「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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『鎌倉・室町の群像伝』1(全186回)118“足利基氏”足利基氏(1340~1367)南北朝時代の武将。第二代鎌倉公方。

2016-12-01 04:33:57 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』1(全186回)118“足利基氏”
足利基氏(1340~1367)南北朝時代の武将。第二代鎌倉公方。将軍足利尊氏の4男。足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349年)に次男である基氏を鎌倉公方として下し、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。『鎌倉九代後記』によれば、基氏は約6年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。父の死後、南朝方の新田義興を滅ぼすと共に、正平16年/康安元年(1361年)には執事として基氏を補佐していた畠山国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至る。後任には一時高師有を用いるが、正平18年/貞治2年(1363年)6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せる。この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られる。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可を基氏は武蔵苦林野で撃退した上、宇都宮征伐に向かう。途中の小山で小山義政の仲介の元、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固める。また、夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、五山文学や禅の普及を奨励するなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
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1 コメント

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仲介したのは別人物かも (長さん)
2016-12-02 15:21:51
足利基氏と宇都宮氏綱の、小山城での
会見があったとの記録の有る、芳賀禅可
の乱の1363年の時点で、小山義政が、
まだ元服前の子供であり、小四郎だった
可能性があります。お暇なときに、
小山市市史の資料編で御確認ください。
なお、その時点で、小山氏政は他界
しており、小山朝明という人物が、
中継していた旨が記録されていたように
記憶します。

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