「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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歴史が語る伝説の謎 『平安座主・別当興亡の系譜」

2016-03-02 04:29:11 | 歴史研究

歴史が語る伝説の謎

『平安座主・別当興亡の系譜」
          
はじめに

日本の平安仏教を二分させた天台宗と真言宗、とりわけその天台宗は仏教で言う「総合仏教学校」であった。禅宗、浄土宗、法華宗などと、薬師如来から、阿弥陀仏、釈迦如来など宗旨、拝仏を問わず「学僧の府」でもあるとともに、権力と武力の牙城でもあった。
その寺院と宗派の最高権威、権力者の「座主、別当」は存亡を左右するものでもあった。
荘園制度と共に勢力は拡大、朝廷内への発言力と仏事の覇権を巡り、宗派内、他宗に対しても対抗する意味に於いても寺院、宗派の長官である「座主、別当」の任命は重要であった。
「座主、別当の補任」任命権は朝廷の特権であり、それぞれの利害と思惑が相成って熾烈な戦いが繰り広げられた。
特に仏教史上熾烈を極めたが、天台座主の補任を巡る争いに端を発したのが第三代座主円仁の山門派と、第四代座主円珍の寺門派の空前絶後の朝廷を巻き込んだ争いであった。
奈良仏教の雄、興福寺も東大寺も興亡、また別当の補任で朝廷と激突、荘園拡大、朝廷への影響力を懸けての戦いは複雑に絡み合った。
真言宗も同様に高野山の金峯山寺座主を巡り金剛峯寺ざすと大伝法院座主の補任を廻り、覚鑁を指す鳥羽上皇に、加護のもと就任したが旧勢力と紛糾し壮烈な紛争の後に、高野山を降り、此処に古儀真言宗と新義真言宗と分派した。
成熟する平安仏教は、仏教普及と権力争いは表裏一体であったの確かであった。

