「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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『戦後日本の あの日あの時』71「桜木町事故」 

2016-05-31 04:26:58 | 芭蕉紀行世情今昔

『戦後日本の あの日あの時』71「桜木町事故」 
●昭和26年(1951)4月24日、神奈川県横浜市国鉄東海道線の桜木町駅構内で発生した列車火災事故である。乗客はドアーが開かず脱出できず106人の死者と多数の負傷者を出した。犯罪的所業によるものではないが、桜木町事故と言われている。この事故を機に、自動扉付客車には乗降扉付客車内非常圧搾気開放弁(非常コック)の設置と表示が義務付けられた。緊急時にはドアーを乗客が手動で開けられるように法律が改正された。事故の経緯は京浜東北線桜木駅構内の上り線の架線が固定されず垂れ下がった。作業員は上り線のみ進入させないように手配をした。下り線を通常通り運行できるとしたが、9分遅れの下り線の列車がポイントを渡って上り線に進入、垂れ下がった上り線の架線にパンタグラフが接触し架線が絡まった。急遽パンタグラフを下ろそうとしたが、先頭車が破損し車体と接触し、そこに電流が短絡が発生し、激しい火花と共に可燃性の塗料に着火し、木製の車両の屋根に引火し炎上を始めた。結果、先頭車両は全焼し、二両目は半焼した。焼死者106人、負傷者92人を出した。事故車両の窓の中段は固定、三段構造で開口部は29CMの隙間しかなく、ここからの脱出は非常に困難だった。短絡が起きているために自動扉は作動せず、運転手が貫通路から開けようとしたがコックの位置が分からず、ドアーは内開きで外部からの解除は出来なかった。二両目はかろうじて開かれたが、多くの人々の焼け死んでいくことをどうすることもできず「地獄絵図」を見るが如く悲惨を極めた。これを機に非常時の避難に工夫改善がされ、大きな教訓となった。
『戦後日本史の記憶と記録』72「日本航空設立」
●昭和26年(1951)7月31日、戦後初の民間航空会社。資本金1億円。会長藤山愛一郎。第二次世界大戦後が終結した後、日本の占領に当たった連合軍最高司令部GHQによって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航を停止された。1950年6月にGHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除されることになった。同時期に多にも国内航空事業に免許を申請の意向を見せた為に、行政指導によって日本航空に一本化された。1951年3月、国内航空事業に免許を申請。二か月後に営業免許が受けるに至って「日本航空株式会社」が設立された。日本政府主導による半官半民体制で本社を銀座の現在の日航ホテルに設置された。社員はわずか39名、社員は増員されていったが、英語の堪能な日系二世を採用し「外人部隊」とする奇妙な集団でスタート。まず初めに、定期運航開始に1951年8月にフィリピン航空からチャーターしたDC-3航空関係者や報道関係者によって試験飛行が実施された。9月には羽田空港、大阪、福岡、札幌に支所、出張所を開設された・10月には国内民間航空定期便としてノースウエスト航空から乗員とリースしたマーチン202「木星号」で羽田空港ー千歳空港の運航も開始した。当初は国内線のみの運航ですでに乗りいれていた旧連合国陣営の外国の航空会社による5社による共同設立会社である。ノースウエスト航空の機材と運行免許で運航委託であった。その後「もく星号」が伊豆大島が墜落事故を起こしたこともあって、運航委託契約切れを以て、新たに購入したダグラス10「高千穂号」によって自主運行を始めた。その後、「日本航空株式会社法」の公布によって特殊会社「日本航空株式会社」が誕生した。1953年11月には国際線運航に参入し東京ーホノルルーサンフランシスコ線の運航となった。国際線の開業当時他社のアメリカン航空やノースウエスト航空に比べて遅れたりして信頼性が劣っていた。パイロットの教育、訓練に回復戦略を行い、ニューヨーク,サンパウロ、香港、台湾に世界の主要都市に運航が拡大されていった。東京五輪や新幹線開通に乗客の増員がなされ航空会社としてゆるぎない航空会社に確立されていったが、1970年代には大きな航空事故を多発し、国際線競合に全日空の台頭によって経営が低迷し昨今再建されつつある。



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 『芭蕉紀行世情今昔』 ㊿(全63回) 49、天龍寺・永平寺 北枝との別れ

