「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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速今昔百景」中島総社・

2016-06-30 04:21:58 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」中島総社・
阪急は祟禅寺駅から西に祟禅寺に近くに中島総社がある。祭神は宇賀御魂神で大化元年に、孝徳天皇が長柄豊碕宮に遷都したときに、五穀豊穣を当社に祈願し、多くの社領を与えたと言われ、明治時代に中島郷四十八カ村の氏神を合祀した。社殿の多くは第二次世界大戦で戦災に遭い、近年復興された。
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『戦後日本の あの日あの時』102「昭和28年の政治経済」

2016-06-30 04:20:24 | 戦後日本史の記憶と記録
『戦後日本の あの日あの時』102「昭和28年の政治経済」
◎1月5日、韓国大統領李承晩、来日。
◎2月28日、吉田首相、衆議院予算委員会で質問中の右派社会党西村栄一に「バカヤロー」と暴言。
◎3月2日、衆議院で吉田首相懲罰動議を可決。
◎3月14日、衆院、野党3派提出の内閣不信任案可決。(バカヤロー解散)
◎3月18日民同派と広川派、分党派自由党結成(総裁鳩山一郎)岸信介自由党に入党。
◎4月2日、日米友好通商航海条約調印。
◎4月3日、沖縄の米民政府、土地収用令を公布。(所有者の許可なく米軍による土地収用を可能にした。)
◎4月15日、第二次日韓会談。
◎4月19日、第26回総選挙。自由199・改進76・左社72・右社66・分党自由党35・労農5・共産1・無所属諸派12議席の分配。
◎4月24日、第3回参議院選挙、自由46・左社18・緑風16・右社10・改進8・無所属諸派30.分党自由全滅・
◎5月21日、第5次吉田内閣成立、(少数与党内閣9
◎6月9日、保安庁長官木村篤太郎、警備5か年計画案(保安隊20万人。感染4万トン、航空機1350機、に関する計画)について発言問題化。
◎8月7日、電気事業、石炭鉱業における争議規制法(スト規制法)公布。電産と炭労を抑える目的。
◎9月1日、独占禁止法改正公布(不況・合理化カルテの認可などの緩和処置)
◎9月1日、町村合併促進法公布(人口8000人以上。9895市町村から31年には3975に減少)
10月2日、日本の再軍備・対日MSA援助につき、自由党政務調査会池田隼人(吉田首相の特使)ロバートソン国務次官補会談。
◎10月6日、第三次日韓会談「日本の朝鮮統治は朝鮮に恩恵を与えた」などの日本代表の発言を廻って対立。
◎10月14日、徳田球一共産党書記長、北京で客死。
◎10月30日、池田・ロバートソン会談、米32,5万人~35万人の軍隊設立を要求、18万人陸上部隊創設で合意。
◎11月17日、吉田・鳩山会談(自由党に憲法調査会を設置事を条件に鳩山復党)分党自由党は23人復党。三木武吉、河野一郎ら復党を拒否、日本自由党を結成。
◎11月19日、来日中の米国副大統領ニクソン、日米協会で「憲法は米国の誤りだった」と演説。
◎12月25日、奄美大島、日本に返還。



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『古代史群像の標榜』(全58回) 二十、元明天皇と平城京への道