一  天台座主の系譜

                  寺=寺門派
 最終時 辞=辞退  没=職責時没  止=座主停止 再=再任
    僧名  就任期間                     
宗祖    最澄               ~弘仁十三年(八二二) 没
 *大同一年最澄天台宗を開く。弘仁十年比叡山に戒壇院を設立を申請をする。
初代    義真  天長元年(八二四)~天長十年 (八三三) 没  
二代    円澄  承和元年(八三四)~承和三年 (八三六) 没
三代    円仁  仁寿四年(八五四)~貞観六年 (八六四)  没    十年
#円仁(七九四~八六四)慈覚大師
延暦十三年(七九四)下野国生まれ。天台宗山門派の祖。九歳にして大慈寺広智に師事し、十五歳にして広智に伴割れて比叡に上がり最澄の門下に入った。最澄に伝法可所潅頂を受け、同年東大寺で具足戒受けた。その後比叡山で教師になり、法隆寺、四天王寺などで講演し、承和二年(八三五)六月、入唐還学僧(条件付)の詔を受けた。 入唐には遣唐大使藤原常継に請益僧円載らと共に従った。
 揚州に漂着し、天台山に上がり、長安で天台学を学ぶつもりが資格なく、やむなく開元寺で学び、翌年帰国の遣唐使船に乗り帰国の途中に嵐に遭い、山東半島に漂着、翌年五台山に上がり志遠和尚にあい教えを受け「摩可止観」、など学び天台経典三十七巻を書写し、青竜寺でも義真阿闍梨に学び、玄法寺に、大安国寺に長安に止住六年多くの経典と教えを学び、その折仏教の排斥に会い、新羅の商船で命からがら経典など持ち帰った。その持ち帰った品の数々は天台宗に大きな影響を与え比叡山の確立に寄与した。帰国後比叡山天台宗座主として十年間にも及び弟子の育成と、寺院の拡充に貢献した。
また入唐の詳細は「入唐求法巡礼紀」に残されている。
四代    安慧  貞観六年(八六四)~貞観十年 (八六八)  没
五代    円珍  貞観十年(八六八)~寛平三年(八九一)没 寺門派二十三年
#円珍(八一四~八九一)智証大師
 弘仁五年讃岐国に生まれ、母は佐伯氏の女で空海の姪である。天台宗寺門派の宗祖。十五歳で叔父に随って比叡山に上がった、座主の義真に師事し「法華経」「金光明経」など学び、受戒し僧に成り、籠山すること十二年内供奉十禅師に勅任。
仁寿元年(八五一)入唐の為に大宰府に向った。七月に出航福州に着岸した、天台国清寺で止観を学び、越州開元寺で台教を、長安青竜寺の法全に大潅頂を、大興善寺で、福州開元寺で「法華、華厳、倶舎」を学び、大小乗経など四百四十部千巻をもって、天安二年(八五八)に肥前に帰国、大宰府に着いた。入糖七年数々の経典を持ち帰ってことは大きくより一層天台の教学に貢献ことは言うまでもない。比叡山王院で住持し多くの僧に伝授した。清和天皇以下三〇余名に潅頂を授け、五五歳にして天台宗座主に就任、在任二十年間に多くの弟子の育成に尽くし、円珍に影響された弟子を多く残した。
*山門派、寺門派の盛衰記
 比叡山天台宗延暦寺の揺ぎ無い確立に貢献したのが、円仁と円珍である。共に入唐し数々の経典とその奥義を持ち帰り、伝え弟子を育てた、それぞれの教えが多くの弟子達に引き継がれた。
その大きな功績が故に尾を引き、二派に分かれるほどの影響があった。それは天台座主を巡る後継者にまで波及していった。
六代    惟道  寛平四年(八九二)~寛平六年 (八九四)  没 寺門派
*六代座主に 円珍二十年間の座主で弟子の惟道が二年間座主になった。
寛平四年七代座主に円珍系の弟子の猷憲が就任、続いて八代座主に康済が五年間座主になった。
九代座主に円仁派の長意が七年間就任した、十代には円珍派の増命が十八年間も座主に就任、十一代、十二代に良勇、玄鑑が、十三代尊意座主から十七代喜慶まで円仁派が就任した。
七代    猷憲  寛平五年(八九四)~寛平六年(八九四)没 寺門派
八代    康済  寛平六年(八九四)~ 昌泰二年(八九九)辞 寺門派
九代    長意  昌泰二年(八九九)~ 延喜六年 (九〇六)  没
十代    増命  延喜六年(九〇六) ~延喜二十二年(九二二)辞寺門派十八年
十一代  良勇  延喜二十二年(九二二)~延喜二十三年(九二三)没 寺門派
十二代  玄鑑  延喜二十三年(九二三) ~延長四年(九二六)  没        
十三代  尊意  延長四年(九二六)~ 天慶三年(九四〇)    没  十四年
十四代  義海  天慶三年(九四〇)~ 天慶九年(九四六)    没 
十五代  延昌  天慶九年 (九四六)~ 応和四年 (九六四)   没 十八年
十六代  鎮朝  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)   没
 *良源焼失寺院を再建してゆく、延暦寺東塔法華堂、などその後惣持院、講堂、文殊院他。(九八〇)には根本中堂を再建。
十七代   喜慶  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)  没            