2016-05-31 04:18:53 | 芭蕉紀行世情今昔

 『芭蕉紀行世情今昔』 ㊿(全63回)
49、天龍寺・永平寺 北枝との別れ
丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ。また、金沢の北枝(きたえだ)といふ者、かりそめに見送りて、この所まで慕ひきたる。
所々の風景過ぐさず思ひ続けて、をりふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れに臨みて、
“物書きて 扇引きさく なごりかな”
五十丁山に入りて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり、邦畿(ほうき)千里(せんり)を避けて、かかる山陰に跡を残したまふも、貴きゆゑありとかや。

★天龍寺・永平寺 北枝との別れ
◎丸岡(福井県吉田郡)にある天龍寺の住職は、古くからの知人なので、訪ねた。また、金沢の北枝という俳人は、ほんにそこまでと見送りに来て、とうとうここまでついて来たしまった。
北枝は、道すがら、美景を見逃すことがなく、作句に励んで、折々、味のある着想の句を聞かせてくれた。今いよいよ別れるにあたって、
“物書きて 扇引きさく なごりかな”
五キロ以上も山の方に入って、永平寺に参拝をした。当寺は道元禅師の開かれたお寺である。都に近い土地を避けて、このような辺地に寺を建てたものだ、高い志によるものと思われる。

◆丸岡天龍寺の住職は旧知の仲なので訪問することになった。この地まで北枝がついて来たが、芭蕉は北枝に一句送って別れを告げた。
金沢から小松まで案内すると七月二十四日より同行をして丸岡の地に着いたのは、福井で八月十二日から十三日、その手前の丸岡には、おそらく八月十一日くらいだろう。その間、芭蕉に付き添ってくれ、途中曾良の旅を外れて伊勢に赴いた間に芭蕉の寂しさを埋めてくれた、大切な俳人の友でもあった。
北枝は愚直なほどの俳諧に徹した無欲に日々を送る、芭蕉は心から愛した金沢の俳人であった。本名は立花源四郎、刀の谷を営んでいた。芭蕉は別れに一句を詠んだ。
“物書きて 扇引きさく なごりかな”
夏中手慣れた扇も、時節がくれば手放さなくてはならない時が来た、君もいよいよ別れる時が来た。別離を詠んだ句である。
史跡、遺跡の好きな芭蕉、道から五十町、山に入った永平寺に参拝をする。この寺らは道元禅師の寺で、京より離れた地を避けて、こんな僻地に教化の為にと、芭蕉は感動をしている。
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「古社寺探訪」東光寺(門戸厄神)

2016-05-31 04:14:07 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」門戸厄神、東光寺・兵庫県西宮市門戸西町にある寺。高野山真言宗別格本山。正式名は松泰山東光寺。「西国薬師霊場第二十番」「西国愛染十七霊場第二番」「摂津国八十八箇所第七六番」。日本三大厄神のうちの一つ。寺名の東光寺は、薬師如来がおられる浄土、東方浄瑠璃世界から光が発せられる寺という意味で名付けられました。寺伝によれば開創の経緯は次のとおりである。天長六年(八二九)嵯峨天皇が四十二歳の厄年のおり、愛染明王と不動明王が融合一体の厄神明王となって現れ、諸々の災厄を打ち払った夢を見られました。それを聞かれた弘法大師(空海)が自ら厄神明王を三体刻まれ、三年間の厄年を祈祷し無事に過ごされました。その後、一体を国家安泰の厄除けを願い紀州高野山麓の「天野明神」へ、一体を皇家安泰の厄除けにと山城男山の「石清水八幡宮」に、もう一体を民衆厄除けのため、ここ摂津門戸の「東光寺」に納められました。これが世にいう「日本三躰厄神明王」です。古くから厄除開運の祈願寺として名高く、多くの人々に知られ信仰されています。古くは七堂伽藍をそなえ荘厳な構えを見せていましたが、織田信長の荒木村重攻めの兵火にかかり、堂宇が焼かれてしまいました。しかし、弘法大師自刻の厄神明王は一部の損傷もなく、再建されたお堂に祀られました。明治維新の廃仏毀釈により寺領地は縮小されましたが、厄除け守護の厄神明王の威徳は今なお受け継がれています。
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「古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)