2016-06-30 04:18:22 | 滋賀古社寺探訪
『古代史群像の標榜』(全58回)
二十、元明天皇と平城京への道

慶(けい)雲(うん)四年(707)文武の葬儀が終わって、気運は平城京に向けられた。
この頃武蔵国の秩父に和銅が献上されて、これを祝って和銅と改められた。和銅の産出は精錬の入らない使い勝手の良い純度の良い自然銅である。
和銅(わどう)改元(かいげん)は元明と不比等とによって進められる平城遷都に向けての銭貨「和同開珎(わどうかいちん)」の発行である。
貨幣については実際に流通していたかは疑問であるが、貨幣への認識はあったのか、勿論庶民にはその認識はなかったろうが、朝廷の中枢などは粟田真人の唐からの帰国によって周知していただろう。
和銅元年(708)平城京への遷都の詔が出された。その後の八年間は遷都に明け暮れていたと言われ、現在のような整地されていなく、平城山から延びる丘陵があって、その間に南から入り組んだ谷合があったらしい。平城京遷都への建設は地ならしから始まり、大極殿、内裏、東院など主要な建造物が建てられていった。『続日本紀』に依れば和銅三年に平城に遷都をする。
平城京の規模様子は南北に九条の通りがあって、北の中央に平城宮、その中央の門、朱雀門があって南に下り羅(ら)城門(じょうもん)の左右にそれぞれ四坊の筋があって、東北に外京に東宮に東大寺や興福寺などの寺院が置かれ、外京を除き東西4,3KM・南北4、8KMと言う規模の中に約10万人の人が住んでいた。
新都造営と政情不安が伝えられ、多くの民の労役が徴用されたようである。
この平城今日においては女帝が目立つことになる。藤原京においては持統天皇の主導もとに行われたが、平城京は元明女帝が積極的に進められた。
皇位継承者に血筋に適合した者が居ない場合、また候補がいても天武系の持統の長子の草壁が早世し、文武も天皇の地位に就くが病弱で亡くなって、次の首皇子の継承までの間の中継ぎの天皇に止む無く祖母の元明が成っても仕方のない所で、天皇家の主流を成す者の継承を優先した観がある。
707年に文武が病死した翌月、元明は即位をした。例によって皇位に就いた正統性とその理由を「宣命」形にして「地祇(ちぎ)天神(てんじん)のしずめし神の天皇の勅命、臣、公民のもろもろの聞こえる宣による・・・」と謳っている。
本来なら当時九歳の首皇子が文武の皇子として継ぐべき所、皇継から外れた祖母の皇位に継ぐに当たり廻りの者に気を使ったものである。
元明天皇のように天皇系の嫡子でないものの即位は一応特異な例と言える。しかも女帝であるが八年後の715年に娘の氷高皇女の皇位を譲り、個々に二代続いて女帝が誕生し、本格的男子の皇位までの「仲(なかつ)天皇(すめらぎのみこと)」としての皇位である。
氷高皇女が即位をして三十六歳で元正天皇となった。それでも文武天皇の嫡男の皇太子首皇子は幼く、それまでは元正は政務を執らなければならなかった。
元正天皇の即位時には首皇子は十五歳であったが、祖母の老女帝元明にはまだまだ不安があって、首皇子を
立太子させた。異母姉の持統は孫の文武天皇の譲位をさせるのに、五年間後見人の様な立場であったが、今自分も同じように首皇子の後見人の様な立場で見守らなければならかった。
持統の子の草壁皇子にしても、元明の文武皇子も病弱であった。何故なら生物学的にも近親結婚は病弱な子どもが生まれやすいらしい。
元正天皇の重職の布陣も随分と様変わりをして、左大臣の石上麻呂が亡くなって、代わりに臣下の筆頭は右大臣に不比等が成り、次男の房前が三十七歳で参議に就任、着々と藤原景が朝廷の重職に就くようになって来た。
元明と不比等の二人三脚も、710年の平城京遷都の五年後に元明は没した。
一方不比等は藤原家の基礎を築き、興福寺を建立の完成前の養老四年(720)に没した。その影響力は大きく文武の妃に娘の宮子を嫁がせ、聖武天皇には光明子を嫁がせて朝廷への盤石(ばんじゃく)な影響力を有して功績を残した。