十八代   良源  康保三年 (九六六)~ 永観三年 (九八五)  没   十九年
 *天元十二月(八九一)円仁派、円珍派の両門徒法性寺の座主職を争い円仁派の門徒が勝つ。
# 良源(九一二~九八五)元三大師
延喜十二年(九一二)近江国浅井で生まれ、慈覚派(円仁)で比叡山の中興の祖、十二歳で比叡山西塔理仙に師事し、尊意座主に受戒、阿闍梨、内供奉、権律師、僧正と順風に地位を上り、五十四歳(九六六)で座主に上り詰めた、何より良源の名を知らしめたのが、応和三年(九六三)の宮中で行なわれた「応和宗論」で南都の僧との活躍であった。
比叡山の延暦寺の大火を機に堂塔を整備したことと、藤原氏の荘園の寄進を受け経済的にも、基盤が確立して評価と信頼を得た。
良源の出現によって天台宗比叡山延暦寺は再興されて「天台中興の祖」と仰がれたが、結果、円仁、円珍の両派の均衡は崩れて、主導権は円仁の慈覚派が中核を占めるにいたりこれを機に山門派、寺門派の対立が表面化していった。
十九代   尋禅  永観三年 (九八五)~ 永祚元年 (九八九) 辞 
*藤原兼家の子、尋禅が座主に就任。それまで兼家は横川に薬師堂を建立。
二十代   余慶  永祚元年 (九八九)~ 永祚元年 (九八九) 辞 寺門派
*余慶が天台座主に補任されたが直ちに円仁派の猛反対で座主につくことできなかった。事の起こりは円仁派の盛り返しの最中、京都の法性寺の座主を廻り(法性寺の座主は代々円仁派の僧)、円珍派の僧余憲が朝廷より任命され、これを知った円仁派は強烈に反対し阻止し。
永祚元年(九八九)  朝廷は天台座主に寺門派の余慶を任命した。
其の時も円仁派は、猛烈に反対し、任命状を使者を途中で待ち受けて、妨害、襲い盗ろうとし、勅使が宣命が、比叡山に持って上がることが出来なかった。
* 「永祚の宣命」と呼ばれ、余慶は天台座主に任命されながら、その職務に就けなかった。この事件より決定的に亀裂が起きていった。
二一代  陽生  永祚元年(九八九)~  永祚二年(九九〇)   辞
二二代  暹賀  永祚元年(九九一)~  長徳四年(九九八)   没
 *正暦五年(九九三)遂に、円仁派と円珍派の武力を持っての争いが起きた。
山内紛争が三千人以上が山塔付近に住持し、僧衆徒が入り乱れての争い、山中に坊舎を配備、一触即発の状態の中で突如、円仁派が円珍派の拠点に襲撃をしたことが発端で衝突が起きた。
 双方入り乱れて乱闘が起き負傷者、死者の数は定かではないが、数で劣る円珍派の僧徒千人は、落ち逃げ延びるように、山を下った。
 向った先は兼ねてより、円珍が唐より帰国した折に居を構えて住持したところの、山麓の大友邸に円珍派は居を構えた。
 園城寺は円珍派が大友氏より寄進を受けものであるが、あの悲劇皇子、弘文天皇の皇子の邸跡で、以後此処を拠点に円珍派は勢力を伸ばしていった。
山内紛争から宗内紛争の始まりである。
自立した円珍派は「園城寺」を寺門派として積極的に朝廷に働きかけたりして加護と理解を求めた。
朝廷も山門派の行き過ぎた行動に再三諌め、寺門派に深入りを示したが返って山門派を刺激した感があった。
二三代  覚慶  長徳四年(九九八)~ 長和三年 (一〇〇一) 没
二四代  慶円  長和三年(一〇〇一)~ 寛仁三年(一〇一九) 辞  十八年
二五代  明教  寛仁三年(一〇一九)~ 寛仁四年(一〇二〇)  没
二六代  院源  寛仁四年(一〇二〇)~ 万寿五年(一〇二八) 没
二七代  慶命  万寿五年(一〇二八)~長暦二年 (一〇三八) 没  十年
二八代  教円  長暦二年(一〇三八)~永承二年 (一〇四七) 没
*長元八年(一〇三五)三月、園城寺の三尾明神の祭礼に、延暦寺の僧徒が乱入、乱闘となった。
直ちに報復として園城寺の僧徒、僧兵らを延暦寺の僧正の坊舎の襲撃、焼き討ちをかけた。
*長暦三年(一〇三九)二月、その頃には園城寺には戒壇院がなかった。
戒壇院とは僧侶になるには受戒して始めて僧侶の資格を得る。その戒壇院は当時は延暦寺、東大寺に行って僧侶の受戒を受けていた。園城寺は再三戒壇院の許可を朝廷に求めで出たが悉く延暦寺の反対し強訴、合戦繰り広げられた。
長久三年(一〇四二)三月、園城寺は再度朝廷に戒壇院の申請を出す。
 再三尾園城寺の戒壇院の申請に、怒った延暦寺の僧衆徒は園城寺の山内の円 満院へ焼き討ちをかけた。
*永承三年(一〇四八)八月、天台宗座主に、寺門派の明尊に補任が決まった。
たちまち山門派の僧兵らの猛反対で辞任し、やむなく改めて山門派の源信を補任した。この頃各宗派の最高の地位権威の座主、別当の許可、任命権は朝廷にあって、しばしば山内の僧綱(僧正、僧都、長者など)の反対で阻止される事がしばしば
 徹底して園城寺への反対は露骨になっていった。
二九代  明尊  永承三年(一〇四八)~永承三年(一〇四八)辞  寺門派
三十代   源心  永承三年(一〇四八)~天喜元年(一〇五三)    没 
*(一〇五三)三月、天台座主補任を廻り、朝廷は寺門派の源泉を補任した。
 またも延暦寺は猛反対で、即辞任しなければならなかった。
