「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

戦後日本の記憶と記録」(全307回)3、“戦争処理の内閣の創設” 「昭和二十年八月一五日、天皇、戦争終結の詔書を放送する

2017-11-25 04:48:18 | 温故知新
「戦後日本の記憶と記録」(全307回)3、“戦争処理の内閣の創設”
「昭和二十年八月一五日、天皇、戦争終結の詔書を放送する。世に言う「玉音放送」である、「現人神」であった天皇が、人間天皇として、終戦を宣言して「戦後日本」が始まった。八月十七日戦争終結の処理内閣に適当な人物が無く模索していたが、皇族で東久邇宮稔彦王に、次期首班就任を打診され、緒方、近衛の三者で、赤坂離宮で協議されたが、組閣に思うに任せず、適任者の住所が判明せず終戦の焼け野原の状態の中、戦後処理に組閣が急がれた。
何故なら戦時中の責任者は交渉の対象者ではなく、戦犯として裁かれる者に戦後処理をさせる訳に行かず、その人選は難行していた。
第四十三代東久邇宮内閣、    外務大臣。重光葵、吉田茂。
内務大臣。山崎巌。       大蔵大臣。津島壽一。
陸軍大臣。東久邇宮兼任、下村定。海軍大臣。米内光政。
司法大臣。岩田宙造。  の布陣で組閣され、戦後処理に当たることになった。
●東久邇宮稔彦王(1887~1990)昭和初期の元皇族・東久邇宮家を創設・妃は明治天皇の皇女聡子内親王・東久邇宮朝彦王の九王子、皇族唯一の内閣総理大臣。陸軍大将を卒業・大正十一年フランス陸軍大学校を卒業・軍事参事官・、敗戦処理に皇族であり、陸軍大将でもあったので、その任に相応しいとして、時代の要請に生きた皇族で、百二歳まで生きられた。
●重光葵(1887~1957)大分生まれ、東大卒・昭和期の外交官、東京帝大卒後外務省に入り、ドイツ、イギリス、中国などの大使、公使に勤務する。終戦時日本降伏文書に調印しのち改進党総裁、日ソ国交回復に尽くした。パリ講和会議に随行・一九三〇年に中国在勤中に日中関税協定を締結し対中国宥和に務めた。
満州事変で挫折・満州事変などで収拾に当たるが三二年の上海事変で収拾を計る中、爆弾を投げられて片足を失う。三三年から三六年まで外務次官として日中提携政策を推進。以後中ソ、駐英、中華大使を経て四三年に東条内閣の外相になって、小磯内閣では外相兼大東亜相に就任した。
東久邇宮内閣でも外相を務めて降伏文書に調印・極東軍事裁判でも禁固七年の刑を受けた。五二年に改進党総裁・衆議院議員に五四年に鳩山内閣に入閣・副総理・外相に日ソ国交回復に努めた。
●吉田茂(1878~1967)戦後の米軍占領下、七年に渡り首相を務めた。
土佐自由党の志士袖竹内綱の五男として生まれ、吉田家に養子にいる。
養子に入った茂は養父健三は若くして死去し膨大な遺産を手にする。
少年期の茂は義母に厳しく育てられ次々と学校を変えて、中退、退校を繰り返し最終的に学習院に入学吉田茂の人生を決める外交官養成の学科に入学、その後領事館試験に合格した。
二十年間は中国大陸で暮らし政界に人脈を作る二.二六事件以後大臣候補に浮上し、戦後処理内閣の東久邇宮内閣に外相として入閣、続いて幣原内閣でも外相を勤め頭角、自由党鳩山一郎総裁の公職追放に伴い後任の総裁に就任し、内閣総理大臣に就任。
豪腕で知られた政治的手腕は多くの対立を生み、日本社会党に大一党を奪われたが社会党も政権は長続きせず、その後の選挙で自由党は大勝し吉田内閣を組閣し、強引にサンフランシスコ条約を締結した。
昭和二十九年十二月波乱ずくめの吉田内閣は総辞職、自由党総裁を辞任した。日本で五度に渡り内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ一人である
任期期間は二六一六日間だった。戦後日本の路線を残し大きな影響を与えた反面、ワンマン体制とか、“バカヤロー解散”など異例ずくめの政治家だった。その後の吉田学校の主な門下生に佐藤栄作、池田隼人、田中角栄などがいた。
●山崎巌(1894~1968)昭和初期の内務官僚・政治家・福岡県出身、東大卒内務省社会局・土木局・警保局長・警視総監・内務次官を経て昭和二十年東久邇宮内閣の内相・翌年公職追放になり、五二年に政界衆議院に連続当選、池田内閣で自治省国家公安員会になったが、浅沼委員長暗殺事件で引責辞職。
●津島壽一(1888~1967)昭和期の官僚、政治家、香川県出身明治四十五年に大蔵省に入り昭和九年に大蔵次官となった。
北支那開発会社の総裁を経て1945年に東久邇宮内閣の蔵相。戦後は公職追放になり、解除後は戦後処理の東南アジアの賠償の交渉に当たる。岸内閣では防衛庁長官に就任。
●下村定(1887~1968)昭和の軍人、陸軍大将高知県出身、東久邇宮内閣の陸相となって、陸軍解体の業務にあたる。
●米内光政〔1880~1948〕海軍軍人、政治家岩手県出身、1936年連合艦隊司令部長官兼第一艦隊司令長官と成る。その後、林内閣の海軍相に就任、近衛、平沼内閣にも留任し、日米開戦には反対し、海上封鎖と爆撃による日中戦争の解決を主張した。鈴木貫太郎内閣に留任し戦争終結に尽力を尽くした