★元正天皇(680~748)女性天皇、在位九年間、父は草壁皇子、母は元明天皇、文武天皇・吉備内親王姉、二品から一品に叙せられる。首皇子は幼少の為に元明天皇から即位をした。藤原不比等から長屋王が首班になって重要な政策を実施「三世一身法」などを施行。元明在世中は元明が実権を握り、没した三年後は「聖武天皇」(首皇子)に譲位し中継ぎの役を果たした。
★藤原宮子(?~754)文武天皇の夫人、不比等の娘、大宝元年(701)に首皇子(聖武天皇)を生んだ。聖武天皇が即位すると母宮子を尊び大夫人とする勅令が出された。ところが長屋王らの指摘によって撤回され,皇太夫人に、この事件で長屋王は失脚をした。
長年宮子は病の為に聖武天皇に会えず天平九年に玄昉の看護により会えたと伝える。
◆平城京、八世紀の古代都城。京域の大半は現在の奈良市にあり、西南の一部は大和郡山市に含まれる。藤原京から遷都の動きはすでに文武天皇の時に在り、慶雲四年(707)には諸王臣に五位以上の者に遷都の事を論じさせた。
翌年に元正天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山、鎮を作す」と指摘されている。藤原京から平城京への発起と思いの要因は粟田真人や遣唐使が間近に見聞した長安の大明宮含元殿をわが国にも取り入れたい思いもあった。平城京に作られた大極殿は含元殿が類似している点にある。
京域は朱雀門と羅生門を結ぶ朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京で、それぞれ東西の方向を大路には中央の羅生門を左右に一坊から順に外に向かって増え外京は別に増えて行く、南北に大路があるが南北には一条から九条に、条里制に基づくもので、坊と坪と里と条里制は班田図によって表現される。
平城京の人口は10万人位と予測され、もともと京内に居住し官職を持っている上級官人、地方から赴任してくる官人、京外に住み生活必需品の供給する人、人口十万人の首都平城京は当時としては大変な賑わいであったろう。
◆和同開珎*日本最古の銭貨。本朝十二銭の最初の銭貨。銀銭と銅銭がある。和銅元年(708)発行の。銭文「和銅」には年号、調和を表わす吉祥句(きちじょうく)の両方の意味が含まれている。律令国家が重点をおいた銅銭で、高い法定価値を付与して支払に用い、銭貨発行の収入を得た。
銀銭は、和同開珎の発行以前に存在をしていた地金(じかね)の銀の貨幣機能を銅銭に受け継がせようとするための媒介物として発行された。
このため銅銭が流通する存在意義は減少し、銀銭禁止令が出された。現在にある記念硬貨的色彩と銭貨発行による収入源も見込めたが貨幣としての流通は程遠いものがある。

※この頃の藤原京から平城京への人物上の大きな動きと詳細な記述はなく、二官八省など律令国家ついて述べられている。皇位継承に首皇子への引き継ぎに元明・元正女帝思いが遷都と「和同開珎」の発行で機運を高めるための意図が窺える。


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「兵庫古社寺探訪」斑鳩寺”新西国三二番札所

2016-06-30 04:15:50 | 兵庫古社寺探訪

「兵庫古社寺探訪」斑鳩寺”新西国三二番札所“兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)にある天台宗の寺院。伝承によれば、606年(推古天皇十四年)聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。606年、聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。長らく大寺院であったが、室町時代後期の1541年(天文十年)、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、徐々に復興していったとされる。また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。聖徳太子の生誕地奈良県明日香村の橘寺と、墓所の大阪府太子町の叡福寺を結んだライン延長上に、この兵庫県太子町の斑鳩寺が位置する。
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「京都古社寺探訪」城南宮・

2016-06-30 04:04:52 | 京都古社寺探訪
「京都古社寺探訪」城南宮・城南宮は京都市伏見区にある神社で式内社である。旧社格は府社「方除大社」として知られている。祭神は息長帯日売命(神功皇后)八千歳神(大国主神)国常立尊に他に天照大神・品陀別命・別雷神・大山咋・天児屋根命・宇気毛智神を祀る。平安遷都に際し、平安城の南に祀るお宮、国土安泰王城鎮護の意味から祈願された。当時は朱雀大路から羅城門から南に延長した所に城南宮があって、鴨川と桂川の合流にある重要な要所、この地に白河天皇や鳥羽上皇は「鳥羽の水閣」と呼び城南離宮を築き院政を敷いた。代々天皇の行幸がなされた。熊野詣の際にも旅の安全を願い「方違え」の旅所を定めた。離宮内の御堂や九体阿弥陀堂、上皇の陵墓の三重の塔で仏事を重ねらえた。応仁の乱では荒廃をしたが江戸時代になると復興された。幕末の文久三年(1863)孝明天皇の攘夷祈願の行幸が行なわれた。慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場になったのも、この地である。
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6月29日(水)のつぶやき

2016-06-30 01:12:25 | イベント
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「浪速今昔百景」三津寺