2016-05-31 04:08:28 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)
和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社
祭神は五十猛(いたけるの)命(みこと)・脇宮大屋都比売(おおやつひめの)命(みこと)(妹神)・脇宮都麻津比売(とまつひめの)命(みこと)(妹)で何れもスサノヲの子神である。
創建についての初見は『続日本紀』の文武天皇の大宝二年(702)に「是日分、遷伊太祁曽、大屋津比売、都麻都比売三神社」記されている。
古くは日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前宮と国懸宮がその地に祀られることで、いわば土地を明け渡した。両社は互いに、同じような内容を伝えている。
その際に現地点の近くの「亥の杜」に遷座をした。和銅六年(713)現地に遷座をした。『延喜式神名帳』には名神大社に列し、紀伊国一ノ宮とされた。
神階は嘉祥三年(850)従五位下、貞観元年(859)従四位上に叙され、その後、延喜六年(906)正四位上に叙せられた。
名神大社として、月次、相嘗、新嘗の官幣を預かる。
天正年間に豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収されたが、秀長の時代になって所領は回復され社殿も建立された。
★『日本書紀』には三神が木種を分布し、天降っては韓地に植えず、筑紫から始め国内全部を青山に播植したと伝える。
五十猛命は『古事記』では大屋毗古、『日本書記』には五十猛命と呼ばれている。
父神スサノオと共に多くの樹木を新羅に降臨したが、日本に渡り植林をした。また五十猛神は大国主命を助けている、因幡の白兎を助けた大国主命は八上比売と結婚をしたが兄弟神の嫉妬らいろんな仕打ちに遭い、母神に助けられたりしたが、最後に追い詰められた時に、大木の蔭に隠れる。
矢で射られて殺されそうになった時に木の股から五十猛神の許に逃れる。
抓津姫神は日本神話に登場する女神で父スサノヲ神、兄に五十猛神で五十猛神と共に全国の山々に木々の種をまき、紀伊国に戻って住んだと言う。

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5月30日(月)のつぶやき

2016-05-31 01:14:28 | 芭蕉紀行世情今昔

「古社寺探訪」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂 goo.gl/RmrgK8


『芭蕉紀行世情今昔』 ㊽(全63回) 47、全昌寺 夜の隔て goo.gl/Ja1wvh


『戦後日本の あの日あの時』70「社会党分裂」 goo.gl/wzhwwl


「浪花今昔百景」ながらの国分寺 goo.gl/zjZFDB


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「浪花今昔百景」ながらの国分寺

2016-05-30 04:17:31 | 浪速今昔百景

「浪花今昔百景」ながらの国分寺・大阪の北区は長柄の国分寺で名が通っている。真言宗国分寺派として本尊は薬師如来である。また摂津国国分寺としての歴史は古く、新西国観音札所、大阪十三仏札所、摂津八十八カ寺札所、近畿三十六不動札所、西国薬師札所と近畿の巡拝の寺として五つの寺院の名刹に入っている寺は国分寺と四天王寺くらいなものである。それほど古く由緒がる、国分寺の名は聖武天皇が諸国に配布した一国に一寺の国分寺なのであるが、創建はそれより古く、斉明朝に遡る飛鳥時代難波の宮に遷都し亡くなった、孝徳天皇の菩提を弔うために入唐し帰国した道昭に命じて長柄豊崎宮跡に長柄寺と称して建立して、その後聖武天皇の国分寺配布の摂津の国分寺とした。その後時の十四天皇の勅願道場として、加護もあって栄えたが夏の陣で焼失し、享保三年に再建されるが、明治の廃仏毀釈で寺領は大きく縮減され、昭和二〇年の大阪大空襲での戦災に一宇も残さず焼失した。往時の寺宝、寺院共になくし当時の面影もないが、諸国より厚い信仰で再建され、堂塔に昭和金堂、金光明院護摩堂など整備されて所狭い境内には諸堂、諸仏が安置され下町の人々の祈願祈りが伝わってくる。
寺務所の快い対応に話が弾むものである。また四十年余り前の万博覧会の折にガスの工事の大爆発の百人以上の犠牲者の慰霊の堂もあって、この寺は地元と共にあり続けた庶民の寺と窺えるものである。