 天喜元年結果山門派の明快で落着した。
三一代  源泉  天喜元年(一〇五三)~天喜元年 (一〇五三) 辞
三二代  明快  天喜元年(一〇五三)~延久二年(一〇七〇)  没  十七年
三三代  勝範  延久二年(一〇七〇) ~承保四年(一〇七七) 没
*延久七年(一〇七七)二月、山門派、寺門派入り乱れて断続的に乱闘があって、原因は園城寺の戒壇院の許可を廻り抗争の最中、四月は寺門の覚円が天台座主に補任された。またもの反対で辞任し、朝廷は止む無く山門派の覚尋を座主に補任して決着した。
三四代  覚円  承保四年(一〇七七) ~承保四年(一〇七七) 辞  寺門派
三五代  覚尋  承保四年(一〇七七) ~永保元年(一〇八一) 没          
*永保三年(一〇八一)三月、日吉社の祭礼に下人と下人の喧嘩で、山門派が怒り、僧徒ら園城寺に焼き討ちをかける。
三六代  良真  永保元年(一〇八一)~寛治七年(一〇九三) 辞
*天仁三年(一一〇〇)六月、園城寺の僧徒は長史の坊舎を焼き払う。
多分朝廷より使わされた園城寺の高僧であったが自分たちの意の添わない人事に抗議したのだろ。
三七代  仁覚  寛治七年(一〇九三)~康和四年(一一〇二)  没 
*(一〇九五)延暦寺の僧徒、寺僧を殺害したとして源義綱を流罪を求め日吉社の神輿を奉じて入京を企てる。
 *園城寺の僧徒、長史の坊舎を焼く。八月、朝廷は園城寺の越訴を停止させる。
三八代  慶朝  康和四年(一一〇二 ~長治二年(一一〇五)  辞
三九代  増誉  長治二年(一一〇五) ~長治二年(一一〇五) 辞  寺門派
*長治二年(一一〇五) 天台宗座主として寺門派の、増誉が補任されたがまたもの山門派の延暦寺沿僧衆の猛反対で辞任を余儀なくされた。
四代   仁源   長治二年(一一〇五)~天仁二年(一一〇九)  辞 
四一代  賢暹   天仁二年(一一〇九)~天仁三年(一一一〇) 辞
四二代  仁豪   天仁三年(一一一〇)~保安二年(一一二一) 没 十一年
四三代  寛慶   保安二年(一一二一)~保安四年(一一二三) 没
*(一一二二)延暦寺の僧徒、美濃山門領の処置を巡り、座主覚慶を遂う。翌年再び座主を遂う。
*保安三年(一一二二)五月、園城寺の僧衆徒、延暦寺の僧徒を殺す。直ちに延暦寺の僧兵ら報復として下山し園城寺に向かい、襲撃をかけ金堂、他諸堂を焼き払う。
四四代  行尊   保安四年(一一二三)~保安四年(一一二三)辞   寺門派
四五代  仁実   保安四年(一一二三)~大治五年(一一三〇) 辞
*(一〇二二)道長が延暦根本中堂に参拝、十二神将像を供養する。
*大冶四年(一一二九)十二月、天台座主として、久々に寺門派の行尊が補任された。直ちに山門派の猛反対で辞任した。
四六代  忠尋   大冶五年(一一三〇)~保延四年(一一三八) 辞 
四七代  覚猷   保延四年(一一三八)~保延四年(一一三八)  辞
*保延四年(一一三八)四月、天台座主として寺門派の覚噂を補任するが、延暦寺の僧衆徒の猛反対で辞任。
四八代  行玄   保延四年(一一三八)~久寿二年(一一五三) 辞寺門派 十五年
四九代  最雲   久寿二年(一一五三) ~応保二年(一一六二) 没
 *(一一五八)天台座主最雲らに、僧徒の蜂起を禁止する。
五十代  覚忠   応保二年(一一六二)~応保二年(一一六二)辞 寺門派 
五一代  重愉   応保二年(一一六二) ~応保二年(一一六二) 辞
*応安二年(一一六二)一月、延暦寺の僧衆徒ら、延暦寺の僧衆徒ら、園城寺の長史覚忠が天台座主に補任された、直ちに山門派が拒み猛反対、結集しこの訴えを朝廷にする、朝廷この訴えに屈し山門派の重愉を座主にすることで決着。
五二代  快修   応保二年(一一六二) ~長寛二年(一一六四) 止 
五三代  俊円   長寛二年(一一六四) ~仁安元年(一一六六) 没
五四代  快修   仁安元年(一一六六) ~仁安元年(一一六六) 止  再任 
五五代  明雲   仁安二年(一一六七)~安元三年 (一一六七) 止
五六代  覚快   安元三年(一一六七) ~治承三年(一一七九) 親
五七代  明雲   治承三年(一一七九)~ 寿永二年(一一八三) 没  再任
五八代  俊尭   寿永二年(一一八三) ~寿永三年(一一八四) 止
五九代  全玄   寿永三年(一一八四) ~文治六年(一一九〇) 辞
六十代  公顕   文治六年(一一九〇) ~文治六年(一一九〇) 辞    
*建久元年(一一九〇)三月、再び天台座主を廻り紛争、寺門派の公顕を天台座主に補任、即座に山門派の猛反対止む無く辞任。
これ以降天台座主の寺門派、山門派の座主を廻る紛争が少なくなっていった。
て行った。
理由は時代は鎌倉時代に移り、互いに消耗合戦を繰り広げ、荘園は減少し、その勢力は衰退の一途を辿った。時代の趨勢は、浄土宗、禅宗、日蓮宗などに変わっていった。

 

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