「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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河内王朝継承の謎

2016-03-08 04:30:07 | 歴史研究
河内王朝継承の謎
応神天皇(誉田別尊)父王仲哀天皇の第四子で母は神功皇后である。皇宮は軽島豊明宮で天下を治められた。在位41年、没年111歳、巨大な誉田山古墳に葬られた。
神功皇后が新羅を征伐した年、遠征先の筑紫の蚊田で生まれたとされる。応神天皇に関しては神功皇后の編で述べているが、麛坂王、忍熊王の反乱の制圧で王朝交代したと推測される。
戦前には皇室の万世一系が国是であったので王権の後退は公表はできなかったので研究者の自由な立場から、「古事記」に「日本書紀」に出てくる神話の時代から神武天皇、欠史八代を経て、三輪王朝の時代より実在の可能性を検証しつつ、なぞらえる根拠の事項はないかと模索されてきた。
後継争いが単なる兄弟の王族内の争いは別にして、神功皇后と応神天皇のように、ヤマトに帰還すると先帝の兄皇子二人が軍を挙げ待ちうけている事変については、身内争いでない旧勢力と新興勢力の戦いと位置づけだれるであろう。
その後に於いては継体天皇の不自然な皇位継承は歴然とした別の系統の王朝交代と思われている。
八幡宮の祭神は応神天皇である。八幡神が歴史の登場するのは「続日本紀」記事に伊勢神宮と奈良大神神社と並んで八幡が記載されている。
日本の神社12万余社の内、4万社余りが八幡宮の総本社が宇佐に祭られている宇佐八幡宮である。
この九州は神功皇后の九州の征伐と新羅派遣の基地の関係化関わりの深さを窺える。その後神仏習合の影響を受け「南無八幡台菩薩」として日本国中広まって行った。また源氏の守護神として義家は「八幡太郎」として武勇の祈念神仏である。
また祭神には応神天皇、神功皇后,比売大神の三神で、仁徳天皇、仲哀天皇、玉依姫が入れ替わる。
「日本書紀」には九州、新羅からの帰還の際の浪速の津で荒ぶる神の障害に、天照大神のお告げや、住吉神、底筒男神、中筒男神、上筒男神お告げがあって、大和の兄王の香坂王、忍熊王の反乱に祖神の加護を表し皇孫の正統性を強調する。

「古事記」にはホムタワケ命(応神天皇)軽島の明宮で天下を治めた。ホムダノマワカノ王の女と結婚された。多くの妃26柱の御子が産まれこれらの中からオホサザキノ命が王位を継承された。応神天皇の、和風諡号はホムダワケでワケで河内王朝の始祖としての位置付けに后妃の生んだ多くの皇子、皇女を詳細に記されている。
応神天皇は後継でオホヤマモリノ命とオホサザキノ命を尋ねて「お前達は年下の子と年上の子とどちらがかわいいか」問われた。そこでオホヤマモリノ命は「年上の子のほうが可愛いく思われます」と答えた。
オホサザキノ命は「年上の子は成人しておりますので、気にかかることはないが、年下の子は成人していないので可愛く思われる」と答えると、「オホサザキノよお前の言ったことは私と同じだ」「オホヤマモリノに山と海部を管理し、オホサザキノに私の統治する国の政治をしなさい。ウヂノワキイラツコには皇位を継ぎなさい」と命じられた。
三人の異母兄弟のうちヤカハエヒメ(丸邇臣出身)の生んだ皇子が皇位を指名された。
* ヤカハエヒメハワニ氏の女で、奈良市の北部一帯を拠点とした大豪族である。ワニ氏が天皇を迎えての大宴会での「歌」が宇治から葛野、近江にかけて有したワニ氏の様子が分かると言う。

応神天皇が日向国から召された美しく麗しいカミナガヒメを難波津に着いたのを見て、大雀命(オホサザキノ)感動されタケウチノ宿禰に頼み、天皇に「私に下さるように」取り成しを求めた。天皇に許しを請うとカミナガヒメを皇子に与えられた。
*この辺りの記述は女を与えられた話は応神天皇と仁徳天皇の同一人物ではないかと言う説の根拠の一つして考えられる。