「東久邇宮」は苦渋の発言によって、国民に、その国民として全てに一人一人に責任を促し、戦後を取り組むことを、表明しなければならなかった。
「一億総懺悔」の発言だった。
*八月三十日、厚木に「連合軍総司令官、ダズラス、マッカーサー」が、あの有名なタラップから降り立つ、長い愛用のコーンパイプを燻らせながらサングラスをかけて日本を眺めていた光景である。
慌しく時は動き、混乱の中、九月一日に第八十八臨時議会が召集し、五日に開会し、六日に閉会したのである。
*八月二十二日、ソ連の潜水艦、樺太から日本へ引揚船三隻を撃沈させ、死者千七百八人の犠牲者に達した。
◇よく戦後に語られることに、ソ連は日本の敗戦後も、執拗に終戦を知りつつ敗走する日本の軍、民間を問わず、銃砲を向けた非道な戦後処理をしたことは、日本人の忘れえぬ事実であった。
武器も反撃も出来ない引揚げ船に撃沈をさせたことは、終戦の混乱の中「うやむや」になったが決して忘れてはならないと責を問う人も多い。
*八月二十三日、陸海軍の復員始まる。
*九月一日 第八十八回臨時議会召集。(九月四日開会、九月五日閉会)
この時期に議会が召集され翌日に閉会されたが多分、残された人々による戦後処理を協議されたのだろうか。
*九月二日、日本の歴史的瞬間である、東京湾のミズリー号艦上で降伏文書に調印したのが、全権の重光葵、梅津美治郎参謀総長だった。
●梅津美冶郎〔1882~1949〕陸軍大将、参謀本部総務部長を経て支那駐屯軍司令官となり、2・26事件後陸軍の中枢に位置し、陸軍次官、参謀総長となって、降伏調印式に陸軍代表となって参列、戦後A級戦犯で終身刑と成った。
◇それは日本の降伏と言う屈辱と、再生に懸けた国民の、戦後の基点となった、記念すべき日だった。
上海事件で片足を失い、戦前、戦後の政治の中枢の波乱に生きた重光外相の痛々しくも、毅然とした態度、
服装と振る舞いは、黒の礼服に山高帽に白い手袋に握られた杖は、英国紳士のスッテキに見え、誇りと威厳をもって臨む外交に生きた紳士の姿であった。


ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『歴史古代豆知識』27・殯(... | トップ | 『江戸泰平の群像』(全38... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

温故知新」カテゴリの最新記事