浪速今昔百景」「青蓮寺」・地下鉄谷町線四天王寺下車夕陽丘出口百メートル、大通りを西に入り学校、寺とその角に表通と違い静かである、西は見晴らしの良い上町台地。本尊は金剛界大日如来、真言宗高野山で摂津八十八カ寺札所、大坂十三仏札所である。
寺院の建物は比較的に新しいが、門の脇のくぐり戸のチャイムを鳴らし朱印をお願いすると、住職は快く中に招き入れた。
住職に案内され境内の墓地の由緒ある墓ばかり、江戸時代の歌舞伎役者の一代無縁墓、竹田出雲の墓など大阪市の市跡指定に相応しい石碑ばかり、本堂の前の「仏足」も住職は私に由縁などを自坊を誇りを持って語ってくれたのが印象的であったこの地の界隈の寺院や歴史の話に境内の案内をして貰った。創建、由来を聞けば伝統ある上町台地にあって、転々してその数奇な寺運を知ることが出来る。推古、聖徳時代に遡り、鴫野の地で法案寺として中古生国魂宮と習合し大いに栄えていたが、豊臣の大阪城築城を機にこの地に移され生玉十坊として栄えたが、明治の廃仏棄釈で衰退し神仏分離令で縮小したという。
その後分散された二院と茶臼山に在った青蓮寺の寺号を移し、大日如来、不動、愛染両明王、弘法大師を祀っている。

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『古代史群像の標榜』(全58回) 四十九、強権道長の人間像

2016-07-29 04:16:28 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
四十九、強権道長の人間像