「百済の朝貢」説話に応神天皇の御代に、海部、山守部、伊勢部を定めた。また剣池を作った。また新羅の人々が渡来した。タケウシウチノ宿禰はこれらの人々を率いて、渡の堤池として百済池を作った。
百済の国王の照古王は、牡馬,牝馬一頭づつをアチキシの託し献上してきた。天皇は照古王に太刀、大鏡を献上した。
* このアチキシは阿直史等の祖先である。
この頃百済との交流があった。「渡」は百済を指す。百済池か奈良北葛城郡付近。

「大山守命の反逆」説話に応神天皇が崩御された後になって、大雀命(オホサザキノ命)が天皇の指示に従って天下をウヂノワキイラツコに譲られた。
しかし皇子のオホヤマモリノ命は皇位を自分が継ぎたいと思い弟皇子のウヂノワキイラツコ命を殺害しょうと秘かに軍勢の準備をした。
大雀命はその兄王が軍勢を準備の知って使者を出し弟ウヂノワキイラツコ命に告げた。弟王は直ちに伏兵を宇治川の岸辺に置き、その山の手に絹の幕を張りめぐらし、幔幕を上げて仮宮に見せかけた。
弟王に見せかけた替玉を御座所が良く見えるように飾り、船に仕掛けを兄王が川を渡るときに船に潜んでいた弟王は船を傾かせ、兄王を滑らせて川の中に落とし、川辺で潜んでいた弟王の軍勢が一斉に攻撃し、兄王は川に流されて訶和羅埼まで流れ着いて沈んだ。大山守命の死骸は那良山に葬った。
この謀反以後、大雀命とウヂノワキイラツコが互いに皇位を譲り合いをしている内に崩御されオホサザキノ命が皇位ついた。仁徳紀には自殺したとされている。

「日本書記」応神天皇(ホムタノスメラギ)は仲哀天皇の第四子で母は気長足姫尊という。母神宮皇后(オキナガタラシヒメ)新羅を討たれた年、筑紫の蚊田で生まれた。
「武内宿禰兄弟説話」には武内宿禰と弟の甘美内宿禰の争うがあって、弟は兄を欺こうと「天皇に讒言して「武内宿禰が天下をねらう野心があります」天皇は武内宿禰を殺すことに命じた。
武内宿禰は嘆いて「手前は元より二心がない・・」武内宿禰に似た臣下の壱岐の真根子と言う者が身代わりに死に、秘かに筑紫に逃れ、船で南海を回り、紀伊の港に帰り、朝廷にたどり着き、罪のないことを弁明した。
天皇は神祇に祈り「探湯」をさせられた。結果、武内宿禰が勝った。
*「探湯」は熱湯に手を入れ、ただれた者を邪とする。
「弓月君、阿直岐、王仁」説話に百済王は縫衣工女を奏上した。来米衣縫の祖先である。弓月君が百済からやってきて奏上して「私は自国の一二〇県の人民を率いてやって来たが、新羅人が邪魔をして加羅国に留まっています」葛城襲津彦を遣わしたが、三年経っても帰ってこなかった。
百済王は阿直岐を遣わして良馬二匹を奉じた。平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わして「襲津彦が帰ってこない、お前立ちが行き新羅を討ちなさい」と命じられ、木菟宿禰らは兵を率いて新羅の国境に臨み、新羅の王は恐れその罪に服した。そこで弓月の民を率いて襲津彦とともに帰ってきた。
*この説話は古事記に出てくる百済の朝貢に似ている事項である。百済国との交流が盛んに有ったのか。

「兄媛の嘆き」説話に天皇が難波の大隈宮に居られた時、妃の兄妃媛が西方を望み嘆かれた。兄媛は吉備臣の祖先の御友別の妹で故郷を懐かしみ父母に会わせて欲しいと天皇に願い出た所、天皇は許しを出された。
その後天皇は淡路島に狩りをされ、吉備にから小豆島で遊ばれ、葦守宮移り住んだ。吉備の御友別が食事で天皇をもてなしをした、それで吉備国を割いてその子供たちに治めさせた。川島県に稲速別に、これが下道臣の祖先である。
上道臣、香屋臣の祖先である。次ぎに三野県を弟彦に、三野臣の祖先である。その他にも天皇から賜った者が吉備国の元となった。

