「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「西国観音三十三所巡り」三井寺・園城寺・“西国一四番札所”滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。開基は大友与多王、開祖は三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍

2017-11-24 04:39:31 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」三井寺・園城寺・“西国一四番札所”滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。開基は大友与多王、開祖は三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁五年(814年)、讃岐国那珂郡に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹にあたる。本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第十四番札所である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。三井寺は七世紀に大友氏 の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、十世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、二十五歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。



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