藤原一族の他氏家の追順を許さない独占は、今度は藤原家の摂関の主導権争いは兼通と兼家の兄弟争いへと、身内の勢力争いへと変化をして行った。
中でも緻密(ちみつ)・老練で周到な手法で政権の頂点に上り詰めて行った道長の人物像を検証した。
権力争いは道長の先代の父兼家とその兄兼通の時代から熾烈(しれつ)な戦いで勝利した、道長の父兼家であった。
代が変わって道長は五男でありながら並み居る兄達の有力候補を出し抜いて権力の座に就いた。しかも後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父に当る。
道長の父兼通(かねみち)は兼家より四歳上で当初は年の差だけ昇進をしていたが、冷泉天皇即位の時に兼家は兄を飛び越して参議になった。
そして弟の大納言に対して兄の中納言の、所が形勢逆転、上の兄の伊尹が亡くなると意に反して兼家が関白内大臣になり兼家は据え置かれた。
関白になった兼通はこの時ばかりに弟の兼家の頭越しに従兄に相談したり起用したりして、弟の兼家の昇進を阻害するよう言動にますます溝が深まり増悪ばかり増幅されていった。
その犬猿の仲の例として、或る時に兼通が病に臥していた時に、兼家の行列が兼通の邸の前に差し掛かり、仲たがいをしてもやはり兄弟かと見舞いを期待した。
行列は兼通の邸を通り過ぎ内裏に向かってと言う。兼通はがっかり、今度は兼通が病を押して天皇に次の人事「最後の除目を行います」と言って、兼家の兼職を剥奪(はくだつ)するなどの行為に出て、その後安心してか一カ月後に五十三歳で没した。この仕打ちで兼家は半年は左遷させられて、出仕しなかったと言う。
兼通の後を引継いだ頼忠とは兼家とは摩擦は起こらず、共に娘を後宮に送り込んだが、皇子を生んだのは兼家の娘だけだった。
花山天皇が即位し、新東宮(次期天皇候補)に懐仁親王が選ばれた兼家の未来は外祖父として保障され開かれた。
即位をした花山天皇は寵愛の大納言爲光の娘、忯子が病に臥し失意の中、兼家一家の道隆、道綱、道兼ら子供たちは揃って計画的に、継嗣の懐仁親王の即位をさせるためにも花山天皇の出家を勧めた。
最後には強引に宮廷から誘いだし策略を講じて無理矢理に剃髪し,花山天皇を隔離した形で出家をさせてしまった。時に花山天皇十九歳、即位して在位二年間であった。
こうして権力を手にした兼家は摂関の職に四年間、病気の為に長男道隆に譲って六十二歳にして没した。
家督と権力受け継いだ道隆は酒癖が悪く行儀も品もなく、評判は芳しくなく、露骨に身内ばかりを昇進させた。道隆は身内の重用で地盤固めは万膳と思われていた。
その内、後を継いだ道兼も没し、道隆の子伊周は十九歳権大納言への驚異の昇進をした。伊周と道隆の弟の道長の権力抗争へと移って行った。
病の道隆は子の伊周に関白を譲ろうしたが、十六歳になっていた一条天皇はこれを許さず、その内道隆は四十三歳で没し、後を道兼が引き継いだが、喜んだ道兼はすでに病のおかされ関白になってすぐの没した。
後に残った伊周は内大臣、道長権大納言、両者叔父甥の関係であった。
天皇から見れば道長は叔父に当り、伊周とは従兄に当る。伊周と道長とは相性は悪く、甥が自分より先を越して要職は快いものではない。ここに介入してきたのが一条天皇の母、詮子で道長の姉で道長を指した。
詮子の天皇への進言で道長に内覧(太政大臣に準ずる役職、天皇に替わって代弁し取り次ぐ)になって右大臣に昇進をした。これを見て伊周は不満と反発は尋常ではなかった。
伊周と道長との対立は激しく各公卿前で激しく口論になって、三日後には二人の従者まで乱闘騒ぎを起こしている。
一週間後伊周の外祖父高階が道長呪詛の噂が流れ、その後伊周の軽率な行動、花山上皇との女性関係廻り、誤解から発し、伊周の従者の者が花山上皇の者に弓を引いてしまった。
道長は慎重に事を進め、その後、大がかりな除目が行われ伊周は内大臣の席を外させ、検非違使に命じて伊周の家来を七,八人逮捕させた。
一味の隆家の罪状を決定せよと蔵人頭などの突き上げに、公卿らはとうとう来たかと嘆声を上げた。
しばらくして詮子の病態がにわかに重くなったがこれも伊周の呪詛と決めつけられ、ついに公卿たちは召集され天皇の目の前で除目を行い。伊周を大宰府権に、隆家に出雲権守に流罪、左遷させられた。
甥、叔父の戦いはここに叔父道長の勝利で面目を保てた。
道長を後押ししたのは一条天皇の母后、詮子は弟の道長を寵愛し、甥の伊周を疎んじた。
こうして強権道長は康保三年(966~1027)父兼家、母は藤原中正の娘、一条天皇が即位し父兼家が摂政となって少納言、参議を経ないで権中納言になった。
妻倫子は左大臣源雅信の娘、道子との結婚は道長二十二歳、倫子二十四歳で二歳年上である。左大臣源雅信は、行く行くは女御(天皇の側室に高位な女官)にしたいと思っていたが、その折には適齢の天皇がいなかったところに道長が熱心に通ったので源雅信はこれを許した。
この時代の結婚は通い婚だったので道長は源雅信邸に熱心に通い入り婿の状態だったかもしれない。
だがこの婿徐々に頭角をおあらわし、雅信は由緒ある土御門邸を譲った。道長には他の女に源高明の娘明子がいたが、終生倫子と土御門邸で暮らした。
英明の天子、一条天皇は寛弘八年(1011)発病しそれが悪化するに、ついに東宮居貞親王に譲位して直ぐに三十二歳の若さで亡くなった。
辣腕道長も冷静で思慮深い一条天皇には政権の思惑も慎重に進めなければならなかったし、一条天皇も思った政治を執れなかったと思われる。
元々摂関は天皇が幼くして即位し政治の補助的役柄に、たてられて制度で大人になって、しかも英明な天子と言われた一条天皇は摂関の必要が無く、心の奥底には今までの因習で従ったに過ぎない制度、道長、一条天皇は気付かって、勝手な行動は取れなった。
道長を外祖父でも第一の臣下として扱い、生涯左大臣に遇し関白にはしなった。一条天皇が没し居貞親王が三条天皇として即位をしても関白は固辞をした。
三条天皇との確執があったが直ぐに譲位を仕向けた形で自分の娘彰子の生んだ後一条天皇にすることに成功、こうして意のままに天皇を据え替える道長の強権が後世に是々非々の論議を呼んだ。
何と言っても一条・三条・後一条と中宮を出し絶大な権力をほしいままにした。
彰子を皇后にしたころから病気がちになって仏教に帰依していくようになり、東大寺で授戒金峰山に参詣し近年大峰山頂上に自ら書写した弥勒経などの埋経が史実通り発見された。
生存中にも法性寺・無量寺寿院などの建立に寄与した。強権道長も病死の苦しみにすがったのは仏教であった。