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『戦後日本の あの日あの時』70「社会党分裂」

2016-05-30 04:14:09 | 古事記が語る古代の世界

『戦後日本の あの日あの時』70「社会党分裂」
●昭和26年(1951)10月24日、講和条約に賛成する右派、中間派と左派反対で左右に分裂。右派書記長浅沼稲次郎・衆議院27人、参議院30人、◎左派社会党鈴木茂三郎、衆議院15人、参議院31人。両派ともに安保条約に反対。翌々日衆議院条約307対47で可決。安保条約289対71で可決をした。11月18日には参議院員で可決成立した。社会党左派、昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約、旧安保条約の賛否を回り社会党は分裂した。両条約反対派を便宜上「左派社会党」と呼んだ。国会の中で控室を番号で区別した。(分裂当初は右派社会党を「日本社会党」左派社会党を「日本社会党第23控室」)左派社会党の委員長には鈴木茂三郎、書記長に野溝勝が就任した。日本労働組合総評議会(総評)の支援を受けたために、当時としては組織的な選挙展開をした。非武装中立を主張し再軍備に反対をした。護憲を主張し、女性やホワイトカラー層に支持を集めた。◎右派社会党、片山・芦田政権の瓦解とその評価めぐり社会党は数度にわたり分裂を繰り返した。講和条約賛成・安保条約反対を便宜上「右派社会党」と呼んだ。委員長は当初空白だったが浅沼稲次郎が就任した。後に公職追放で河上丈太郎が解除されて就任した。その後日本労農党が右派社会党に合流するが、左派にたいして組織力が弱く、一方左派は共産党主導から脱し労働基盤を組織的に展開していった。左右の勢力は当初右派が数で上回ったが、その後左派が数で上回った。昭和30年(1955)10月13日河上派と鈴木派の執念で統一された。









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『芭蕉紀行世情今昔』 ㊽(全63回) 47、全昌寺 夜の隔て

2016-05-30 04:10:50 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 ㊽(全63回)

47、全昌寺 夜の隔て
大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊まる。
なほ加賀の地なり。曾良も前の夜この寺に泊まりて、
“よもすがら 秋風聞くや 裏の山”
と残す。一夜の隔て、千里に同じ。
われ秋風を聞きて衆寮に臥せば、あけぼのの空近う、読経声澄むままに、鐘板鳴りて食堂に入る。
今日は越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかへ、階の下まで追ひ来たる。
をりふし廷中の柳散れば、
“庭掃きて 出でばや寺に 散る柳”
とりあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。 

★全昌寺 夜の隔て
◎大聖寺町の町はずれの全昌寺という禅寺に泊まった。ここはまだ加賀の国内である。曾良も昨夜この寺に泊まって、次の句を書き置いてあった。
“よもすがら 秋風聞くや 裏の山”曾良
曾良とは、立った一夜を隔てただけなのに、数千キロも遠く離れたような寂しさに襲われた。私も、曾良と同じ秋風を聞きながら、修行僧の寮に泊まった。
夜明け近くなって、澄んだ読経の声が響きわたり、やがて食事を告げる鐘板が鳴ったので、修行僧たちとともに食堂に入って。
今日は、加賀の国を出て越前の国に入ろうと思い気ぜわしく堂を降りると、若い僧たちが紙・硯をかかえて、階段の下まで追いかけてきた。ちょうどその時、庭の柳が散っていたので、
“庭掃きて 出てばや寺に 散る柳”
と、取り急ぎ即興の句を詠んで、草鞋を履いたまま、あわただしく書き与えた。

◆同行者の曾良と別れた芭蕉の悲哀感は一方ならぬものがあった。芭蕉は秋風を聞きながら、眠れない一夜を過ごした。寂しさと、不便さが身に沁みたのではないだろうか、何かにつけ芭蕉の身の回りの世話をしていてくれる、また同思考の話し相手を欠いた道中、宿泊はつらいものがあった。
そんな芭蕉の胸中を知ってか知らぬでか、お構いなしに、俳壇の大御所に句をせがんでいる。大聖寺のはずれの全昌寺に宿泊をした。
一足先に体調不良で伊勢の伯父の家に旅立った、曾良は前夜はこの寺に泊まっていた。一晩中、眠りにつけず、裏山の木立の上に吹き渡る、蕭蕭(しょうしょう)たる秋風の音を聞き明かした。
一日前に曾良がこの寺に宿泊したと、同じように芭蕉も、わずか一夜を隔てだが、千里の隔てる思いがする。また曾良が聞いた同じ秋風を聞きながら、修行僧の寮舎に横になった芭蕉だった。
◎はや夜明けの空も近く、読経の声も澄み渡り、やがて時を知らせる鐘板が鳴っていた。芭蕉は越前を速く越えよと用意をする中、若い僧たちは芭蕉の名声を知って、紙、墨、硯を持って階段下に追いかけてきた。
こんな光景は、今も昔も情景や心情は変わらない。さしずめ、流行作家のサインをもらいに集まってきたような状態かも知れない。そんな修行僧の頼みを邪見に断るわけにもゆかず、折からの庭の柳が散っていたのである。
“庭掃きて 出てばや寺に 散る柳”を詠んだ。
曾良の「隋行日記」には雨に為に五,六と二日宿泊、「夜もすがら」の句を詠んだに事実だが、日は芭蕉の日程と照合しても前夜は疑わしい。
“よもすがら 秋風聞くや 裏の山”曾良