2016-06-29 04:21:39 | 浪速今昔百景
「浪速今昔百景」三津寺・大阪は南の繁華街、御堂筋に面し東側は心斎橋筋、重厚なお堂は周りを白壁と黒にあしられた寺務所と諸堂は優美で荘厳、昭和8年の御堂筋拡張のために移転したもの
である。本尊は十一面観音菩薩、薬師如来、弘法大師の木造は重文級とされ安置されている。三津寺筋で有名で開山は行基菩薩、応神天皇の葬り奉った御墓所としていたところ、聖武天皇の勅命によって行基が創建したもの、宗旨は真言宗は御室派で浪速商人の深い信仰に支えられ線香の絶え間がなかったという。大都会の雑踏の中にこの寺の境内の空間は不思議な静寂がある。
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『古代史群像の標榜』(全58回) 十九、文武即位と藤原不比等の台頭

2016-06-29 04:19:28 | 古代史群像の標榜

『古代史群像の標榜』(全58回)
十九、文武即位と藤原不比等の台頭
中継ぎの持統天皇は子の草壁皇子と妹元明との間に生れた孫の皇太子軽皇子に譲位をするために、草壁の遺児の、軽皇子の即位の年齢まで待たなければならなかった。
軽皇子(かるみこ)十五歳に達するのを待って万を期しての譲位であった。文武天皇として即位後も、五十三歳の持統老女帝と孫の文武の二人三脚の治世であった。
この頃太政大臣であった高市皇子は前年に死去し、右大臣に多治比(たじひ)嶋(しま)に加え、大神高市麻呂が任じられ、文武の配偶者に、藤原不比等の娘宮子が夫人になった。
藤原不比等は表面的には出ないが、裏方で代々引き継がれた皇室の特別な存在として支えた。持統系の後継を引き継ぐためには重臣の協力なければ治世は難しく、父の鎌足同様裏方で支え続けた。
ただ不比等には文武の夫人に宮子を嫁がせることによって皇族の外戚となる事が出来るのは、蘇我一族と同じであった。
やがて藤原一族の朝廷中枢支配の足掛かり人っていくのである。鎌足の死から持統朝の三十一歳で官職に着くまでの履歴は明確でなく、鎌足の二男で長男の定恵は僧侶の道に入って、あの道照と同じ道を歩んだが若くして亡くなった。
父鎌足が死去した時には十一歳の少年であった。
大宝二年(702)持統太上天皇は死去した、天武没後から十六年間政務を執り、律令国家建設に尽力を尽くした。
持統の没後を支えたのは、草壁の兄弟の刑部(あやべ)親王(しんのう)が知太政官事に任じられた。右大臣に阿倍御主人(69歳)、大納言に石上麻呂(64歳)藤原不比等(46歳)紀麻呂(45歳)の三人。その後刑部親王が死去、阿倍御主人が死去し、知太政官事に天武の子、穂積(ほずみ)親王(しんのう)が任じられた。
その内、粟田真人が帰国、唐国の長安から持ち帰った長安の都城の情報に藤原京も参考にされた事だろう。
しかし文武天皇は病弱で707年二十五歳の若さで死去した。
この時には文武の子、首皇子は八歳、健在の舎人親王(とねりしんのう)、新田部(にいたべ)親王(しんのう)ら天武の皇子たちをさしおいて即位できる年齢ではなかったが、中継ぎの天皇として、その母阿閇皇女であった。
天智天皇を父として、草壁皇子の妃として、氷高内親王(元正天皇)、吉備内親王(長屋王の妃)、軽皇子(文武天皇)を生んだ。
阿閇皇女が即位して元明天皇となった。元明が即位をした正統性は、草壁皇子の皇子文武への継承であり、持統太上天皇と治めてきた。
文武天皇は自分が病気の身、治療に専念するためにあなたが天下を治めてくださいと譲られた。だが私はその器でないと断ったが、文武が死の際に譲位の意思を表明したので「命に承ます」と答えて皇位を継いだ説明がなされた。
元明天皇の即位後、孫で幼少の首皇子(聖武天皇)までの中継ぎとして祖母元明は即位をした。

