「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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『歴史古代豆知識』27・殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、

2017-11-25 04:44:22 | 温故知新
『歴史古代豆知識』27・殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の大喪儀の一つとして行われる。『古事記』、『日本書紀』では殯、『万葉集』では大殯とされ、貴人を殯にした記録や、それを連想させる記録が散見されるが、具体的な方法などは記録されていない。『日本書紀』においては、一書の九でイザナギがイザナミの腐乱した遺骸を見た際「伊弉諾尊欲見其妹乃到殯斂之處」の殯斂や天稚彦(あめわかひこ)の殯「便造喪屋而殯之」(一書の一「而於天作喪屋殯哭之」)、巻8の仲哀天皇の死後にその遺体を武内宿禰による海路に穴門を通って豊浦宮におけるもの「竊收天皇之屍付武内宿禰以從海路遷穴門而殯于豐浦宮爲无火殯斂无火殯斂此謂褒那之阿餓利」があり、その後数代して欽明天皇(欽明天皇32年4月15日(571年5月24日)死去)32年5月に河内古市に殯し、秋8月に新羅の未叱子失消が殯に哀悼した「五月殯于河內古市秋八月丙子朔 新羅遣弔使未叱子失消等奉哀於殯是月未叱子失消等罷九月葬于檜隈阪合陵」と記述される。なおこのときは1年に満たない殯である。隋書に記録された殯、『隋書』「卷八十一列傳第四十六東夷俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一列傳第四十六東夷高麗」(高句麗)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内經三年擇吉日而葬居父母及夫之喪服皆三年兄弟三月初終哭泣葬則鼓舞作樂以送之埋訖悉取死者生時服玩車馬置於墓側會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことがうかがえる。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。皇室喪儀令第一章大喪儀第六條「大行天皇太皇太后皇太后皇后ノ柩ハ之ヲ殯宮ニ奉遷ス」とあり、附式第一編大喪儀に詳しく方式が記されている。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっており、戦後に於いては昭和天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている。
死後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間に諸儀式が行われ
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