「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「二十二社巡り」平野神社・京都市は北部、衣笠山の東麓に

2017-09-24 10:57:32 | 温故知新
「二十二社巡り」平野神社・京都市は北部、衣笠山の東麓に広がる平野の中心に平野神社がある。桓武天皇の平城京遷都に伴い田村後宮から現在地に僊祀された。祭神は今木皇大神・久度大神・古開大神・比売大神の四柱。『延喜式』の神名帳には「平野祭神四社」と見える式内社である。祭神では珍しい「皇大御神」「皇大神」と尊称される全国唯一の皇太子親祭とされた。平野神社の祭神は皇太子守護から別に源氏・平氏・高階氏・中原氏・清原氏・菅原氏・秋葉氏らから氏神よして崇敬されている。祭神には諸説あって主祭神の今木神は桓武天皇の母の高野新笠の遠祖、百済聖明王・仇首王・沸流王・肖古王の祖神とする説もある。貞観六年(864)今木神に正一位に貞観六年(864)久度・古開の二神に正三位、比咩神に従四位が叙された。平安中期より生じた「二十二社」の上七社の中』に数えられた。


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四国遍路記」安楽寺は徳島県板野郡上板町

2017-09-24 10:52:52 | 温故知新
「四国遍路記」安楽寺(あんらくじ)は徳島県板野郡上板町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第六番札所。温泉山(おんせんざん)瑠璃光院(るりこういん)と号する。本尊は薬師如来。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか・『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598)が今も残されており、宿坊はいらい400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945〜)が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。


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『歴史の時々変遷』(全361回)299上田騒動”

2017-09-24 10:45:18 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)299上田騒動”
「上田騒動」信濃国上田藩で発生した農民一揆である。宝暦11年(1761)に発生した一揆。上田藩宝暦騒動とも呼ばれる。明治2年(1869)に発生した世直し一揆。明治2年の上田騒動、巳年騒動、チャラ金騒動とも呼ばれる。宝暦11年(1761)、上田藩(藩主松平忠順)の農民約13,000人が上田城へ押し掛けた。この一揆での願いは、年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、中村弥左衛門をはじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢の徴収方法を従来の定免法から古来の検見法に戻し、農民を踏み台にして得た年貢で立身出世を謀ろうとした、とされている。一揆に参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民がほとんどであった。12月11日、諏訪部の河原に集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主は江戸に出府中で、家老の岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。岡部は農民達を前にして、「もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町で打ち壊しを行ったほか、小牧村(現・上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。宝暦12年(1762)1月9日、上田城に呼び出された農民は岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴は御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡した。農民たちにすれば、自分達の要求の大半が受け入れられたため、一揆は成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった。呼び出しから10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。宝暦13年(1763)3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783)に出獄し、寛政2年(1790)に84歳で死去した。