★藤原道長(966~1027)父藤原兼家、母は藤原中正の女、左大臣の源雅信の娘倫子と結婚し、翌年に彰子が生まれた。父兼家が没すると権大納言にその頃疫病で多数死亡し、長兄道隆が没するが、後を継いだ道兼も関白就任後没した。
その後後継で甥の伊周と対立したが、道長は内覧の宣旨を受け、ついに右大臣となった。翌年に伊周・隆家らの花山天皇に矢で射る失態をして左遷、道長の巧みな冷静沈着と周到な手法でライバルを凌ぎながら権力を手にして行った。
関白の地位を固持し、自由な立場で辣腕を振るった。
★藤原兼通(かねみち)(925~977)公卿、堀川殿とも称され、藤原師輔の次男、母は藤原経那の女、三男の兼家と摂関を争った。
出世争いでは弟に先んじられていたが、伊尹がぼっしるとい遺言により関白太政大臣になった。兄弟争いはその後も続き関白も氏長者も頼忠に譲った。
弟兼家を左遷してその後没した。
★藤原兼家(かねいえ)(929~990)公卿、大入道殿とも称され。藤原師(もろ)輔(すけ)の三男、母は藤原経那の女、兄弟に伊尹(これまさ)・兼通がおり、子女に道隆・道兼・道長・道綱・超子・詮子らがいる少納言、蔵人頭、左近衛中将を経て参議を越えて、兄の兼通を追い越して従三位になった。
翌年に中納言、大納言に出世し、摂政太政大臣の伊尹の病気を理由に引退すると、兄兼通と兄弟相克争いをした。兼通が勝利し、兼通が病気で辞した時に関白にはなれず、その後の機会にも関白に成れなかった。一条天皇の即位でやっと関白と氏長者に成れた。
★花山天皇(968~1008)冷泉天皇の第一皇子、母は藤原伊忠の娘懐子、師貞親王、二歳で皇太子、十七歳で即位した。関白藤原頼忠、政治の実権を握ったのは天皇の叔父伊忠の子、藤原義懐らで、その後兼家らの陰謀にかかり、二年足らずで内裏を出て山科の元慶寺に入って出家した。
★藤原(ふじわら)伊尹(これただ)(924~972)公卿、左大臣藤原師輔の第一子。母は藤原経那の女盛子。兄弟には兼通・兼家・安子らがいる、天暦五年(951)撰和歌所が設置され別当になる。以後昇進し、蔵人頭、参議、安和の変で左大臣から右大臣になり、摂政藤原実頼(さねより)が没すると、それを受けて摂政となった。
★藤原頼(より)忠(ただ)(924~989)公卿、父は藤原実頼(さねより)。母は藤原時頼の女。参議・中納言・右大臣になり927年に摂政太政大臣藤原伊尹が辞表をだし頼忠は兼通を支持し伊尹没後兼通が関白となった。今度は兼通が頼忠に関白を譲り、その後太政大臣となり娘遵子(じゅんし)を円融天皇に入内させ、皇子が生まれなく外戚にはならなかった。
★藤原伊周(伊周)(974~1010)公卿、藤原道隆の長子。母は高階成忠の女。父道隆が父兼家に継いで関白になった。叔父道長を越えて内大臣になって確執が続き、父道隆が病気につき、自ら関白の就任を願ったが許されず、病気中のみ内覧を許された。
道隆が没すると叔父道兼に下され、道兼が没ずると、関白は一条天皇の生母詮子の助言で道長に下された。
その後道長と対立が深まったが、自ら起こした不祥事で大宰府に流された、帰京後も呪詛事件の連座で凋落し回復することが無かった。
★藤原道隆(935~995)公卿、藤原兼家の長子、母は藤原中正の女(時姫)道兼・道長・超子・詮子らとは兄妹。花山天皇から一条天皇への譲位により、父兼家が実権を握ったことから昇進、内大臣・左大臣兼任し、定子を入内させ女御になった。
関白に成った後、職を子の伊周に譲ろうとしたが、内覧の代行に認められ、没後は弟道兼が関白となった。
★源雅信(920~993)公卿、宇多源氏。一条左大臣、鷹司殿と称される。宇多天皇の皇子の敦実親王の子、蔵人頭、参議などを経て右大臣になった。
花山天皇・一条天皇・三条天皇の皇太子時代の皇太子傳を務めた。その後左大臣になって重病の為に出家し、まもなく没した。