「武庫の船火事」説話に船の老朽化で全国から五百の船が献上された。武庫の港に集められたが、新羅の使者が武庫に泊まって、そこから出火延焼で多数の船が焼けた。新羅王は驚き、工匠を奉じた。これが猪名部の祖先である。

「仁徳天皇」
「古事記」第16代天皇、仁徳天皇はただ一人の「聖帝」と記され、父応神天皇で母はホムダマカワカ王の女、ナカヒメノ命で名は大雀命という。
大雀命は高津宮で天下を治めた。母は葛城之眦古の女の石之日売命を皇后として、生まれた皇子は、オオエノイザホワケ命、スミノエノナカツ王、タジヒノミズハアwケノ命のオオエノイザホワクゴノスクネ命の4人、髪長比売妃から生まれた御子は2人、八田若郎女妃から生まれた御子は生まれず、宇遅能若郎女妃からも生まれず、御子は会わせて6人である。

「聖帝の御世」説話に渡来した秦氏を使い、茨田堤、茨田の屯倉造り、丸迹池、依網池を造り、難波の堀江を掘って、治水をし、小橋江を掘り、住吉の津を定め開発を進められえた。高い所にたって「民の釜戸に煙が上がっていないの見て」貧しいこと知って三年間租税を免除された。それ故に宮殿は荒れ果て、雨漏り修理されず、しのがれた。
3年後国見に立たれた、国中煙が立ち昇り、民に課税された。讃えて天皇の御世というのであう。
*丸迹池は富田林付近と奈良池田町辺り。依網池は大阪東住吉区か松原市辺り。茨田堤は寝屋川辺りと、大阪鶴見にも茨田横堤の地名がある。

「皇后の嫉妬と吉備の黒日売」説話で皇后石之日売命は、嫉妬されることが多かった。天皇が召される妃たちは宮殿にも入れなかった。天皇は吉備の海部直の娘の名は黒日売が、その容貌が美しくので天皇はお召しになりなったが。
皇后の嫉妬の深いことを怖れて、国元の吉備に逃げ帰ってしまった。天皇はその思慕に、淡路島に行った折には島伝いに吉備にお着きになって、食事のおもてなしを受けられた。
その後、皇后は酒宴の御綱柏を採りに紀伊国に行かれた折に、天皇は八田若郎女を結婚され皇后と嫉妬で色々問題が有った様で「聖帝」と言われた天皇も女性には積極的であったようである。
* 応神天皇の「日本書紀」「の記載で兄媛の嘆き」の説話と吉備の女で共通する箇所があって、天皇の恋慕を描いた所は応神天皇と同一視される由縁である。

「日本書記」で仁徳天皇の皇位に就かれる経緯については、ほぼ同じ様な筋書きで描かれている。
「民の竃に煙」説話は民の暮らしを天皇の心配りの人徳を説いて「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民は根本である。」と人民と君との苦しみや富は共有することを強調され、名君であることを知らしめた。
「池堤の構築」説話も古事記とほぼ同様、治水工事の模様を詳細に描かれ、神の占いや「人身御供」が出てくる。新羅人の朝貢が有って、そしてこの工事に使われた、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉じた。
この年に高麗国の客をもてなされ、軍臣百寮を集めて高麗の奉じた盾、的を試して、多くのものが射通することが出来なかった。ただ的臣の祖先の盾人宿禰だけが鉄の盾を射抜いた。
その後治水工事は、宇治の栗隅県、河内一円に堤を掘った。
上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦の四箇所の原を潤し、四万項余りの田が得られた。
*この工事は治水もが、新田開発も有ったのだろう。この頃に新羅、高麗国の交流と朝貢があったと伝えている、古事記では渡来した秦氏を使い工事が進められたと記されている。日本書記では朝貢の「鉄」が出てくるので、盾、的と描かれているが、工事用の土木用具も含まれてはいないだろうか。
新羅の朝貢、前回より六年なかったので促した所、新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他の品物合わせ八〇艘であった。