★元明天皇(661~721)中継ぎの女性天皇。在位八年間、阿閇(あへい)。持統とは異母妹で草壁皇子の妃、元正天皇・文武天皇・井上内親王の母、慶雲三年(706)病身の文武天皇から即位を要請されたが辞退した。
翌年に文武天皇が病死し遺(い)詔(しょう)により即位をした。これは直系の男子の首(おびと)皇子は幼少にある為で、先帝皇后の即位は異例としての即位と思われている。
在位中は藤原不比等らの政権を中心に平城京遷都など重要な懸案を相次いで行って言った。
八年後の首皇子(聖武天皇)を皇太子としたがまだ幼少の為に霊亀元年(715)に元正天皇に譲位した。その後も太上(だじょう)天皇(てんのう)として実権を把握していた。
★藤原不比等(659~720)奈良時代の官人、鎌足の二子。母は車持君国子の女、兄定恵は出家ご夭折しており、鎌足が賜った藤原姓をただ一人の男子が継承した。
長女宮子を文武天皇の夫人として送り込み、その生まれた皇子に首皇子(聖武天皇)には三女の安宿媛を妃として皇室に深く結びつけた。
中納言から大納言に、そして右大臣に上り詰めた。藤原京の遷都事業は不比等中心に進められたと思われる。遷都と同時に山(やま)階寺(しなじ)(厩坂寺(うまやさかてら))を平城京に移し興福寺の建立を進めたが生前に間に合わなかった。
★粟田(あわた)真人(まひと)(?~719)7世紀から8世紀にかけての官僚。天武朝に小錦下を授けられ、朝臣姓となって筑紫大宰として隼人・174人に衣装を与えた。文武三年(699)に藤原不比等と共に禄を受けた。
その後、遣唐執(けんとうとしつ)節使(せつつか)となって、大宝律令を持って唐に出発、翌年唐に着き則天武后(そくてんぶこう)に謁見した。唐で評価は「好く経史を読み、属文をを解し、容止(ようし)温雅(おんが)」と評された。帰朝し中納言。大宰師、を歴任し正三位を与えられた。

※この時代に活躍した人物に、粟田真人は見逃せない。持統太上天皇が崩御した時には入唐し輝かしい成果を上げ、倭国にその情報をもたらした官人である。また大宝律令の編纂にも加わり大役を果たした。
粟田真人が唐国で見て学んだものの中に長安城は東西九・七キロメートル南北八・六キロメートルとやや長方形の形をして、東西十四条、南北十一条の中に東西二・八キロ、南北一・八キロの宮城がある。人口は約百万人巨大都城である。
因みに平城京が五万人から十万人もないかもしれないがその規模が窺い知れる。このような大規模の都城を見て粟田真人はどう思っただろうか、また建造物はレンガ造りで、日本の様な風土とは全く違った所で律令令が布かれていた。
粟田真人はこの広大な宮殿で臆することなく、則天武后に謁見をしている。
記述は藤原京に付いては詳細な事柄は残されておらず、平城京への思惑の方が優先されているようである。


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『戦後日本の あの日あの時』101「伊東絹子も八頭身」

2016-06-29 04:15:41 | 戦後日本史の記憶と記録
『戦後日本の あの日あの時』101「伊東絹子も八頭身」
●昭和28年(1953)7月、ファッションモデルの伊東絹子、米ミスユニバースで3位入賞。ファッションモデルで俳優の伊東絹子は米国のカルフォルニアのロングビーチで開催された世界大会で「ミスユニバース」第3位に入賞で戦後間もない頃で大きな話題を呼んだ。世界大会には前年に小島日女子に続いて二人目であり、伊東絹子は初めての入賞であった。伊東絹子はファッションモデルノ先駆けと言われ、伊東絹子の体形が「八頭身美人」が流行語となった。伊東絹子、東京都生まれ、英字新聞「英文毎日」が開催したファッションコンテストに応募し、東京から20名大阪から15名の合格者の一人であった。伊東は1957年フランスに渡り、1968年在フランス日本大使館員と結婚し一児を設け、芸能生活は行わず外交官夫人として過ごした。

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奈良古社寺探訪」大安寺・

2016-06-29 04:14:39 | 滋賀古社寺探訪
「奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子と伝える。南都七大寺の一つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。奈良時代の大安寺は東西二基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末~近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏九体が残るのみである。大安寺の歴史については、正史『日本書紀』『続日本紀』の記述のほか、天平19年(747年)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」が主なよりどころとなっている。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎であり、これが移転して、「百済大寺」「高市大寺」「大官大寺」と移転と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。