 
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「古社寺探訪」神呪寺

2016-05-30 04:07:33 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、本尊は如倫観音像。新西国観音二一番札所。地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長四年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長五年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長七年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長八年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。 空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。
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「古社寺探訪」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂

2016-05-30 04:00:10 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂
三重県志摩市磯部町上之郷374・式内社・皇大神宮別宮・皇大神宮の別宮の一社、渡会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大神の遥宮」と呼ばれる。伊雑宮は内宮の別宮で、内宮の背後の鳥路山を越えた志摩市磯部町の上之郷にある。伊勢神宮別宮で十四社の内伊勢以外のものは伊雑宮のみで神田を持つ唯一の別宮である。明治以降、式年遷宮の為にお木曳行事が伊勢神宮に準じて二十年に一度行われる。
祭神は「天照坐皇大御神御魂」創建は延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世まで祭神には諸説が有って伊雑宮の神職の磯部一族の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命の二柱と考えられてきた。その後、記述の確認で“天照大神分身”の箇所記されている事で明治以降は伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされた。鎌倉時代に成立したとみられる『倭姫命正紀』に依れば、伊勢神宮が内宮を建立した時に倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地を探していた所、志摩国の伊佐波登美命が御贄地を選定し伊雑宮を建立された。通説にはこの説が伊勢神宮にとって都合の良い説ではあるが、この説には未だ確証が得られていない。創建は不詳とされ、伊雑宮付近は水田、稲作に適したことから、志摩土着の海洋信仰とする説など謎が多く残されている。また伊勢平家にまつわる源氏との確執で、平安期には治承・寿永の乱で戦禍を被り、伊勢平氏の伊勢に源氏の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備をした。伊雑宮は熊野三山が源氏の支持を得られた勢いで攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われた。勢いに乗った熊野勢は山を越えて伊勢国に攻め込んだが反撃で退却をした経緯が有って、時代の趨勢に翻弄された面が有った。伊雑宮は伊勢神宮に社殿が類似していて、入って右に宿衛屋があって、正殿は南面にして建ち、周囲に内に瑞垣、玉垣で二重で、正殿は神明造り、屋根の鰹木は六本、東西両端に内宮と同じ千木が高く聳(そび)えている。参拝をして感想は今までにない特異な形式の一ノ宮であった。

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5月29日(日)のつぶやき

2016-05-30 01:16:23 | 芭蕉紀行世情今昔

『芭蕉紀行世情今昔』 ㊾(全63回) 48、汐(しお)越(こし)の松 西行の歌 goo.gl/KbMvME


『戦後日本の あの日あの時』69「日米安保条約」締結。 goo.gl/XGLsng


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『戦後日本の あの日あの時』69「日米安保条約」締結。

2016-05-29 04:33:57 | 戦後日本史の記憶と記録
『戦後日本の あの日あの時』69「日米安保条約」締結。
●昭和26年(1951)9月8日、講和条約に引き続き日本とアメリカ代表はサンフランシスコ市内の陸軍基地に於いて両国間に「安全保障条約」調印した。安全保障条約には吉田茂が池田隼人蔵相に対して「この条約は評判良くない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名をする」と言って署名の場所に同席することを許さなかった。条約締結後1951年10月26日に、衆議院が締結を承認。11月18日には参議院が締結を承認、内閣が条約批准した。11月19日、奈良に於いて昭和天皇が批准書を承認。11月28日にアメリカ合衆国政府批准書に寄託された。講和条約批准国以外の国際関係、日本国と平和条約、および日米安全保障条約(旧)2条を持って自由主義社会の一員として国際社会に復帰した。条約締結後はインド、中華民国、ソ連、韓国、中華人民共和国など条約を締結しないかった国々とはそれに準じる共同宣言を持って国交正常化を果たしていった。条約発効の直前会議に招へいすらされなかった韓国政府はマッカーサー・ラインに代わる李ラインの宣言を行った。李ラインに対して日米両政府は非難した。昭和40年の日韓基本条約で締結正常化したが、竹島問題は未だ係争中で外交問題となっている。ユーゴスラビアとは1952年に書簡が交わされ、その後平和条約を発効している。ビルマは1952年4月28日を以て戦争状態を終結するとなっている。インドは1952年4月30日を以て全ての賠償請求権を放棄するとともに対印投資を約する日印平和条約が東京で締結された。ソ連については講和について合意を行い、日ソ共同宣言を出した。引き続き平和条約締結後、ソ連は日本に歯舞色丹を引き渡すと明記されている。インドネシアは批准せず、インドネシア、日本の平和条約で講和することになった。チェコスロバキアの間は1957年2月13日に国交回復の議定書が交わされて締結された。ポーランドとの間では1957年2月8日国交回復関する議定書によって締結された。中華人民共和国とは1972年9月29日、日本国政府と中国政府の共同声明を調印している。