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「平安京物語」67“驕る平家”平氏政権

2017-09-24 10:39:11 | 温故知新
「平安京物語」67“驕る平家”平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)に登場した平清盛を中心とする伊勢平氏による政権。清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権ともいう。以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代・1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨[1]を画期とする見解と、治承三年の政変(1179年)の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。平氏政権に至る基盤形成は、白河院政期に遡る。平正盛は、桓武平氏貞盛流の伊勢平氏に出自し、その父の正衡までは軍事貴族の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、永長2年(1097年)伊賀国の所領を六条院(白河上皇の娘・郁芳門院の御堂)に寄進して鞆田荘を成立させた。正盛は預所となり、周辺の東大寺領も取り込んで立荘するなど、白河の政治権力を後ろ盾に東大寺や国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功した。立荘の背景には、東大寺や国衙の支配と収奪を逃れようとする田堵農民層と、自らの所領の拡大・安定を狙った正盛の間に利害の一致があったと考えられる。正盛は自らに服従した田堵を郎等・家人にして、武士団を形成していった。一方、白河上皇も権力維持のために、正盛の武力を必要としていた。当時の白河は院領が少なく、直属武力もほとんどなかった。しかも、白河に対抗する勢力として、異母弟・輔仁親王や摂関家を始めとする伝統的貴族が存在し、田堵農民層を神人・寄人に組織して巨大化した寺社勢力の圧力も熾烈だった。これらの諸勢力を抑えて国政の主導権を確保するため、白河は自らの手足である院近臣や親衛隊ともいえる北面武士を、受領・太政官・兵衛府・衛門府などの公的機関に強引に送り込んでいった。このような情勢の中で北面武士になった正盛は、出雲で源義親の濫行が起こると、嘉承2年(1107年)12月19日追討使に抜擢される。翌年正月には早くも義親の首を携えて華々しく凱旋し、白河は正盛を但馬守に任じた(ただし、その後も義親生存説が根強く残る)。これを契機に北面武士の規模は急激に膨張し、元永元年(1118年)延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記』)。正盛は主に、北面武士・検非違使・追討使といった国家権力の爪牙として活躍するが、各地の受領も歴任した。当時、国衙は在地領主・田堵農民層との闘争でその支配体制が危機に瀕していたため、武力による補強が求められていた。
正盛の子・忠盛も父の路線を継承して、院政の武力的主柱となった。その役割は鳥羽院政期となっても変化はなく、牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核ともいえる院御厩(いんのみうまや)の預(あずかり)となった。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神崎荘の預所となった忠盛は、大宰府の関与を排除して日宋貿易にも直接介入するようになった。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な武士の棟梁を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は海賊追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。仁平3年(1153年)忠盛が没したとき、藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の清盛に継承された。保元元年(1156年)、治天の君及び摂関の座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で清盛は後白河天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、政治を主導する信西と後白河院政派(藤原信頼・藤原成親・源師仲)・二条親政派(藤原経宗・藤原惟方)の対立が激しくなり、3年後の平治元年(1159年)に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。平治の乱後の永暦元年(1160年)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、後白河上皇と二条天皇の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、武士で最大の実力者となっていた清盛は室の時子が二条の乳母であったことから、天皇の乳父として後見役の地位を得て検非違使別当・中納言となった。その一方で後白河院庁別当として後白河への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産すると、平時忠・平教盛らはその立太子を画策したことで二条の逆鱗に触れて解官、後白河院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため皇居の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに関白近衛基実を娘の盛子の婿に迎え、摂関家にも接近する姿勢をとった。永万元年(1165年)に二条天皇が崩御した。前後して前関白藤原忠通(1164年 薨去)、太政大臣藤原伊通(1165年薨御)、摂政近衛基実(1166年薨去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。清盛は院近臣の昇進の限界とされていた大納言となり女婿の基実を補佐していたが、基実が急死して後白河院政が復活すると「勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くてやは有るべき」という理由で仁安元年(1166年)に内大臣へ昇進した。大臣に昇進できたのは摂関家(中御門流・花山院流も含む)・村上源氏・閑院流に限られていて、清盛の昇進は未曾有のものだった。なお翌年には太政大臣となるが、太政大臣はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任している。この時期の清盛の出世について「当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の落胤とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響した」という説もある。一方、橋本治はこれについて憲仁親王が立太子の式を挙げた場所が摂関家の正邸・東三条殿であったことに注目し、東三条殿の当時の所有者が清盛の娘の盛子であった(基実はこの立太子式の3ヶ月前に薨去)ことが強く影響したという説を立てている。橋本によれば、清盛はこの状況を奇貨として滋子の生んだ皇子の養母を「先の摂政の未亡人」である盛子に引き受けさせ、「東宮の養母の父親」である清盛が内大臣や太政大臣に出世する口実としたとされる。仁安3年(1168年)、六条天皇が退位して憲仁親王が即位した(高倉天皇)。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の院司として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。また、基実が薨去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室・盛子に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ基房は伊勢平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の長男・平重盛に軍事警察権を委任し、東海道・東山道・山陽道・南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって、院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。仁安3年(1168年)に清盛は出家した。政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、嘉応元年(1169年)から安元3年(1177年)まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。嘉応2年(1170年)後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であり、九条兼実は「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」(『玉葉』)と驚愕している。同年に藤原秀衡が鎮守府将軍になるが、日宋貿易の輸出品である金の貢納と引き換えに任じられたと推測される。これについても兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を任じたことは「乱世の基」であると非難しているが、これらの施策により日宋貿易は本格化していった。承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮とした。清盛一族と同様に、建春門院に連なる堂上平氏(高棟流)も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至った。『平家物語』によれば、平時忠は「平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と放言したと伝えられている。

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京都散策・八坂神社御旅所・京都市下京区四条通寺町東入

2017-09-24 10:10:10 | 温故知新
京都散策・八坂神社御旅所・京都市下京区四条通寺町東入 貞安前之町、四条通寺町にある八坂神社御旅所(やさかじんじゃおたびしょ)である。7月に行われる祇園祭で、山鉾巡航の後に行われる神幸祭で3基の御輿がこの御旅所に到着する。神幸祭での終点にあたる御旅所前での興奮は最高潮に達し、見物客も一緒に拍手で盛り上がります。1週間後に行われる還幸祭までこの地に3基の御輿が御旅所に滞在しています。
山鉾巡航は有名ですが、神幸祭の知名度はまだまだかもしれませんね。

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