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「兵庫古社寺探訪」西宮神社・

2016-06-29 04:09:41 | 兵庫古社寺探訪
「兵庫古社寺探訪」西宮神社・兵庫県西宮市にある神社である。日本に約三千五百社ある、えびす神社の総本社である。主祭神に西宮大神・(蛭児命)・天照大御神 - 大国主大神 -須佐之男大神 。祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。創建時期は不明だが、延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある。この南宮が現在の西宮神社のことであり、廣田神社の境外摂社である「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内にあるのはその名残りである。江戸時代には、徳川家綱により本殿が再建され、また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を幕府から得て、隆盛した。
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6月28日(火)のつぶやき

2016-06-29 01:15:23 | イベント
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河内古社寺探訪」大通寺・

2016-06-28 04:11:27 | 河内古社寺探訪
「河内古社寺探訪」大通寺・当寺の起源は古く、聖徳太子が物部守屋との戦いの際、戦勝祈願をしたと伝わる。教興寺の塔頭寺院であったが、戦火に遭い荒廃をした。元禄年間に融通念仏宗となり、大通上人により再興された。寺名も大通寺と改められた。大通上人は大坂平野に生まれ、元来大通上人の生家は融通念仏宗の檀家で信仰に厚かった。在家の頃より天台・禅などを学び、出家後四十五世良観に仕え、修行の後に大念仏寺四十六世融観に就任した。境内には近松門左衛門の「曽根崎心中」の有名な「お初徳兵衛」供養塔がある。
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『戦後日本の あの日あの時』100「「引揚者」

2016-06-28 04:08:50 | 戦後日本史の記憶と記録
『戦後日本の あの日あの時』100「「引揚者」
●昭和28年(1953)3月23日、日赤3団体、中国からの引上げ業務再開、興安丸、高砂丸、3968人を乗せて舞鶴に入港。第二次世界大戦の敗戦によって、台湾、朝鮮半島、南洋諸島などの外地や、日本から多数の入植を送っていた満州、また内地でありながらソ連の侵攻によって実効支配を失った南樺太など移住していた日本は、日本軍の敗北で日本への引き上げを余儀なくされた人々を「引揚者」の呼称に対して使われた。軍人として帰還した者は「復員兵」「復員者」と呼ばれていた。敗戦時に軍人、民間人の合計は660万人以上が海外に在住し、引揚した日本人は1946年末まで500万人にのぼっていたが実際の残留日本人の数値の実態は不明である。GHQも人道的立場から一日も早く終結させるつもりで対応を行った。GHQの指令で引揚援護局を設置し、行政事務を行った。厚生省は博多、鹿児島、仙崎。唐津、宇品、舞鶴、田辺、名古屋、浦賀、函館の11カ所に地方引揚援護局を設置するように告示をした。復員者、引揚者の帰国に際し、GHQ「持ち込み制限」を設け資産の持ち込みによるインフレションの懸念をした。引揚者の持ち込んだ通貨、証券類は税関で預託させる持ち込み制限処置をした。沖縄はアメリカ軍の軍政下、沖縄への正式な引揚者の事業は本土よりも後れて開始された。台湾疎開から沖縄行の引上げ船が遭難して約100人が死亡する栄丸遭難事件が発生した。樺太からはソ連の侵攻によって小笠原丸、第二新興丸、泰東丸などが国籍不明の潜水艦に攻撃され沈没した。その潜水艦はソ連L-19と推定されるが、そのソ連の潜水艦l-19も原因不明で沈没している。祖国を目前に倒れた引揚者も多く、日本開拓団が満州国反乱軍によって襲撃された麻山事件、ソ連兵に連日女子は強姦されたり、武装兵に襲われた葛根廟事件、移動中に避難民が襲撃され牡丹江事件、パルプ工場で女性社員が集団自決をした敦化事件など数知れない犠牲者が闇に伏されて戦後を迎えた。特にソ連兵の軍律は緩く引揚者への強姦、殺傷、略奪行為を連日繰り返した。そのために女子は男装してその場を逃れるより他はなく方法の手で帰還を果たした人は少なくない。ソ連からの引揚は日本人捕虜をシベリア開発に利用しようとした。



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『古代史群像の標榜』(全58回) 十八、持統天皇と藤原京