「皇后と不仲と八田皇女の立后」説話は「八田皇女を召しいれ妃としたい」と、皇后は承知されず。
皇后が遠出された時に宮中に中に入れられ、その後八田皇女の妃にすることを強行し、不仲になって行き、皇后磐之媛命は筒城宮で亡くなられた。
皇后を奈良山に葬られた。三年後八田皇女が皇后に立てられた。


「鷹甘部の定め」の説話、紀角宿禰を百済に遣わして、始めて国郡の境の使い分け方や郷土の産物を記録する為に行った。そのとき百済王の王族酒君の無礼があったので、紀角宿禰が百済王を責めた。百済王は恐れ入って鉄の鎖で縛り、襲津彦に従わせて進上した。
「新羅・蝦夷との紛争」の説話、新羅が朝貢しなかった。上毛野君の祖先竹葉瀬を遣わして、貢物を奉じないことを問われた。その途中で白鹿を獲た。帰って天皇に奉じた。しばらくして竹葉瀬弟を田道を遣わされた。「もし新羅が抵抗したら兵を挙げ討て」新羅人は毎日挑戦をしてきた。その後蝦夷もが叛いた、田道を遣わして討たせた。蝦夷の為に破られ伊峙の水門(石巻)が死んだ。その後蝦夷が襲ってきて、人民を脅かすので、田道の墓を掘った。
中から大蛇が出てきて蝦夷に食い付いて、蛇の毒で多の蝦夷が死んだ。
その後五年後、呉国・高麗国が朝貢した。
天皇が崩御、百舌鳥野陵(堺し大仙町)葬られた。

「履中天皇」「記紀」には父は仁徳天皇、大兄去来穂別尊で母は磐之媛尊、皇后幡日之若郎女、皇妃黒媛、皇宮磐余稚桜宮、在位六年、陵墓は百舌鳥耳原南陵(堺市石津ケ丘)拠点は大和、河内の住吉、丹比で即位してからは,羽田矢代宿禰の娘黒媛を廻り、弟住吉仲皇子と軋轢が生じ、皇子は臣下に助けられ大和は石上神社に難を逃れる。弟の瑞歯別皇子〔反正天皇〕の救援で、住吉仲皇子の下臣に殺させる。謀反に加わった、阿雲連濱子、倭直吾子籠を罰し、天皇を救った者など、蘇我満智、物部伊莒弗、平群木菟、円大使主、ら四人を国政を参画させた。仁徳天皇の没後後継を廻り兄弟の後継争いが次々と表面化していった。

「反正天皇」記紀に父は仁徳天皇、多遅比瑞歯別尊、母は磐之媛、皇后津野媛、皇宮丹比柴籬宮、在位5年、42年、陵墓百舌鳥耳原北陵(堺市北三国ヶ丘)、
「充恭天皇」雄朝津間稚子宿禰尊、母は磐之媛、皇后忍坂大中姫、皇宮遠飛鳥宮、陵墓恵我長野北陵(大阪府藤井寺市国府)反正天皇に関しては記述、資料が少なく実在性の薄い天皇とされている。説話には名前のあるように多遅比瑞歯別尊に入れられている「歯」が生まれたとき既に生えていて長さ一寸、幅二分、上下が整い、身長が9尺2寸半、淡路島で誕生し宮都は丹比柴籬宮ちされ、葛城一族の影響が多かったと見られる。