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『芭蕉紀行世情今昔』 ㊾(全63回) 48、汐(しお)越(こし)の松 西行の歌

2016-05-29 04:28:55 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 ㊾(全63回)
48、汐(しお)越(こし)の松 西行の歌
越前の境、吉崎ぼ入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。
“よもすがら 嵐に波を運ばせて 月を垂れたる 汐越の松” 西行
この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるもには、無用の指を立つるがごとし。

★汐越の松 西行の歌
◎加賀と越前との国境に吉崎(あわら)の入り江を舟で渡り汐越の松を訪ねた。その昔、西行はこの松を次のように詠んでいる。
“よもすがら 嵐に波を運ばせて 月を垂れたる 汐越の松” 西行
この地の数々の美景は、この一首に詠み込まれている。しかも、この歌に一言でも付け加えるとすれば、五本で十分な指を六本に増やすように、まったく無駄なしである。

◆西行の歌枕を訪れた芭蕉は加賀と越前の国境の吉崎の入り江の汐越の松を訪れた。西行びいきの芭蕉の事、この歌には一点の付け加えの必要のない歌と絶賛する。
その評価については、それほどの名歌でもないと冷やかに評価する人もあって、ただこの地は一向宗そのご浄土真宗の中興の祖の、蓮如の布教の地、吉崎御坊の蓮如が“
“よのすがら 嵐に波を運ばせて 月を垂れたる 汐越の松”を詠んだとされる説が残っている。意味は一晩中、山の秋風が波を吹き飛ばして運ばせ、しぶきがかぶり、梢から滴り落ちる、しずくが月の光に映して、まるで月を滴らせているようだ。
西行と蓮如は時代が違うがどちらが詠んでも、違和感がないと言うのも何か理由があるのであろうか、

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「浪速今昔百景」高津神社

2016-05-29 04:25:06 | 浪速今昔百景

・大阪は上町台地、谷町九丁目の北に一筋入った所に向かい合って高津宮と報恩院がある。仁徳天皇が高台から民のかまどの煙が立たぬことを知って免税をした縁の地である。また難波高津宮に遷都したと伝えられる、宮跡に高津宮が鎮座する。
祭神は主神祭に仁徳天皇・左座に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、右座に葦姫皇后・履中天皇を祀る。豊臣秀吉が大坂城を築城をするときに、この地に遷座した、その時に比売古曾神社も境内に遷座し高津宮の地主神として摂社とした。
ところが第二次世界大戦で神輿庫を残し焼失、昭和三十六年に再建された。この高津宮は落語に文楽に登場する舞台であり、庶民の憩いと守り神である。中でも上方落語の「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」がる。「高津の富」はこの神社の境内で富くじが繰り広げ、泣き笑いの人情話は有名である。この寄席に五代目桂文枝一門が関わっており、今は亡き文枝最後の講演は「くろもん寄席」であり境内には石碑が建立されている。
また歌舞伎の坂田藤十郎襲名披露前の高津宮での祈願祭と絵馬奉納も行なわれた。境内は梅林の散策道に高倉稲荷神社、梅乃井、垣富庵石碑、北坂に西坂(旧縁切り坂)相合坂と庭園を散策して浪速の風情を感じると言うものである。
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「古社寺探訪」吉田神社

2016-05-29 04:21:54 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は以下の四柱春日神で、勧請元の春日大社と同じ。建御賀豆智命(武甕槌命)伊波比主命(経津主命)天之子八根命(天児屋根命)比売神(ひめのかみ)貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦二年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道を創始し、その拠点として文明十六年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永五年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
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