2016-06-28 04:03:47 | 古代史群像の標榜
『古代史群像の標榜』(全58回)
十八、持統天皇と藤原京

天武天皇の皇位継承については、波瀾が有った。年齢的に長子の壬申の乱でも活躍した高市皇子(長王の父)は血筋で母親が北九州の豪族で胸形君徳善の娘の尼子娘であったので皇位継承は無理であった。
これは壬申の乱で悲運の大友皇子もそうであったように、母方の血脈がもの言う。次に最も有力な草壁皇子と大津皇子の二人は一つ違いで大津皇子が上で、母方が姉妹であった。
皇位継承の筆頭の二人には鸕(うの)野(の)賛(さら)良(ら)皇女(こうじょ)(持統)の皇子は草壁皇子で影が薄く、評判も芳しくなく体も脆弱であったらしい。
それに対して一歳年下の大津皇子は文武両道に長けていて、資質も文句なし評され、天武帝生存中は両者同対等な立場で登場するが、天武帝の没後から大津皇子の身辺が急変する。
天智帝の殯宮(もがりのみや)葬儀が執り行われている最中、大津皇子の謀反が発覚する。四日間取り調べの後に、捕えられて自邸で死を賜った。
この事件で連座して三十人が逮捕されたが結局、大津皇子に謀反を進めた新羅からの渡来僧行心が謀反を進めたと言う配流されたが、これは明らかに冤罪で持統らの仕組んだ策略と思われる。
こう言った王族内の粛清に似た、抹殺を危惧して天武帝が吉野の会盟が死後何の意味も持たないことと、天武帝の予測が的中した形だった。
持統天皇の在位中に夫天武帝がかねがね意としてた、「飛鳥浄御原令」を編纂するに至り、二十二巻、作成には難航を極め、中国唐律に大きく依存し影響されたものになった。
主として中央集権の構築するために、八色の姓等など豪族統制策が盛り込まれた。
次に「庚寅年籍」戸籍について。次に課役について「賦役令(ふえきれい)」「調・田令・課戸・計帳」「陵戸」などが大宝律令まで効力を発した。

★持統天皇(645~702)称制四年、在位十二年長きに渡り天皇不在の中継ぎの女帝、父は天智天皇、母は蘇我石川麻呂の女遠智娘。天武天皇の皇后なり草壁皇子を生んだ。壬申の乱後夫大海人皇子と行動を共に支え続けた。
★草壁皇子(662~689)天武天皇の第一皇子、大津皇子と同様に筑紫に娜(な)の大津で誕生、母は鸕野皇女、吉野で盟約を行い、翌々年に立太子した。天武が病の中、皇后と共に天下事を委ねられたが即位しないままに没した。
★大津皇子(663~686)天武天皇の皇子、母は天智天皇の皇女で大田皇女。大津皇子は百済救援戦争に筑紫に向かう途中に誕生した。壬申の乱の時も最後まで祖父の天地天皇ところに留まっていた。これは天智帝が有能な後継者として期待してた結果だろうと思われている。

※七年前のことで、天武と持統は天武の皇子四人と天智系の御子二人を集め、互いに裏切ることなく千年の誓いを地祇天神に盟約をした。持統の目した寵愛の皇子は皇位を継ぐことなく、若くして亡くなった。
こうして次期皇位継承者の出現までの中継ぎとして、持統即位し藤原京に着手、これは亡き夫の天武帝の願いでもあった。
最近の発掘で藤原京の造営計画は天武帝の病気祈願の頃から定めら、我が国初の本格的都城の藤原京が造営されることになった。
勿論都城は中国の都城に刺激されてのことだったろう。この藤原京造営と天武帝没後の四年後に正式皇位を継承、即位をしたのが六九〇年で二年後に地鎮祭が執り行われた。
大藤原京の規模は諸説があって、東西五・二キロメートル、南北五・二キロメートと考えており、南北十条、東西十坊と想定され、その中央に藤原京が周囲一キロメートルと思われている。
現在地としては奈良県橿原市(かしはらし)付近で北に耳成山、西に畝傍山(うねびさん)、南東に香久山の大和三山に囲まれていて、藤原京の周囲には掘立柱を塀の大垣で囲まれている。
外堀(外濠)の幅五メートル、東西南北面に三カ所の門が開き、中央に朝堂院と正殿として大極殿のある堂々たる藤原京であった。

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