「充恭天皇」記紀に依れば父仁徳天皇、母は磐之媛命、皇后忍坂大中姫命、在位42年間、皇居遠飛鳥宮、陵墓恵我長野北陵(藤井寺市国府)依れば葛城地方の影響のあった天皇で、病弱の為、皇位の継承を軍臣たちからの要請を固辞した。後継の皇子中でも評判は芳しくなかったようだが在位42年間の政治の手腕は評価され、治世の事績もも氏族の姓の乱れを甘樫丘での「深湯瓮」を据えて釜の中に手を入れさせて,臣下の名乗る氏姓の真偽に判定した「盟神深湯」(応神天皇時代に行なわれた)神判である。その後の皇位継承で太子の木梨軽皇子が決まっていたが,同母兄妹の近親相姦で人心離れて、弟穴穂皇子は継ぐことになるが、兄の皇子は「記」では伊予に流され後追ったか軽大娘と自死したという。
*強大の権力と争いに兄皇子が負けたのであろう。

「安康天皇」記紀に、父は充恭天皇、穴穂尊、母は忍坂大中姫命、皇后中帶姫巫女と、没年56歳、在位4年、皇宮石上穴穂宮、陵墓菅原伏見西陵(奈良市宝来)石上に宮居を構えた初めての天皇と言われる。在位年数も短く、石上周辺の豪族和珥氏と深い関係ではないかと言われている。最後は大草香皇子の遺児の目弱王によって討たれてしまう。目弱王変で天皇が皇后と内緒話、天皇が大草香皇子を討ったこと知ったとすれば大きく成長すれば謀反を起こすだろうと危惧されていた、を目弱王は7歳で床下で聞いていた。秘かに天皇の寝てるいる所に行き,太刀で首打ち切った。死んだ天皇には世継ぎがなく王権は次々に変わって行く。

「雄略天皇」「記紀」に依れば、父は充恭天皇、大泊瀬幼武尊、母は忍坂大中姫命、皇后波多眦能若郎女、没年62歳、在位24年間、泊瀬朝倉宮、陵墓丹比高鷲原宮(大阪府羽曳野市島泉)、「宋書」「梁書」にも倭の五王に最も有力で実在視されておる天皇で、周辺国に攻略し勢力拡大した形跡が残されている。国内の説話も多く残されていて、眉輪王、葛城円大臣、市辺押磐皇子、御馬皇子らを積極的に粛清し、志幾大県主、吉備上道臣、下道臣、伊勢朝日郎らの反乱謀反を鎮圧したと伝えたられる。天皇の資質として「名君」「暴君」の両面を兼ね備えていた。説話には引田部赤猪子の若い頃に美しい乙女に何時か宮廷に召抱える約束を80年後、老いた老婆となって天皇に会う話や、葛城山で一言主神と出合った話など記されている。

「清寧天皇」父、雄略天皇、白髪武広国押稚日本根子尊、母は葛城韓姫、没年41歳、在位5年、皇宮磐余甕栗宮、陵墓河内坂門原陵(大阪府羽曳野市西浦)「古事記」に依れば雄略天皇の皇子の白髪大倭根子は磐余の甕栗宮で天下を統治された。この天皇には皇后がなく、皇子も生まれなかった。説話には生まれながらに「白髪」であったと言う。母は葛城円大使王で娘韓媛を雄略天皇が暴力的に、無理やり入廷させて生ませた皇子と言われた。その後の皇位継承で問題を起こす元と成った。

*大和盆地の巻向付近に、三輪王朝が王権が交替された説が主流で、それまでの万世一系の論理を覆すもので、その推論に従えば、応神天皇以後は河内一体に記述が展開されるに、あの巨大古墳群、羽曳野、古市の応神天皇陵と、堺の仁徳天皇陵と指定される大仙古墳遺跡は根拠がないわけでもない。
河内王朝時代とされる仁徳天皇年代には河内を中心に治水、土木工事がされた地域の痕跡も残っていて、詳細に記紀に述べられている。
これらの工事の様子が語れている割に、巨大古墳の造営の記述は残されていない。また天皇の妃の記録として各地の豪族の女の関係も記されている。大陸と新羅、百済、高麗の朝貢の様子も記されている。
国内に様子に於いても蝦夷の反乱を窺わせる記述も掲載されている。
仁徳天皇の没後を境にして皇位継承を廻り、兄弟同士の争いが熾烈に繰り広げられた。



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