※摂関時代でも道長が摂関家の主権争うには情けは無用、相剋時代が熾烈で、例え兄弟と言ども突き落とし、策講じては機会を窺い、敵の失態に乗じて地盤を固め、天皇には女御の布石を着実に打つ、用意周到(よういしゅうとう)の者が覇権を握る。優雅な平安絵巻の裏側で繰り広げられたのが限られた藤原摂関一族の覇権(はけん)の争いであった。














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『戦後日本の あの日あの時』130「石橋内閣成立」

2016-07-29 04:11:14 | 戦後日本史の記憶と記録
『戦後日本の あの日あの時』130「石橋内閣成立」
●昭和31年(1956)12月23日、石橋湛山内閣成立、副総理格で外相岸信介。蔵相池田隼人、官房長官石田博英。12月14日、石橋湛山、自民党大会の決選投票で、岸信介258対251で破り総裁に就任(石橋・石井光次郎の2位、3位連合の勝利)この頃7個師団と呼ばれ岸・石橋・石井・大野・河野・三木・松村・吉田の7派閥)石橋湛山内閣は二カ月余りの短命内閣で、当初内閣の人選が遅れたために、一時的に石橋氏自身が臨時代理に全ての閣僚を兼任した。その後内閣の人選が決まり閣僚の布陣は次の通りである。内閣総理大臣・石橋湛山。法務大臣・中村梅吉。外務大臣・岸信介。大蔵大臣・池田隼人。文部大臣・灘尾弘吉。厚生大臣・神田博。通産大臣・水田三喜男他省略。石橋湛山総理大臣の経歴は明治17年(1884)生まれ、ジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)陸軍在籍時陸軍少尉、大蔵大臣、通産大臣、郵政大臣、内閣総理大臣歴任。内閣総理大臣人期間は65日間、日本国憲法下羽田内閣に次ぐ短期内閣。戦前は「東洋経済新報」により一貫して日本の植民地政策を批判し、加工貿易立国論を展開した。日本の保守合同後の初の自民党総裁戦を制して総理大臣になったが、在任二か月後発熱を出して退任した。実父は身延山久遠寺81世で、その関係で立正大学長に就任した。生い立ちは日蓮宗僧侶杉田湛誓の長男として生まれる。





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「滋賀古社寺探訪」百済寺

2016-07-29 04:10:22 | 滋賀古社寺探訪
 「滋賀古社寺探訪」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され、寺伝に似れば高句麗の僧、恵慈と共にここに訪れた際、山中に不思議な光る物が見え、近寄って見ると霊木の杉であった。根が付いたままに観音像を刻むと像を中心に堂を建立した。御堂は百済の龍雲寺を模したと言い、近江最古の由来を誇る。比叡山の延暦寺が開かれると、百済寺も天台宗の寺院となった。湖東の小比叡山と称され、鎌倉時代には天台別院と呼ばれ、周辺を含め一山寺坊千を数え、千三百人の僧が居たと言われている。その後、六角氏の内紛に巻き込まれ、また織田信長の比叡山焼打ちに一山が灰と化した。その後天海の高弟亮産によって再建された。

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